「殉教者的、サヴァイバー。」
さて、どんな人柄を以て誠実であると言えるのか、それは結局、それを問う人物の価値観によるものでしかなく、過日、一度覗いて、材料切れで断った客の顔を憶えていてくれて、わざわざそのことを自分から詫びた上、再度の来店に礼を言うことの出来る人物のどの点をとったとしても、その誠実さを評価しないわけにはいかないのは、実際にそう言われて少々面食らった者としては、当然の成り行きと言える。
それはさておき、これまでの経験からして先ず頭に思い浮かぶ一乗寺のアルザスと同じくして、たったひとりの人物が全ての作業を賄うこのセクション・ドールでは、異様に少ない席数であるとて、客側の望む全ての手順にジャストには、サービスが行き届かないのは当然のことであり、提供する側とされる側、代金を支払う側と受け取る側、立場の違いは勿論あれども、それ以前に同じくひとりの人間でしかないという事実に対する配慮というのは、立場を越えてお互いにあって然るべきである。
一見して、アルザス以上に、強固な店主の美意識の表れを感じるその佇まいは、シンプルを通り越して殺風景ですらある。
柔らかさを感じさせない調度品でしつらえた店内は、しかしどこか、秘かに脈打つ印象を覚える、それは気のせいだろうか。
そして、4席しかない空間の奥にある、これもまた堅いイメージを与える調理場を見て、サイバーパンクという概念が脳裏をかすめるという人も、多少いなくはないのかもしれない。
落ち着いて席に着き、入り口すぐの天井から提げられた、剥き出しのハンガーを見上げると、たった今まで各々の客が着ていた上着が、アパレル店の商品であるかのように、まるで飾られているかのような妙な風情で、自分から離れた自分の一部が、自分のことなど、まるで無関係であるかのように、整然と澄ました様子でそこに並んでいることに、何とも言えぬ新奇さを感じずにはいられない。
そしてその違和感というのが、実はこの店内、この店の在り方と同種のモノであり、それらが共通の美意識に裏打ちされ、意図された風景であることに、ふと思い至るのである。
そんな心持ちで考えてみれば、料理も含め、何もかもがその方向を向いているのがわかるような気がするのも実際で、その思うところを事細かにひとつひとつ説明することも無理ではないのだが、わざわざそれを記すほどには親切にはなれない、それは訪れた各々が、自らの感性で以て感じればいいことであると思う故、あえて割愛したい。
そして、わかる人にはわかるその統一感こそが、仕向けられた意向の成り行きであり、店主その人であり、この空間でのワレワレは、文字通り、客でしかあり得ない。
メニュウはおおよそ一種類、タンドリーチキン、それしか存在せず、調理の合理性それ以前に、その料理一本で行くことが理想であるとの意識が見て取れる。
ワンプレートで供されることになる、チキンも野菜も皆、同じオーブンで同時に焼き上げられ、不思議なほどに均一に風味の浸透したその料理は、だからこそ、均等に素材の味が強調され、活きている。
あらゆる面で、これ以上、引けるモノのないような印象の、この店の在り方ではあるが、だからといって、足すべきモノなど何もない。
一般的な飲食店と比較すれば、足りないモノも多いと、実際、思われがちなのであろうこの店の在り方には、例えば100年先もなどと言うと、少々大袈裟なのかもしれないが、おおよそ世の中を牽引する価値観の在り方というのは、もしかするとこのようなモノなのではないかと思わせる気配が充ち満ちていて、おそらくいつの時代に存在していたとしても、無闇に未来を想わせる、そんな雰囲気がある。
そこに、彼の美意識に合わないモノは存在すべきではないのだが、実際には客であるその立場を利用しての無理な要求も、日々多々あることであろう。
そして、そういう状況を思い浮かべると、先日観たある映画のワンシーンを思い出す。
「アザーズ」というニコール・キッドマン主演のその映画で、その子供たちは、踏み絵を迫られた場合どうするべきかと、母親に問われる。
彼らは、心の中では変わらず信仰を保ちながら、とりあえず絵は踏んで、時の権力者をいなしておけば、その場はそれでよいと言う。
すると、正直者過ぎて融通の利かない母親は、そんなことでは地獄行きだと子供たちに諭すのではあるが、実は彼女のようなタイプこそ、サバイブ出来ずに殉教することで、自己満足だけを全うし、その結果というのは、結局権力者の思う壺でしかないという状況を生んでしまうのであり、実際、むしろ子供たちのしたたかさ、それこそが、生命体としての人間のしぶとさ、未来あるサヴァイバーとしての強靱さなのである。
要するに、このセクション・ドールも、出来ればそう在るべきなのであって、正義だの常識などという擬似的な客観性を大義名分に、理不尽な要求をする多くの客など、ハイハイと言って、いなしておけばそれでよい、彼は彼の思うまま、言われようが言われまいが、やりたいことを実現し、しぶとくそれを世間に見せつけてやればいい、一角の価値観を提示する新しい芽であるという自覚と誇りを保つこと、それこそが、存在として何よりも大切なことなのである。
そして、それが彼の中で徹底された、その上で、あえて凡人的センスしか有しない客として、ひとつ提言させてもらうとするならば、出来ればその設定された価格内で、最後にそこそこのコーヒーの一杯があれば、個人的には色んな面で非常に満足が行くのだが、さて、その厚かましい提案は、在るべき姿としての彼の美学に反するのモノなか、どうなのか、そのビジョンというのは、ついぞ凡人には知り得ず、彼のみぞ知る。
さて、どんな人柄を以て誠実であると言えるのか、それは結局、それを問う人物の価値観によるものでしかなく、過日、一度覗いて、材料切れで断った客の顔を憶えていてくれて、わざわざそのことを自分から詫びた上、再度の来店に礼を言うことの出来る人物のどの点をとったとしても、その誠実さを評価しないわけにはいかないのは、実際にそう言われて少々面食らった者としては、当然の成り行きと言える。
それはさておき、これまでの経験からして先ず頭に思い浮かぶ一乗寺のアルザスと同じくして、たったひとりの人物が全ての作業を賄うこのセクション・ドールでは、異様に少ない席数であるとて、客側の望む全ての手順にジャストには、サービスが行き届かないのは当然のことであり、提供する側とされる側、代金を支払う側と受け取る側、立場の違いは勿論あれども、それ以前に同じくひとりの人間でしかないという事実に対する配慮というのは、立場を越えてお互いにあって然るべきである。
一見して、アルザス以上に、強固な店主の美意識の表れを感じるその佇まいは、シンプルを通り越して殺風景ですらある。
柔らかさを感じさせない調度品でしつらえた店内は、しかしどこか、秘かに脈打つ印象を覚える、それは気のせいだろうか。
そして、4席しかない空間の奥にある、これもまた堅いイメージを与える調理場を見て、サイバーパンクという概念が脳裏をかすめるという人も、多少いなくはないのかもしれない。
落ち着いて席に着き、入り口すぐの天井から提げられた、剥き出しのハンガーを見上げると、たった今まで各々の客が着ていた上着が、アパレル店の商品であるかのように、まるで飾られているかのような妙な風情で、自分から離れた自分の一部が、自分のことなど、まるで無関係であるかのように、整然と澄ました様子でそこに並んでいることに、何とも言えぬ新奇さを感じずにはいられない。
そしてその違和感というのが、実はこの店内、この店の在り方と同種のモノであり、それらが共通の美意識に裏打ちされ、意図された風景であることに、ふと思い至るのである。
そんな心持ちで考えてみれば、料理も含め、何もかもがその方向を向いているのがわかるような気がするのも実際で、その思うところを事細かにひとつひとつ説明することも無理ではないのだが、わざわざそれを記すほどには親切にはなれない、それは訪れた各々が、自らの感性で以て感じればいいことであると思う故、あえて割愛したい。
そして、わかる人にはわかるその統一感こそが、仕向けられた意向の成り行きであり、店主その人であり、この空間でのワレワレは、文字通り、客でしかあり得ない。
メニュウはおおよそ一種類、タンドリーチキン、それしか存在せず、調理の合理性それ以前に、その料理一本で行くことが理想であるとの意識が見て取れる。
ワンプレートで供されることになる、チキンも野菜も皆、同じオーブンで同時に焼き上げられ、不思議なほどに均一に風味の浸透したその料理は、だからこそ、均等に素材の味が強調され、活きている。
あらゆる面で、これ以上、引けるモノのないような印象の、この店の在り方ではあるが、だからといって、足すべきモノなど何もない。
一般的な飲食店と比較すれば、足りないモノも多いと、実際、思われがちなのであろうこの店の在り方には、例えば100年先もなどと言うと、少々大袈裟なのかもしれないが、おおよそ世の中を牽引する価値観の在り方というのは、もしかするとこのようなモノなのではないかと思わせる気配が充ち満ちていて、おそらくいつの時代に存在していたとしても、無闇に未来を想わせる、そんな雰囲気がある。
そこに、彼の美意識に合わないモノは存在すべきではないのだが、実際には客であるその立場を利用しての無理な要求も、日々多々あることであろう。
そして、そういう状況を思い浮かべると、先日観たある映画のワンシーンを思い出す。
「アザーズ」というニコール・キッドマン主演のその映画で、その子供たちは、踏み絵を迫られた場合どうするべきかと、母親に問われる。
彼らは、心の中では変わらず信仰を保ちながら、とりあえず絵は踏んで、時の権力者をいなしておけば、その場はそれでよいと言う。
すると、正直者過ぎて融通の利かない母親は、そんなことでは地獄行きだと子供たちに諭すのではあるが、実は彼女のようなタイプこそ、サバイブ出来ずに殉教することで、自己満足だけを全うし、その結果というのは、結局権力者の思う壺でしかないという状況を生んでしまうのであり、実際、むしろ子供たちのしたたかさ、それこそが、生命体としての人間のしぶとさ、未来あるサヴァイバーとしての強靱さなのである。
要するに、このセクション・ドールも、出来ればそう在るべきなのであって、正義だの常識などという擬似的な客観性を大義名分に、理不尽な要求をする多くの客など、ハイハイと言って、いなしておけばそれでよい、彼は彼の思うまま、言われようが言われまいが、やりたいことを実現し、しぶとくそれを世間に見せつけてやればいい、一角の価値観を提示する新しい芽であるという自覚と誇りを保つこと、それこそが、存在として何よりも大切なことなのである。
そして、それが彼の中で徹底された、その上で、あえて凡人的センスしか有しない客として、ひとつ提言させてもらうとするならば、出来ればその設定された価格内で、最後にそこそこのコーヒーの一杯があれば、個人的には色んな面で非常に満足が行くのだが、さて、その厚かましい提案は、在るべき姿としての彼の美学に反するのモノなか、どうなのか、そのビジョンというのは、ついぞ凡人には知り得ず、彼のみぞ知る。