カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

さくらぐみ

2011年04月27日 | 兵庫
「それは、特別な、場処。」

「ワタシニ・・・」
その外国人の給仕が、何と言ったのか、
咄嗟に聞き取れなかったふたりは、顔を見合わせた。
その様子を見た彼は、改めて、ゆっくりと言い直す。
「ワタシニマカセテモラエマスカ?」
すかさず、はい勿論、と応え、
彼は満足気に、エスプレッソに砂糖を継ぎ足す。
身の竦む濃厚さ、胃がきゅっと引き締まるような酸味、
これ以上は不可能なほどに、凝縮された苦味、
だがそれが、彼の主張であり、彼の国の日常なのだ。
此処に来たからには、敬意を表し、
それに従うのが、当然の礼儀である。
意を決して、一切の手を加えず、
最後の一滴まで、その小さなカップの
慣れない黒い液体を飲み干す。
見たことのない食材、見たことはあっても、
思いも寄らない調理を施された料理のオンパレードだった、今日、
それらは、岬の先端にある、この立地が象徴するかのように、
何もかも、特別と言うに相応しい料理の数々だった。

予約の時間に30分ほど余裕を持って到着したその場処は、
そこに用がなければ、何かのついでに立ち寄る事など誰もない、
そんな静かな場所で、海を臨む断崖の上にある神社の、
まだその先にあった。
車で入ることも出来ない崖っぷち、
その崖の下では、何か食材が取れるのであろう、
何人かの人たちが、小さな鍬で、
潮の引いた水際を掘り返している。
海に突き出た岩山に登り、周りを見渡せば、
遠くに浮かぶ、瀬戸内海の小島。
太陽が落ちるその前に、此処に来ることが出来て、
本当によかった。

時間までは、建物の中に入る事を、許されない、
それは、劇の幕が開くのを待つかのようで、
意図的などんな演出よりも、来た者の心を
ざわざわと騒がせる。
その場を取り仕切る給仕の所作、
そのひとつひとつが、いちいち驚きを提供する料理の数々、
そしてその量、すべてが特別だったあの場処。

そして思い起こす、彼のあの一言。
「わたしに仕切らせてください」
そう言ったのだ、彼は、きっと。

須崎

2011年04月24日 | 香川
「いつまでも、心の中で、そのままで。」

一生に一度だけでも、此処に来れてよかった、カゲロウは、そう思った。

だが、そんな場所ではあるけれど、此処のうどんを食べて育った子供は、
ある意味、不幸だと、ふと思う。
なぜなら、そんな幼児体験を持つ人は、このうどん以上のうどんには、
その後の人生において、おそらく出会うことはない、
そう思えるからだ。
ある意味、カゲロウ自身も、もう二度と、此処には足を運ばないほうがいい、
そうなのかもしれない。

山間の、少し入り組んだ路地の中の集落、
雑貨を扱うその食料品店の、舗装もされていない粗い地肌の駐車場、
そんな剥き出しの場所で、恍惚として、小ぶりな黒いどんぶりを持つ、若い女の子。
ああ、此処がそうなのだと、ひと目で覚る、その光景ではあるが、
言うまでもなく、その状況というのは、不自然極まりない。
それは、朝、目覚めて考えてみれば、苦笑して、自分の正気を少々疑う類の、
こんな場所で、こんな人物が、そんな事をしているわけはない、
そんな、変な夢、あの感覚である。
だが、此処ではそれが、紛れもない現実なのだ。

おそらくは、そんな彼女の先程と同じように、
店内を覗き、うどんは戴けますかと尋ね、しばらく待つようにと言い渡される。
うどんを提供している旨、その金額、その種類、何ひとつ、記されてはいない。
雑貨屋さんのほうは、田舎なりにそこそこ繁盛しているようで、
家族経営であろうお店の人たちは、それぞれに作業に勤しんでおり、
実際には大した事はないのであろう、その待ち時間が、少々長く感じられ、
本当に此処でうどんを食べる事が出来るのか、ちょっと疑わしいような気がしてくる。
いや、そもそもこの状況で、うどんを食べられる事のほうが、おかしい、
やはり、そんな話は、何かの間違いだったのではないかとの、思いが募る。
だが、徐々に訪れる人の数も増え、
駐車場には、ドライブ中のカップル、バイカー、営業中のサラリーマンなど、
比較的若い年代の人々が、10人程度、
この場所に対する驚きと、未知のうどんに対する期待に満ちた目で、
ワクワクしつつも、ウロウロと、所在無さ気、手持ち無沙汰に徘徊している。

そして、いよいよ呼び込まれた倉庫、兼、台所のような場所で、
葱、生姜、出汁醤油、そして生卵を好きに使って食べればいいと、言い渡される。
どんぶりを持って、表に行く者、その場で食べる者、
皆がその状況に戸惑い、だが、誰も指示してはくれない、
だがそれが、本当の自由というものなのだ、おそらく。

そして、いちばんの驚きは、遂にやって来る。
うどんが劇的に旨い、そうなのだ。ナンダ!コレは。
うどんって、こんなに旨い食べ物だっただろうか、
そう思うほどに、旨いのだ。
早朝に、近くの金刀比羅さんの本宮まで登り、
その石段でへとへとになっていたからであろうか、
いや、それだけでは、勿論ない。
周りでうどんを啜る人々の、一様に満足気な表情が、その事実を物語っている。
麺のカタチだけでなく、食感だけでなく、
こんなにきれいな輪郭を、うどんに対して感じたことは、これまでにない。
しかし、だからといって、二玉、三玉と数を重ねるのは、違うと思える。
儚く散る桜や、打ち上げ花火のように、この一瞬、このひと時を、
心の中で大事にすれば、それでいい。
金刀比羅の奥社は見ず、このうどんも、ひと種類の食べ方だけ、
だがその方が、後々心の中で、その存在が、さらに膨らむことだろう。

どんぶりを返し、生卵の代金を含めて、140円を払い、
安過ぎて申し訳ない、そんな気持ちになりながら、
ごちそうさまでしたと小さく告げて、カゲロウは、その場を立ち去った。

吉野家 9号線亀岡店

2011年04月23日 | 京都
「補足、もしくは、前提、または・・・独り言。」

年に2回、いや、3回くらいだろうか、
吉野家の牛丼を戴くのは。

仕事や何かの合間、時間がない、
だがしかし、短い人生、今後、一回たりとも美味しくないものは、食べたくない、
そのように考える類の人間であるカゲロウが、
稀にそういう状況に置かれた時に、抜群に重宝する選択肢であるのが、
この牛丼チェーンの実際である。

食事としての最低限の条件、それは何だろうかと考えた場合、
空腹感を覚えず、半日程度過ごせるエネルギー源、
それに足り得るものというのが、
先ず、カゲロウの頭に浮かぶ考えである。
そういう意味で、それが和食であろうと洋食であろうと、
麺であろうと丼であろうと、
そして、旨かろうと不味かろうと、
全ては同じ土俵である。

だが、それはあくまで、最低限の条件であって、
旨い牛丼を戴く、そのためには、
間違っても、他の牛丼チェーンになど、
足を踏み入れてはならない。
たとえば、昨今話題の、炊き出しの中に、
吉野家と松屋とすき屋があれば、
迷わず吉牛に行くだろうな、そんな時にでも。
不謹慎ながらも、カゲロウはその状況を、妄想する。
勿論、食うや食わずで、それしかないという状況ならば、
松屋でも、すき屋でも、行くには行くだろう、
だが、それは単に、腹を満たすためである。
しかし、吉牛ならば、腹は勿論、満足し、
さらに、美味しいものを食べることの幸せをも、感じることが出来るだろう、
そのくらいの味の格差が、この3社にはある。

だが実際、吉野家の業績は思わしくない、
それが、世の実情であるらしい。
今回の訪問時も、牛丼の並みが、
110円の値引きで、一杯270円になっていた。
世の趨勢、いわゆる価格破壊の一環である。
そう、何かが壊れてしまった、
そう言えるであろう。
壊れた何か、
それは、壊れて元に戻らない、価値の基準。
安いばかりで喜んでいてはいけない、
子供じゃないんだから。
破格を出す事で、その企業は更に弱体化し、
税金も払えず、社会に貢献する事も出来やしない。
廻り回って、あらゆる人の懐具合にも響いてくるその事が、
社会の、そして経済の仕組みであるのは、
いい大人ならば、当然にわかること。
そして、安いからといって、そんなものばかり食べていては、
金銭感覚は勿論、味覚さえも破壊される。
それは、ある種の文化の喪失であり、
自分自身を貶める事に、他ならない。

しかし、だが実は、高い安いにかかわらず、
こだわりを以って食事をしている人間など、
世の中、ほんのひと握りに過ぎない。
おそらくその割合は、3割にも満たないであろう。
生きている限り、全ての人間が、
食べずにいることなど、出来はしない、
それにもかかわらず。

もののついでに言うならば、
高級料亭の割烹で、金に糸目も付けず、
何事よりも旨いものを食うその事が、
当然のように一大事ででもあるかのような素振りの人物など、
実際、褒め言葉でも蔑みでもなく、世間的には、ある種の珍獣、
もの好き、マニアであると、言っていい。

それは兎も角、安くて不味い牛丼チェーンに圧され、
吉野家が経営的に苦しんでいるその事実には、
本当に本当に、納得が行かない。
明らかに不味い牛丼を提供し、値段を落とす経営戦略。
安いから不味くて当然だと、開き直った下手な言い訳など、
されようものなら、怒り心頭である。
美味しく作れないようならば、値段を落とすなと、ひと言、言いたい。
安い事が大事なのではない、旨い事が第一義であるべきである。
だが残念な事に、人々が食事処を選ぶ、その基準と成るべき物差しの、
最も安易なものとして、価格というものが支配している、この世の中では。

正直、うんざりである。
不味いにもかかわらず、安ければそれだけで、もてはやされ、
たちまち蔓延るように、そんな飲食店が溢れる、そういう社会的風潮が。

しかし例えば、そういうものから、
そもそも離脱した存在、それが、香川のうどんであったり、
明石のたまごやきであったりするような、
そんな憧れは、まだ捨ててはいない。
そういう処に、行ってみたい。

そして話を戻すと、辛くも、そういうものの中に、
この吉野家の牛丼も、微妙に入っている、
つまり、日本という国にとってのソウル・フード足り得る、
そのようなフシも、あるような気もするのだ、
大きな意味では。

イル・ピアーノ

2011年04月17日 | 京都
「・・・容赦なし。」

この店の事を、自分がどう思っているのか、
カゲロウには、よくわからない。
だから、わからないそのままに、とりあえず、筆を進めてみる。

客の心を惹きつける要素を、複数併せ持った店である事、
それは先ず、間違いない。
ある面、ひどく極端に、客に媚びているようにも思えるのだけれど、
ある面では、かなり真っ当に、料理店としてのあるべき姿を体現しているとも言える。

パスタに使われるチーズ、リゾットの風味、それらは非常に独特で、
かなりクセのある味付けなのだが、その手の料理が好みの者にとっては、
ガツンとした無視できないインパクトを持つ事、請け合いで、
当然の事、ファミリー・レストラン的な万人受けを狙う、
悪い意味での八方美人的料理とは、一線を画している。

だが、それにもかかわらず、ランチのセットは、格安の800円である。

ある種の美意識を、きっちりと体現した前菜の盛り付け、
そして見たままに、期待を裏切らない、新鮮で豊富な野菜。
メインは、パスタ、もしくはリゾットで、
前述の通り、大いにインパクトのある、ひと口目なのであるが、
それと引き換えに、後半、当初からのその濃い味付けが、
かなり味覚に響いてくる、そんな思いが募ってくる事は、否めない。

そしてそこが、つまり、印象的な初対面を演出し過ぎていて、
存在として軽薄なように、思えなくもない一因ではある。

パン系統、フォカッチャは2種類付いていて、
片方に、そこそこのオリーブ・オイルが滴らせてあり、
そのどちらもが、無難な食感ではある。
悪くはない・・・悪くはないのであるが、
だがそれならば、抜群に美味しいパンを、ひと種類だけ提供する、
その方が、どこか誠実さ漂うような、そんな気もする。

給仕も非常に的確で、
サーブのタイミングは2階席であっても抜群、
カメラでも付いているのかと思う程。
京都風、町屋造りの店舗は、
しかし、昔ながらの使い回しではなく、新築であるようだ。
清潔で明るい板の間が、眼に眩しいくらいである。
ランチの営業時間も比較的長く、
1400までに入店すれば、よいとの旨。

既存の、それなりである周りの飲食店にとって、
この店の存在、その在り方、これは実際、脅威である。
何もかもが、良いとされるものの、更なる良いとこ取りで、
非の打ちようがないのが、非の打ち処、
そんな気が、しないでもない。

世の中、出来が良過ぎて疎まれる、そんな事もある、
それが例えば、商売敵でもない、いち一般客にすら、
そう思わせる何かが、この店の在り方にはある。

やはりカゲロウには、このお店の正体が掴めない。
それに関し、得心するまでは、何度か訪れてみるしかない・・・。
それを口実に、行かない理由がない、
そこがまた、不可解である。

死者の書/折口 信夫

2011年04月13日 | 日記
.本書の所感を記すにあたり、自分が、社会における身分、階級制度の支持者、擁護者ではないという実際を、他人に言い訳するのではなく、先ず自分自身に言い聞かせなければならぬ、ある種の心構えとして、そのような危険性を孕む、魅力に満ちたその在り方に関わる作品である。

天皇制、多く問題とされるその社会性、その是非に関しては、語るまでもなく、各々の見識、そして良心が感じるところ、その儘であろう。
だが、もうひとつの、それとは別の面、いち人間としての、貴人の人格形成、その本質を描いたのが、本作であると言える。

人は、当然の事として、その人生に揉まれつつ、個人としての人格を形成していく訳であるが、一般人的にその多くは、人生、それはつまり、社会に揉まれるという事と、否応なく同義である。
そのようにして、磨耗し、老いさらばえ、消耗し切って人生を終わるのが、人な訳であるが、それが、基本的な人間存在としてのスタンダードであるという訳ではなく、勿論ありたい訳でもなく、本来は、そうあるべきでもない。
つまり、当然のように社会に揉まれ、くちゃくちゃにされてはいない、そんな人間としてのスタンダード、ぴかぴかの人間を作り上げ、守り、維持していくシステム、それが、天皇制の持つ大義の一面でもある。

例えば、宇宙人に見せて恥ずかしくない、人としてのモデル、神の御前、地獄の閻魔さまにも、決して文句を言わせない完璧な人間、そういう存在を目指して、貴族、皇族を、人生の困難、つまりは、社会から切り離し、末永く保存していく訳である。

少々話は逸れるが、例えばそれが、国家元首であろうが何であろうが、人前に出て社会に関わり、金に塗れたその時点で、成り行き、皇族であろうとも、ただの人となる、それは、言うまでもない現実である。

そしていよいよ、そこが話のキモなのであるが、そのような完璧な人間というのは、具体的にどういう類の人物であるのか?

それは、肉体的に優れていて、頭の回転が早く、記憶力にも優れ、あらゆる知識を蓄えている、そのような下世話な西洋的価値観によるものなどではなく、ひたすらに感覚的な冴え、その一点に集約された人間の事を言う、そのようである。
経済的には勿論の事、世の中の何にもバイアスをかけられず、それを知らなくても、曇りのない眼で一見にして、その本質を喝破し、社会的な善悪、そして勿論、個人的な損得とは関係なく、一切の誤解なく物事を認識し、正しく判断できる力、そのために磨き抜かれた感性を持つ人間、それが、おそらくは完璧な人間、そう言えるのである。

そしてその概念というのは、おそらくは、成りたい自分を自分の胸に問うてみた事のある、誰しもに、心当たりがある、そのはずである。

ぎをん森幸

2011年04月11日 | 京都
「重箱の隅で、暮らしたい。」

先日、とあるお店で「うな重」を戴いた、それもあって、
そういえば、以前、中華料理を「お重」で戴いた、
そんな事を思い出しました。

祇園の呑み屋街とは、また別の一角、東山通りを挟んだ向かい側、
その白川沿いに、お店はあります。

風流に柳が枝垂れていて、そぞろ歩くにも雰囲気があって、
春ともなれば、歩くに程好い距離に、たくさんの白い桜も花開き、
今が、まさに絶好ですね。

一本西側の商店街の中には、ちょっと面白い品を扱うお店などもあり、
時間を気にせず、ぶらぶらと散策するには、もってこいの処です。

そんな中、折り目正しく、祇園で「お重」。
こじんまりとした、このお弁当、
味付けの濃い、どぎつい中華の類では、全くありません。
つまり、大雑把に言えば、高級中華の味、という事になるでしょうか。
・・・大雑把過ぎますか?ま、いいでしょう、そういう事です。

何に惹かれるかといって、この「お重」の中で完結した、
完成された世界観ですね。

何事が起こるかわからない、
この広過ぎる世の中に不安になった、そんな時には、
こういう閉じられた風情の界隈で、
こういう、ちんまりしたものを戴くというのは、
ほっと安心するものなのです。

まるで子供の頃に帰って、
お飯事でもしているかのような感覚、
世界に対する信頼感を持ち得た、
懐かしいあの頃の感覚を、
大の男も、心密かに、かみ締めるのです。

鰻家 うりずん。

2011年04月06日 | 大阪
「想っていた、あなたに会えた日。」

「うりずん」、それは、春先の季節を云う、沖縄の言葉です、
心持ち、はにかみながら、その人はそう言った。
まだ少し肌寒い、だがすっきりと晴れ渡った日の夕方、
暦は違えど、そんな「うりずん」を思わせる日に、
まさに此処、「うりずん。」を、訪れることができた。

周囲に漏れる香ばしい匂い、世に、うなぎ程に、食欲をそそる料理というのも、ちょっとない。
その香りに誘われて、折に触れ、何年かに一度は戴いてみるものの、
正直、その期待に応える程に、大いに満足した、戴いて好かったというためしが、
これまで実は、記憶の中にはない。

しかしながら、どうしようもなく人の気をそそる、その存在、
そして、「関西風 鰻の最高峰かも」しれない、「別格の手前」という、
聞き捨てならないその評判に引き寄せられ、
恐る恐る戴いてみた、此処「うりずん。」の「うな重」は、
誇張なく、香りによって抱くイメージそのままの、鰻料理だった。

それは、例えてみるならば、間が悪かったり、他の人が居たり、
そんなこんなでお眼にかかることのできなかった、
気になるあの人の、そうであるべき魅力的な真実の姿を、
やっとこの眼で確かめた、そんな印象で、
おそらくは映画や小説から合成されたのであろう、
その手の恋愛にも似た情景をも呼び起こす、
そのくらいに、抱いていたイメージ通りの「うな重」が、そこには在った。

さくっとした表面、程好く空気の入った印象の、ほくほくの身に、
やはり鰻料理というのも、焼き魚、そのひとつなのだとの印象を強くする。
そして、その特色である、口中に微かに感じる、皮と身の間の、ぬめり。
この食感が強すぎると、一気に食欲が失せるのが鰻料理であるが、
この「うりずん。」の「うな重」は、その感触が、
あるかないかの絶妙の割合で、程好いアクセントとなる。
捌きたて、焼きたての食感を逃すまいと、
ひたすら飯とともに、鰻の切り身を口中にかき込むのであるが、
気のせいなどではなく、明らかな体温の上昇を、全身に感じる。
それは、空調のせいなどでは勿論なく、
普通に腹が膨れてきているからという訳でもない、
それが、経験的に認識される。
たった今まで、眼の前で生きていた鰻の命を、
そのまま丸ごと、体内に移し替えているのだと、
誇張ではなく、心底、感じる。
それは、単に日常的な食事という枠組みを超えた、さらに貴重な体験である。
命を貰い受ける行為、作家、岡本かの子の「家霊」を思い起こさせる。

本格派としか言いようのない手捌きで鰻を扱う店主は、
京都で10年、鰻料理に携わってきたそうだが、
此処「うりずん。」に、その続きの堅苦しさというのは、微塵もない。
敷居の高い鰻料理店に抱く、気難しそうな職人の印象は欠片もなく、
料理さえホンモノであれば、見掛け倒しは要らないという、潔い主義の持ち主、
その典型のように思える。
実際、気難しい顔などしなくとも、そこに如何程の手間隙がかかっているかなど、
その料理を見れば、おおよそわかる事であるし、
食べてみれば一目瞭然なのであって、
勿体振った大袈裟な態度など、本来そこに、必要はない。

職人と直に対面するカウンターだけの、此処「うりずん。」
だが、むしろ此処は、寿司や割烹というよりは、
良い意味での、ラーメン屋や定食屋の在り方に近いのかもしれない。
なにしろ、料理を待つ間の時間潰し、
その為の漫画さえ置いてある、そんな風情である。
それがまた、肩に力の入らない店主の雰囲気と相まって、こちらも微笑ましい。