カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

おけしょう鮮魚の海中苑

2011年06月29日 | 兵庫
「海中苑、にて。」

城崎温泉には、外湯が7つ、在るワケですが、
近場の宿に宿泊しますと、その全部の出入りがフリーになる、
そのようなパスを戴けます。

例えば、そのパスなしで外湯に全部、入場すると、一軒につき600円~800円、
つまり、5,000円近くかかるワケで、それは、おおよそ素泊まり一泊に相当する、
そのような、微妙な仕組みがあるワケです、この地には。

それならばというコトで、この地を訪れた湯治客は、宿に宿泊し、
ついでに食事も宿でとろうかという成り行きになる、
そのような算段なのでしょうね、この町の観光課としては。

それはそれで、悪くはない、
ですが、宿で食事をとるというコトは、
それ以外の外食は、事実上、不可能になるというコトでもあり、
合理的ではあるかもしれないけれど、それではちょっと、物足りない、
それどころか、何事にせよ、合理的であることにかまけて、
自分以外の人間の引いたレールの上を走るだけ、そんなコトでは、
人生を生きる意味もないと、思えるワケです、個人的には。

さらに言えば、そのシステムを、業者的に町ぐるみで尊重するという約束が、出来ているのかいないのか、
おおよその外食可能な店舗というのは、夕方6時を待たず、暖簾を下ろしてしまうという、この徹底ぶり、
そこに、どこか世知辛さを感じてしまうのは、やはり、宿で宿泊するにもかかわらず、食事の予約はしていない、
そのような立場からでしょうか。

いずれにせよ、訪れる機会の少ないこの地で、出来る限り多くの味覚を堪能したいという思惑を抱き、
そのような仕打ちも、ある程度は覚悟と決めて来た、それ以上、
例えば、但馬牛を手軽に戴ける御店が、まったく辺りに見当たらない、そのような不思議を感じつつも、
それならば、宿の名物、但馬牛のスキヤキ鍋に対抗してというワケではないにせよ、
存分に海の幸を戴きましょう!ということで、この海中苑にて、到着直後の昼と、夕方、閉店間際に連続で、
予め予習していた気になるメニュー、その制覇に挑んだ、そのような次第です。

炙り穴子丼、海鮮丼、のどぐろの塩焼き、穴子の天麩羅、飛び魚のお造り、蟹玉丼など、
とりあえず、食べてみたいと思う、そんなお料理を、無謀にも、夫婦ふたりで片っ端から戴いてはみたものの、
当然の如く、この海中苑のバリエーションを味わい尽くしたとは、到底、言い難い、
そのような結末にて、この地を立ち去らざるを得なかった、実際、そのような体たらくではあったものの、
出来ることなら、自分たちの組んだプランで、旅行を、そして人生を楽しみたいと企んだワレワレは、
食い逸れるような自体に陥るかもしれないというスリルをも、多少は内心抱きつつ、
結果、満足、納得の行く旅行と、目出度くも、相成ったのでありました。

但熊

2011年06月25日 | 兵庫
「TKGの唄。」(正式名称、知らず)

朝ご飯に参上!である!
卵かけご飯を戴く、ベストのタイミング、
それは言うまでもなく、朝ご飯、それ以外にはない。

ご飯を、お椀一杯注文につき、生卵食べ放題の、このシステム、
そうは言われても、そう何個も生卵ばかり食べることが可能な訳ではないのである、
人間の身体というのは。
しかも、朝ご飯ではなかったとしても、生卵で腹いっぱいになってしまうと、
その後の食事に支障を来たすこと、請け合いである。

そこで、熟慮、熟考の末、夫婦ふたりで、
味噌汁、漬物付きの大盛り(450円)を、ひとつ、
そして、オムレツ(250円)を一皿の、謙虚な注文である。
結果、ご飯を四分割の上、卵を4つ、様々の風味の出汁醤油、七味、海苔などにて味付けし、
各々が、通常に言えば、茶碗2杯分づつの卵かけご飯を、オムレツをオカズに、戴く。
うむ!流石!TKGの聖地、文句があろうはずもない、絶品である!

ところで、厳選した、そのつもりであっても、この一食で、
結局、朝っぱらから、卵を何個、戴いたことになるのであろうか。

店内は勿論、店外にも流れ続ける、TKGの唄(正式名称、知らず)、
聞くとはなしに聞いていると、かなりムチャな内容である。
TKGのお椀を、自由の女神に持たせたい!とか、
モアイ像のオデコで、卵の殻を割りたい!とか、
無邪気を通り越して、無謀ですらある。

それを、子供は勿論のこと、
お色気お姉さんや、陰気なおじさんが、
代わる代わる合唱である、気にならない訳はない。

思うにこれは、役場の観光課の人員、その家族を総動員したのではなかろうか、
皆がノリノリで、「ティーケージー!」と唄う、その姿、
せっかくならば、PVも製作し、放映してみるというのはいかがでしょうか?

大江山鬼そば屋

2011年06月23日 | 京都
「原始蕎麦。」

かつて日本には、鬼が居た、

そのくらいの昔、江戸時代の中頃までは、
蕎麦と言えば、麺状の蕎麦切りではなく、
ねっとりとした餅のような塊、蕎麦がきだった。

だが、それでは、風味に少々差異があるだけで、
食感は餅と変わらず、今ひとつ、食べる楽しみというものに欠ける。
そして、さらに言うと、場合によっては、食べ難い。

ならばということで、さらに練って、細長く切り分け、熱湯で茹でて、
晴れて、蕎麦切りとして、カタチになったと、そういうワケである。

鬼蕎麦が、何故に、これ程に、風味、食感、共に荒々しいのか、
それは、その当時の、蕎麦切りとしての原型、
良くも悪くも、そのままを、今もその姿に残しているから、

これが、蕎麦切りの、原始の姿なのである。

この話、あなたは、どこまで本当だと思いますか?

なり田屋

2011年06月19日 | 京都
「焼肉屋の、真価とは。」

言うまでもなく、
牛丼は、すき焼き風であって、
焼肉丼は、焼肉風なのです。
だから、焼肉屋の丼物といえば、
焼肉丼であるのは、必然なのです。

しかし、すき焼き屋のメニューに、
おおよそ丼物がないのは、どうしてなのでしょうか。

それは兎も角、
丼物専門店と、焼肉屋の提供する焼肉丼、
そこには、品質としての、雲泥の差がある、
それも、必然である、そう思っていいのかも知れません。

それは、最初から、半端な部位の肉だけを卸から仕入れている実際と、
多くの部位を仕入れして、その中から、その日に余った部分を、
丼物に回している、その差でありましょう。

つまり、最初から丼物の為に選り分けた部位で、
毎日、おおよそ均一な焼肉丼を作り、提供している店と、
焼肉そのもののように、日々、ある程度の品質的差異はありつつも、
可能な限り、その日、最良の部分を提供しようという方針の御店、
その異なった志の御店が、世の中には混在している訳であります。

正直、夜の食事に関しては、
目が飛び出るとは、まさにこの事だと言うに相応しい、
そんな強気な価格の当有名店、
ランチの焼肉丼に関しては、非常にリーズナブル、
そして、その分、凡庸であります。
その丼物に対するスタンス、推して知るべし、
そのように言ったところでしょうか。

以下、少々、文章を綴ってみたのではありますが、
あまりに個人的見識に偏ってしまった、
そのように見受けられるが故、分別を以って、
自主的に割愛させて戴きます。

走井餅老舗

2011年06月12日 | 京都
「男山の麓にて。」

看板商品は走井餅、
それは勿論、存じ上げておりますが、
生麩のお餅、それが在るとなりますと、
それを戴かない、そんな訳には参りません。

しかし勿論、此処まで来たからには、
走井餅も、戴きたい、当然のこと。

そこで都合良く、このふたつが、
セットになったメニューです。

煎茶と合わせて、390円ポッキリ!
カフェでコーヒーを一杯戴く、
その程度のお代金で、
雰囲気の良い御店にて、
甘いものを戴きながら、

男山山頂の石清水八幡宮を見学した後、
ほっこりと腰を落ち着かせることが出来る訳です。

包んだ竹葉に、へばりつく生麩餅、
これを綺麗に、行儀良く戴くこと、
それは、かなりの至難の業ではありますが、
口中にて餡と一体化し、
甘さを中和する生麩餅の食感は、
他に代わり得るものはありません。

ところで、それにしても、
お餅を戴きつつ、少々想いを馳せますと、
昔話の、仁和寺の老僧は、
本当に気の毒なことでしたね。

風来房

2011年06月09日 | 京都
「黄竜よ、こんにちは。」

そろそろ、青龍の季節かな・・・
と!黄竜ですか!こんにちは。
これは!注文しない訳にはいきません。

カリーつけ担担麺、平日限定ということで、
唐辛子マーク、目一杯の5つですか!しかし、戴きます!

ひと口目、うむ、旨いじゃあないですか、
辛さも、最後まで何とかなりそうです。

麺を浸し、啜りつつ、
氷水を、がぶ飲みします。
最終的には、コップ5杯以上は飲んだでしょうね、
軽く1リットルは、飲んでると思います。
汗もそのくらい出たのかも・・・。

結構辛いので、つけ汁が少々余ってきそうです。
ということで、白ご飯は必須ですね!

レンゲにご飯を載せて、
つけ汁に浸します。
こうして戴くと、まるきりカレーライスですね、
しかも、そんじょそこらのカレー、
それ以上に個性のある、
独特の出来ですね!このカリーは。

で、最後の最後、出汁を足して、
カレースープにして、戴きます。

結果、3種類の食べ方をさせて戴きました。
言い方は何ですが、ホント、辛いだけではない、
潰しの利く、深みのあるお味ですね!こちらのカリー。

いやいや、ごちそうさまでした!

あ、ちなみに青龍は、7、8月の限定商品らしいです。
もう暫くですが、楽しみですね!と。

アルザス

2011年06月06日 | 京都
「彼が、充満している。」

以前に来たことのある客なのを、憶えているのかいないのか、
行き当たりばったりの冗談を、少し真面目ぶって、
しかし、にこやかに、隙あらばと、彼はぶっ放す。
それは、ありがちな、お約束半分、
だが、初対面としては、かなりの冒険である、
そう言えなくもない、そんな類の冗談で、
色んな反応に出会ってきたのだろうと思わせる、そんな雰囲気が、
微妙な彼の眼の光から、そこはかとなく窺える。

たったひとりで、注文を取り、調理し、サーブする。
その前に、床を掃き、窓を拭き、灯りを燈す。
その前に、食材を仕入れ、下拵えもする。
その前に、電気代を払い、税金も、払う。

此処で提供される料理の肝心なトコロは、
おおよそ下拵えにあり、
あとは加熱して、サーブされるだけ、
そのような類のものが、多いようだ。
だが、ただそれだけの説明では、
此処の料理が内包する、不思議な魅力を理解するのに、
どこか足りない、そんな何かが、間違いなくある。

そこにあるのは、小さなアイデアである。
カタチをとった、ひらめきは、
言葉にすると、安っぽくなるのを避けられない、
だから、それは、黙っておこう、
行けばわかる、ぜひ驚きに、行くことだ。

全てが、彼の独壇場、
アルザスには、彼が充満している。

フランス料理 レジョン

2011年06月02日 | 京都
「知らない自分を、もっと知りたい。」

前菜とメイン、それぞれを3種類、当日3名で予約して寄せて戴き、取り分けることの出来たその状況は、結果的に、望んでいた以上の味のバリエーションを訪れた我々にもたらし、満足感と至福の時を与えてくれました。

想像していた以上に、家庭的な雰囲気、そういう類の緩さのない、プロ意識の高い御店であったことは、失礼ながら、少々意外ではありました。
御店の雰囲気、お料理などのスタンスとしては、ちょうど、大阪、天満の有名店、ランデブー・デ・ザミと、かなり近い印象を抱きましたが、お料理の質としては、こちらの方が、より確りとした調理、味付けで、個人的には、その雰囲気に、過不足のないその味、断然、こちらのレジョンに軍配が上がります。

フレンチ、そして、イタリアンなどに求めるべきもの、それは、やさしい薄味などでは決してなく、この容赦ない味付けの濃さ、深さであり、あえて言えば、本国で戴いたことのある諸々のお料理の味付けは、まだまだ、こんなものではなかった、そんな印象さえ、個人的には植え付けられている次第で、それを踏まえて、何を期待し、何を覚悟すべきか、その手の御店に伺う時には、先ずは己に問いかける、そういった事も、御店の側の期待に沿うべき一人前の客としては、必要なのではないか、そのような気は、いたします。

その御店に伺うのであれば、その御店が具現化したいと思うヴィジョン、少なくともそれに沿うつもりがない、そうなのであれば、相対する、いち人間として失礼である、それは、金銭を払う側、受け取る側、それ以前の問題として、誰しもが認識しておくべきことであるのは、言うまでもありません。

特色のあるその方向性に、先ず間違いがなく、トコトンそれを追求しようという気構えのある御店、しかし、それに付いて行けないような、そもそもが素人でしかないような客が、自分の嗜好に合わせて、然も、その見識が絶対的なものであるかの如く、その御店、その料理を語ること程に、身の程知らずなことはなく、自分の持つ味覚が、自覚を持ちつつ料理を提供する、その御店について行けない、そうなのであれば、ただ黙してさえおれば、それでいいのであり、それは、恥をかきたくなければ、尚更のこと。

人間の一生で、味覚というのは、経験値が低く、未だ未発達な状態であることもあれば、既に、経験でカバーすることが困難なくらいに、衰えて行く一方の状態となってしまうそのことも、誰しもにとって当然の成り行きである事実は、人間存在の必然、そう言わざるを得ない、それが現実であり、もし自分が、味が薄いだけと感じたのなら、己の未発達な味覚を謙虚に受け止め、味が濃いと感じるのなら、己の味覚に対する耐性、その衰えを、先ずは疑うべきなのです。

例えば、年齢的、肉体的に、濃い味付けに堪えられなくなった、そのような人間が、わざわざ此処に来て料理を食べ、自分の口に合わなかったなどと言う、そのようなことが、もしあるとしたら、それは甚だ筋違いなのであって、容姿がどうだ、懐具合がどうだとの問題などでは、決してなく、そういう人物がその場に居る、それこそが、まさに場違いと言っていい状況でありましょう。

己の欲するものを知ること、そして、今現在の己を知ることが、人間誰しも、社会に対する第一歩であり、ある面、究極の命題でもあるのです、おそらく、人生というものは。