カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

セクションドール

2011年12月28日 | 京都
「殉教者的、サヴァイバー。」

さて、どんな人柄を以て誠実であると言えるのか、それは結局、それを問う人物の価値観によるものでしかなく、過日、一度覗いて、材料切れで断った客の顔を憶えていてくれて、わざわざそのことを自分から詫びた上、再度の来店に礼を言うことの出来る人物のどの点をとったとしても、その誠実さを評価しないわけにはいかないのは、実際にそう言われて少々面食らった者としては、当然の成り行きと言える。

それはさておき、これまでの経験からして先ず頭に思い浮かぶ一乗寺のアルザスと同じくして、たったひとりの人物が全ての作業を賄うこのセクション・ドールでは、異様に少ない席数であるとて、客側の望む全ての手順にジャストには、サービスが行き届かないのは当然のことであり、提供する側とされる側、代金を支払う側と受け取る側、立場の違いは勿論あれども、それ以前に同じくひとりの人間でしかないという事実に対する配慮というのは、立場を越えてお互いにあって然るべきである。

一見して、アルザス以上に、強固な店主の美意識の表れを感じるその佇まいは、シンプルを通り越して殺風景ですらある。
柔らかさを感じさせない調度品でしつらえた店内は、しかしどこか、秘かに脈打つ印象を覚える、それは気のせいだろうか。
そして、4席しかない空間の奥にある、これもまた堅いイメージを与える調理場を見て、サイバーパンクという概念が脳裏をかすめるという人も、多少いなくはないのかもしれない。

落ち着いて席に着き、入り口すぐの天井から提げられた、剥き出しのハンガーを見上げると、たった今まで各々の客が着ていた上着が、アパレル店の商品であるかのように、まるで飾られているかのような妙な風情で、自分から離れた自分の一部が、自分のことなど、まるで無関係であるかのように、整然と澄ました様子でそこに並んでいることに、何とも言えぬ新奇さを感じずにはいられない。

そしてその違和感というのが、実はこの店内、この店の在り方と同種のモノであり、それらが共通の美意識に裏打ちされ、意図された風景であることに、ふと思い至るのである。

そんな心持ちで考えてみれば、料理も含め、何もかもがその方向を向いているのがわかるような気がするのも実際で、その思うところを事細かにひとつひとつ説明することも無理ではないのだが、わざわざそれを記すほどには親切にはなれない、それは訪れた各々が、自らの感性で以て感じればいいことであると思う故、あえて割愛したい。

そして、わかる人にはわかるその統一感こそが、仕向けられた意向の成り行きであり、店主その人であり、この空間でのワレワレは、文字通り、客でしかあり得ない。

メニュウはおおよそ一種類、タンドリーチキン、それしか存在せず、調理の合理性それ以前に、その料理一本で行くことが理想であるとの意識が見て取れる。
ワンプレートで供されることになる、チキンも野菜も皆、同じオーブンで同時に焼き上げられ、不思議なほどに均一に風味の浸透したその料理は、だからこそ、均等に素材の味が強調され、活きている。

あらゆる面で、これ以上、引けるモノのないような印象の、この店の在り方ではあるが、だからといって、足すべきモノなど何もない。

一般的な飲食店と比較すれば、足りないモノも多いと、実際、思われがちなのであろうこの店の在り方には、例えば100年先もなどと言うと、少々大袈裟なのかもしれないが、おおよそ世の中を牽引する価値観の在り方というのは、もしかするとこのようなモノなのではないかと思わせる気配が充ち満ちていて、おそらくいつの時代に存在していたとしても、無闇に未来を想わせる、そんな雰囲気がある。

そこに、彼の美意識に合わないモノは存在すべきではないのだが、実際には客であるその立場を利用しての無理な要求も、日々多々あることであろう。
そして、そういう状況を思い浮かべると、先日観たある映画のワンシーンを思い出す。

「アザーズ」というニコール・キッドマン主演のその映画で、その子供たちは、踏み絵を迫られた場合どうするべきかと、母親に問われる。
彼らは、心の中では変わらず信仰を保ちながら、とりあえず絵は踏んで、時の権力者をいなしておけば、その場はそれでよいと言う。
すると、正直者過ぎて融通の利かない母親は、そんなことでは地獄行きだと子供たちに諭すのではあるが、実は彼女のようなタイプこそ、サバイブ出来ずに殉教することで、自己満足だけを全うし、その結果というのは、結局権力者の思う壺でしかないという状況を生んでしまうのであり、実際、むしろ子供たちのしたたかさ、それこそが、生命体としての人間のしぶとさ、未来あるサヴァイバーとしての強靱さなのである。

要するに、このセクション・ドールも、出来ればそう在るべきなのであって、正義だの常識などという擬似的な客観性を大義名分に、理不尽な要求をする多くの客など、ハイハイと言って、いなしておけばそれでよい、彼は彼の思うまま、言われようが言われまいが、やりたいことを実現し、しぶとくそれを世間に見せつけてやればいい、一角の価値観を提示する新しい芽であるという自覚と誇りを保つこと、それこそが、存在として何よりも大切なことなのである。

そして、それが彼の中で徹底された、その上で、あえて凡人的センスしか有しない客として、ひとつ提言させてもらうとするならば、出来ればその設定された価格内で、最後にそこそこのコーヒーの一杯があれば、個人的には色んな面で非常に満足が行くのだが、さて、その厚かましい提案は、在るべき姿としての彼の美学に反するのモノなか、どうなのか、そのビジョンというのは、ついぞ凡人には知り得ず、彼のみぞ知る。

セクションドール欧風料理 / 東山駅神宮丸太町駅三条京阪駅
昼総合点★★★★ 4.0


くつきそば 永昌庵

2011年12月23日 | 滋賀
「むかしむかし、あるところに。」

面白半分というのではなく、普通に戴ける範疇では、極太であると言っていい、
そんな類いのこの蕎麦には、まるで昔話のワンシーンで戴いているような、
そんな気のする素朴な豪快さがある。

さらに言うならば、そこまで非現実的な状況をイメージしなくとも、
夏場、この閉じた隠れ里の、意外なほどに開けた河原で、
昼間、存分にはしゃぎ、遊び、そして陽の傾いたその後で、
何の遠慮もなく、空きっ腹にわしわしとかき込むには、
野太く、野趣溢れるこの蕎麦ならば、きっと何の不足もない、
そう思わせる風情が、この蕎麦にはある。

実際には、既に肌寒い季節になってから、
既に陽も傾いた時間帯、黄昏時に訪れたゆえに、
とち餅の載った温かい蕎麦を戴いてもみたのだが、
それもまた、昔話のワンシーンを思い起こさずにはいられない、
そんな朴訥で素朴な味わいで、
経験したことのない、しかし、誰しもの心の中にある郷愁を誘う、
そんな温かみのある風情であった。

所用の帰り道、急ぎ足で通りすがった、限られた時間の中で、
後ろ髪引かれる思いで通り過ぎた、その地の心象風景というのは、
その蕎麦と、餅と、広い河原のもたらす印象によって、
微かな記憶ながら、まるで夢の中での風景のような、
そんな懐かしげな残像を、今も心の片隅に残している。

くつきそば 永昌庵そば(蕎麦) / 高島市その他)
夜総合点★★★☆☆ 3.5


越畑フレンドパーク まつばら

2011年12月17日 | 京都
「甘味蕎麦。」

蕎麦切りは、しゃり、と音がするのではないかと思う、それ程に、凍る寸前ででもあるかのような冷たさで、しかも極細である。
つなぎのない蕎麦をできるだけしなやかに、美しく見せ、尚且つ、ぼそぼそと千切れてしまわないようにするための苦心が、そこに見て取れるような気はする。
だがしかし、冷た過ぎる状態の蕎麦というのは、当然のこと香りは立たず、その味わい、そして風味よりも、あえて食感、そして見栄えが優先されている、そのように、思える。

そして、そのほのかな風味を、それでも味わわんがために、つゆの風味は極限まで、淡く、淡く、故に、深い褐色の色合いとの違和感は拭えず、結局、物足りなさを感じた挙げ句、意外にも、精進料理張りに野菜ばかり、そんな天麩羅に添えられていた塩で、主役の蕎麦切りをも戴いてしまった。

上質であることは間違いないけれども、見方によっては上品過ぎる、蕎麦を打つ側にとっても、食べる側にとっても、非常に難しい選択、葛藤が、そこにはあったように思う。
だがそれでも、その選択肢を選び抜いた意図というものも、そこにはやはりある。
何も考えられていない、ただ駄目な面だけが目立つ蕎麦というのでは決してなく、やはりこの蕎麦の有り様というのは、それなりに、その種の蕎麦としては、一角であるとも思う。

ただ、蕎麦づくしの本格的な蕎麦屋では、よくあることなのではあるが、蕎麦独特の風味を最も醸し出し、漂わせている存在、それというのが、結果、蕎麦茶であるというのは、その風味自体は勿論嬉しいのではあるが、蕎麦切りそのものの存在意義に関して、いつも、少々不甲斐ないような、そして同時に、気の毒なような気もしてしまうというのは、気まずいながらも正直なところではある。

そしてしかし、この蕎麦づくしのお品書きの中で、実は特筆に値すると思えたもの、それはまさに意外なことに、蕎麦プリンと命名された代物であった。
実際に戴いたところ、これはもう、プリンという範疇の代物ではない、立派なオリジナリティを持った、一角のスイーツといっても過言ではない風味、そして舌触りである。
一般的な何かに似ていれば、その食べ物は、何かのようであったと言えるのではあろうが、それは微妙に何にも似ていない。
所謂プリンでは決してなく、勿論のこと、蕎麦でもない。

その原料が何であるのか明かさずに、そのプリンと称するものを世界的な品評会にでも出せば、それが何なのかは判明せずとも、おそらく何某かの賞なりを獲ってしまうことだろう。
一般的なプリンの原材料と、蕎麦の実で作られたのであろうこのスイーツには、和菓子であるとか洋菓子であるとか、そういうカテゴリーを超えた、立派な、個性ある美味しさがある。

そしてさらには、此処には、蕎麦搔きで出来た善哉なる甘味まで、存在するという。
次回訪問の折には、主役の蕎麦切りを措いてでも、是非その料理、食さねばなるまい。

越畑フレンドパーク まつばらそば(蕎麦) / 京都市右京区その他)
昼総合点★★★★ 4.0


竹松うどん店

2011年12月09日 | 京都
「虹の麓。」

うどん巡礼とやらの始まるほんの2、3日前、まだ夏の盛りの8月の終わりに、偶然にも所用の出来たこの綾部で、何処かめぼしい食事処はないかと白羽の矢を立てたのが、この竹松うどんだった。
ただ、このうどん屋の存在を知ったからには、そもそもの所用は二の次、竹松うどんへの訪問が、否応なしにカゲロウの意識の中での主たる目標となったのは、その噂の異形見たさに、無理もないことであっただろう。

国道27号から離れてどのくらい車を走らせたであろうか、舗装はされているものの、車輌が通る為に作られたのでは全くない、そんな狭い道幅の、昔ながらの農道の奥、そこそこに家屋が密集している集落の一角に、その建物は在った。

蔵を改造したと思しき建物の角を曲がり、舗装されていない駐車場に車を止めるとその脇に、バニラと名札の付いた犬小屋がある。
覗いてみても、そこには何ものの影もなく、少し離れた木陰、木の根元で舌を出し、居座る暑さに喘ぐ犬が居る。
この気温、然もありなん。人間だって、全てを放り出し、舌を出して木陰で寝ていられることが許されるのなら、そうしていたいのは、誰しもやまやまだろう。

程々に余裕のある敷地内に、全く以って手造りとしか言い様のないその家屋は建っている。
あらゆる所に粗が見え隠れするものの、気安く手軽なリフォームなどとは決して言えないし、言いたくはないと思わせるその風情というのは、好意的に見れば、ひたすらに微笑ましく、こんな調子で家を建て、世の中を渡って行けるのなら、実はそれこそが、本当の意味での人生であると言えるような、人間的在り方、それがまさに、このようなものであろうことを、訪れたカゲロウに思い起こさせる。

勿論のこと、クーラーなどはなく、気持ちばかりの扇風機が心許なく回り、生温い微風が吹くばかりのその店内。
それでも外の炎天下と比べれば、不足など感じることもなく、こんな状況でも人間は涼しいと感じることが出来るのだ、やはり本来は。

薄暗い蔵の中で寛ぎ、椅子も座敷もそれぞれに、思い思いに脱力して待つうどんは、これもまた手造り感溢れる代物で、そこに何らかの粗を見つけようと思うような意地の悪い人間ならば、何の苦もなく、その残酷な喜びを多々見い出すことも出来るのだろう。
だが勿論、そんな人物は、この空間に相応しくはない、冷やかしになど、来るべきではない、特にこの素朴で貴重な空間においては。

意趣的に、子供の頃の夢のままを実現したような、この一帯というのは、実際、うどんのテーマパークと言っていいような風情で、例えば本場讃岐にも、そのような類のうどん屋は存在するのではあるけれど、大型バスで観光客が大挙乗り着け、システマチックにうどんが提供されるそれとは、此処は同類ではあっても同じではない。
商売以上にその場の空気、その雰囲気が大切なのであり、此処で金銭の授受が行われる、その当然のことすら、少し残念な気持ちを催さずにいられない。
かといって、此処で戴くうどんの代わりに、何か物々交換できるような価値のある物を、今の自分が有しているのかといえば、そうでもない事実に気付かされ、日々ひたすら一方的に何もかもを消費しているばかりの自分に、言い訳しようのない恥ずかしささえ覚え、カゲロウは愕然とさせられる。

もぐもぐと、おかずのように味のするうどんを咀嚼しつつ、気のせいか、仄かな酸味すら味わいながら、この不揃いな切り口がいいのだと、そのうどんのあらゆる面を肯定したい、そんな気分になっている自分が居る。

例えば、虹の麓に在るような、実在はしないとされる夢の国と比べれば、やはり幾分かは現実的にならざるを得ないこの竹松うどんであったとしても、間違いなくその存在は、とても貴重なものの表れで、己の狭量な価値観だけを信じ、自らの心地良さだけを何よりも優先するような、そんなぎすぎすした悪意の芽の持ち主にだけは、此処には本当に来て欲しくないし、出来得る限り、同席したくないとカゲロウは思う。
朴訥で野趣溢れるその風情ながら、壊れやすいナイーブな理想を実現したその姿が、素直で肯定的でありさえすれば、此処では実態として見て取れるような、そんな気がカゲロウにはするのだ。

竹松うどん店うどん / 綾部市その他)
昼総合点★★★★ 4.0


手打ちうどん 団平

2011年12月02日 | 大阪
「今更巡礼・・・諦めました。」

然程、料理の質に拘ることもない、そんな通りすがりのドライバーが、胃袋を満たす為だけに立ち寄る類の御店に見えなくもない、民芸調の小奇麗なその出で立ちは、黒を基調にしてはいるものの、雰囲気が暗いという訳ではなく、やはり、狙い通りに、客層を問わず、入り易い雰囲気ではある。
此処は、第4回関西讃岐うどん西国三十三ヵ所巡礼に参加中の御店で、その45番札所なんだよと教えてもらわなければ、個人的には、通りすがりに入ることなど決してなかったであろう、良くも悪くも商売に対しての貪欲さを窺わせる、その御店の在り様である。

当然の事、大箱であることは、商売に対して本気であることを明確に示し、カゲロウにとっては、提供する料理に対して本気であることと、客を沢山捌く事、その両者が両立することというのは、実際のところ、おおよそあり得ない、大きな矛盾であるように感じられ、それは例えば、あまりにも誰彼なしに人当たりがいいことと、人間的な中身の充実というものが、内的に共存することは、実際、心理構造的に不可能であるのと同様であるかのように、カゲロウには思えるのだ。
つまり、チェーン店的大箱の御店に対し、深みのある何をも期待してはいけないとの先入観が、カゲロウにとっては、先ずその存在自体を軽くしてしまっているのが、常ではある。

しかし実際、何事にも例外はあるもので、教えてもらったこの御店は、その概観に似ったメニュウ、揚げ物や御膳料理の充実は勿論、それとともに、やはり、何といっても、その本格的な、気合の入ったコシのあるうどんの提供に、その特色が見られる訳である。
ただ、それは、一般的なユーザーの視点からの話であって、実際のところ、日々何より、うどんをメインに考える、そんな類の人間からすれば、何故、このうどんを提供できる腕前なのに、専門店ではなく、しかも、こんなに大箱なのかという疑問が、脳裏に浮かばぬはずはない。

だがこの御店では、腰の曲がった御婆ちゃんが、腰の強い饂飩を食べる、そんな姿に励まされる麺好きも居るというような状況が、実際にあるという、そのくらいに、あまりにも一般的な客層、あまりにも一般的なそのメニュウによって、その存在が認知されているのである、あくまで、世間一般的には。

そしてそれは、何ら悪い事ではあり得ず、むしろ、専門店に行かなければ旨いうどんを食べる事が出来ない、そんな多くの現実よりも、むしろ、おそらく、理想というものに程近い、そういう風景が、此処にこそ現出している、そういう事なのであろう。

ちなみにこの御店では、巡礼メニュウというものが存在するのではあるが、あわよくばと思い、そのカレーうどんの類をカゲロウは所望してみたものの、残念ながら、その為のスタンプ用の台紙切れ、申し訳ありませんということで、つまり、今更の巡礼参加は不可能、そのメニュウを食べる資格すら得られないという、予想もしなかった、しかし、思い入れのない人間には、それも当然と言っていいような報いが、当のカゲロウにもたらされたのであった。

手打ちうどん 団平うどん / 御殿山駅
夜総合点★★★★ 4.0