カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

コリス

2012年05月22日 | 京都
「幼年期の終わり。」

本来ジャンルとは、その漠然としたイメージに対する思い入れによって語るべきものなのであって、神経質に過ぎるその詳細など、実はどうでもよいことであると内心思っているのではあるけれど、やはりこういう異形の料理を語るとなると、どうしても厳密な定義、その概念のようなものがちらちらと顔を覗かせ、ふと気が付くとその想念ばかりが頭の中で渦巻いている、そんな妄想に囚われてしまっている辛気臭い自分がいるということは、実際どうにも否定しようがない。

ざっくりと言えば、所謂、洋食としての限界領域、そのぎりぎりである、そう言っていい風味の洋食、それがこのコリスの洋食である。

球形に近いそのハンバーグは、切り分け、口中に含んでみれば、明らかに内臓系の風味がそこにふわりと広がる。
サーモンフライは、名前からすれば当然のことながら、やはり揚げ油の風味が勝ったフライそのものの味なのであって、例えばピカタのような上品さは、そこにはない。
切り分けずともチーズの蕩け出す勢いのカツレツ、そこに使われている大量のチーズというのは、これが洋食であるということを前提とするならば、非常に癖が強いと言い得るブルーチーズであって、まさかこれを、味覚的経験値の浅い幼い子供の舌が、すんなりと受け入れることが出来るなどとは、到底思えない、そんな代物である。

だがしかし、やはりそれでも、これらの料理というのは、年齢を問わず子供から老人まで老若男女、誰もが楽しめるジャンルであると世に言われる、あの洋食の一種なのである。

実は何年か前にこの店を訪れたその当時、安易に抱いていた、所謂、洋食であるという先入観を思いがけず裏切られ、これらの料理をどう思いつつ味わえばいいのか、それがわからずにかなり面食らってしまった、そういう憶えがある。

しかもそれにプラスして、当時と変わらず、この店の料理のボリュームは、ちょっと半端ではない。
それなりの金額であるから当然であると言えばそうなのではあるが、ちょっと食べ切るのに難渋する、それくらいのサービスであるのは、気持ちとしては有難い、だが実際は、戴いている途中から既に苦しい、そのような現実も無きにしも非ずといったところではある。

とりあえず副菜であるサラダ、そしてパン、その為のバターやマスタード、さらにはワインに付いてくるお通しなど、惜しみないサービスに乗せられてしまい、メインの料理以前にそちらで満腹近くになってしまわないこと、それがこの店で美味しく料理を食べ切るコツのようなものである。
それが何度か通ってみて、やっとわかったのではあるが、それでもやはり、欲に負けず抑え気味で食事を進行させることというのが、実行するにかなり難いというのは、全く以って言うまでもないことではある。

コリス洋食 / 清水五条駅祇園四条駅河原町駅
昼総合点★★★★ 4.0


ひみつ堂

2012年05月13日 | 東京
「日暮里の、ひみつ。」

日暮里(にっぽり)にある氷蜜堂(ひみつどう)、例えばその名が小物や古着を扱っているような店ならば、然程気に留まるようなことも正直なかっただろう。

日暮里の駅から続く道路が途中で途切れ、夕焼けだんだんと呼ばれる古びた階段を下った左手にある狭い路地に、そのかき氷屋は小さく小さく店を構えていた。
下町そのものの谷中銀座(やなかぎんざ)商店街の一角に、その店は在る。

おしゃれでも高飛車でもない、如何にも自然なその店構えは、運良くその日、混んでいるという程でもなかったからだろう、気負いなく好きになれる、そんな長閑な風情だった。

特別なことは何もない、そんな店内で戴く、うぐいす桜と名付けられたかき氷、その頂上には、桜の花びらの塩漬けが小さく載っていて、その仄かなしょっぱさが、程好く微妙な甘味をさらに引き立たせる。

広い谷中霊園を少々さ迷い歩き、じわりと汗をかきながら、おもむろに最初に辿り着いたのは、実は洋菓子店らしからぬ名のチョコレートの専門店で、しかしそれを差し置いてでも、やはり氷蜜堂に行ってみたい、そう思わせる何か、期待させる何かが、氷蜜堂にはあったと思う。

実際その後も幾らかの店に立ち寄ったのではあるけれど、久し振りに訪れた今回の東京旅行の終着点は、おそらくこの氷蜜堂であると、心の何処かでは感じていた、それはつまり、目的地もこの日暮里であった、取り立てて必然性はないのだけれど、そんなような気がしたのは何故なのだろうか。

この地を初めて訪れる者であろうとも、ほっこりと、何処か懐かしさを感じさせられてしまう、今も昔も、きっと日暮里という処は、そこはかとなくそういう町であるような、そんな気がする。

ひみつ堂かき氷 / 千駄木駅日暮里駅西日暮里駅
昼総合点★★★★ 4.0


ラ・ベットラ・ダ・オチアイ

2012年05月09日 | 東京
「穴子、以上の穴子。」

築地で穴子丼を戴こうかという考えもあった、だからおそらくはその想いから連想されて、やはり穴子が食べたかったのだろう、このイタリアンでも穴子を使った前菜を注文したのではあるけれども、もし何も知らずにいたならば、これが穴子だとは一見してもわからない、もしかすると、ひと口食べてみてもわからなかったかも知れない、それくらいに意外な料理がこの穴子の前菜だった。

どこをどう見ても、これまでに戴いたことのある穴子料理とはちょっと違う、それ程に、ひと手間ふた手間かかったその料理は、予想していたよりも遥かに提供に時間がかかった、それは事実ではあるけれど、それだけ待った甲斐のある、いや、もっと待っても惜しくない、本心からそう思える、そんな出来栄えの料理であった、流石である。

肉厚でふっくらと、しかし、しっかりとした食感をも保ち、穴子特有の風味はかなりほんのりと、正直、魚であることすら、ちょっとわからないくらいのその料理は、何と言っていいのか、これまで食べていたものとは次元の違う食べ物のようにすら感じさせる。
もう、この一品の提供、それだけで、ちょっと無理をしてでもこの店を訪れた甲斐があったと感じ入ってしまった、時間的にもおおよそ固いと思われる対案を蹴ってまで、駄目で元々と訪れてみて、やはり、本当によかったと、掛け値なしにそう思えたものである。

然程広くはない店内には、満員以上とも思える人が犇き、しかし、時間を争うような雰囲気の人物はそれでも居らず、皆が本当に食べることを楽しみに来ている、そう感じられる空気が、文字通り、充満している。
大袈裟を承知で言うのなら、客と同じ数の店員が犇いている、そんな印象さえ受ける給仕の多さ、調理人の多さでもある。

これだけの数の調理人を擁していて、それでも料理の提供が早い訳ではない、それというのは、本当にその料理一品一品に、一人づつのシェフが付きっ切りで手間隙を掛けて調理しているという、その証左なのだろう。

そして本当に、そうなのだろうと思えるような内容の温かい料理が、結果、提供されることになるのだから、その為に少々時間がかかろうが、待つ立場としても、何も不満を感じることもない、むしろ、次の料理への期待が膨らみ、待ち遠しいくらいである。

その日、その大勢のシェフの中に、有名人でお忙しいご当人が居られたのかどうかは定かではないけれど、たとえ彼が他のどんな商売に手を広げていたとしても、この本店の料理、それさえしっかりと守られていたならば、結局は誰もその遣り方に迂闊に難癖を付ける訳には行かないだろう、そう思わせる、ただ単に完成度が高いだけでは勿論ない、実に実のある、そして温かみのある、そんな料理の数々であった。


ラ・ベットラ・ダ・オチアイイタリアン / 宝町駅新富町駅銀座一丁目駅
昼総合点★★★★ 4.5


鳥九

2012年05月05日 | 東京
「新橋の宵の鳥。」

そんな大雑把な話を鵜呑みにする程のお人好しではない、そのつもりではあるけれど、それでもその機会が持てるのならば、少しは試してみてもいい、そんな気が起こるのを、無意味な意固地で押し殺す程には、カゲロウは頑迷ではなかった。

おおよそ、関東と関西で比較してみれば、圧倒的に関東の方がレベルが高い、そう喧伝されている大衆料理が幾らかあるということは、少なくとも多少は食べることに関心のある関西人ならば、そこはかとなく耳にしたことのある、聞き捨てならない風評ではあるだろう。

そんな中、カゲロウの脳裏に思い浮かぶその筆頭といえば、蕎麦、豚カツ、そして、焼き鳥、少々気になるのはそれらの類であり、その日の夜、タイミング的に、他でもないこの新橋に居ることになるのであれば、その中のひとつ、焼き鳥屋を素通りするなどという間抜けな行いは、おそらく長く尾を引いて、後々後悔しない訳にはいかないことになるのだろうと、カゲロウは己の未来の心境を案じることなしにはいられない。

2012年、4月の終わりの夜2200、長引く不況の真っ只中、どこか寒々しい雰囲気の祇園や新地とは違い、この新橋の夜の喧騒は、関西人にとってある種異様ですらある。

そんな雑踏から少し離れた細い路地、その片隅に、目指す焼き鳥屋はひっそりと小さく店を構えていた。
こじんまりと、思っていたよりも狭く、静かで、しかし明るいその店内は、畏まっているという程ではないけれど、砕けた雰囲気とも言い難い。

どこか茫洋とした雰囲気のその大将は、堅苦しさは感じさせないながらも、だからといって気軽に声をかけられそうな人物でもない。
己のペースを崩さない、紛うかたなきその職人的雰囲気の持ち主は、煙草を燻らせ、ジョッキを傾けながら、串を刺し、鳥を焼く。

と、おもむろにその場を離れ、店の表に出て別の戸口から入店し、そのままお手洗いに入り、直に出てくる。
おそらくは、弟子の仕事をチェックしているのだろう。

大将がふいと持ち場を離れると、弟子がすっとその場に立ち、そしてその鳥は、しかし間違いのないタイミングで火に炙られ、何事もなかったかのように客に提供される、その風情というのは、まるで何かの儀式のようですらある。

焼き鳥といえば酒の肴に過ぎない、そんな軽々しい認識とは程遠いニュアンスの料理が、6本、もしくは10本のコースでのみ提供される、それがこの焼き鳥屋唯一のメニュウのようである。

だが、かといって関西でありがちな、お上品な創作料理的風情の、一応は焼き鳥と称するようなものとは程遠い、如何にも食べる者の欲望に見合った、骨太な芯を感じさせる、焼き鳥以外の何ものでもない、そんな焼き鳥である。
カゲロウの、現実の記憶の中にはないけれど、心の中のイメージでは、そうあるべき、そうあって欲しいという想いを抱いていた、そんな焼き鳥でもある。

それはつまり、大枠としてイメージ的に心中描いていた料理と、然程かけ離れた焼き鳥ではない。
だがしかし、やはりそれは、あらゆる面においてカゲロウの予想したスケールを上回る、期待以上の焼き鳥だった、そのように言うべきなのだろうと、後になって尚更に、そう思える。

鳥九焼き鳥 / 新橋駅内幸町駅汐留駅
夜総合点★★★★ 4.0