カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

ラ・ファトリア

2011年03月30日 | 大阪
「かにはパスタでしょ!」

勾配のある路地の中ではありますが、
お店の前は大きな公園、グラウンドで、広々とアバウトな感じです。
住宅を改装した一軒家、こういうお店に伺うのは、本当に久しぶりで、
正直、住居の玄関の扉を開けてしまいそうになりました。

席数は20席ほどでしょうか、店主さんがひとりで切り盛りしておられます。
注文を取って配膳し、調理しながら、次のお客さんの注文を取る、
かなり大変ですが、調理済みのスープと冷製の前菜、
それに、戴くのに手間のかかる、このお店のメイン・メニュウ、
ワタリガ二のパスタが、程好く時間を稼ぎ、のんびりした時間が過ぎて行きます。

パスタの下に隠れていたワタリガニは、既に小さく切り分けられており、
しかし、だからといって、食べ易いとは言い難い、難物ではあります。
きちんとお手拭きと、水を張り、レモンを入れたフィンガー・ボウルが用意され、
指をソースに塗れさせる準備も万端なのですが、
実際、戴いていると、カニに直に口を付ける事になるので、正直、顔も汚れます。
とは言え、それは、人によりけりではあるのでしょう。

トマト・クリーム・ソース、そう一概に言っても、
やはりワタリガニともなりますと、ひと味違うのは間違いないようです。
汁っぽくない濃厚なソースは、存分にカニの出汁で風味が増しており、
誤解を承知で申し上げますと、かなり甘みが強い、重い甘みがあります。
勿論、お菓子などの甘味とは別の類ではあるのですが、
やはり甘いとしか言い様がない。

そしてそれは、勿論ワタリガニ独特の甘みではあるのでしょうが、
戴いたもう一品、和風ソースのパスタからも、
そのような雰囲気を、そこはかとなく感じたという事は、
このお店のシェフのセンス、その嗜好のバランスが、そちら寄りに特化している、
そしてそれだからこそ、そもそもメイン・メニュウに、ワタリガニが選ばれた、
そういう事でもあるのでしょう。

こういう形の営業形態で出来る事、
色んな事情を鑑みて、その上で、今、この形で具現化したもの、
シェフの夢と理想、そして現実の折り合いの付いた形、その落とし処、
それがこのお店の存在、その核心なのでしょう、おそらくは。

麗華

2011年03月27日 | 大阪
「忘却でしか、得られない。」

とても嫌な事があったから、そういう訳ではないけれど、
忘れる事、それは、とても重要な事だと、常々、カゲロウは考える。
眼には見えない何か、それを、自分のものにしようとする場合、
それを取り込み、一旦、意識上から、なくしてしまい、それでも無意識に、それが己から表出する、
それでこそ、その要素が本当に自分のものになったと言えるのであって、
その段階のひとつとして、忘却という状態があり、そこに至る手順として必須だからである。

ただ、その副作用として、単に、物覚えが悪い、憶える気がない、何事にも消極的である、
最悪の場合、記憶力がないと、周りの人間から思われてしまう、
それは、表裏一体の現実で、実際、それ故の困った出来事というのも、往々に起こるべくして起こり、
一緒に居る妻に負担をかける事、それも、少なくはない。
しかし更に言うと、個人的には、それ故の、嬉しい出来事というのも、
稀に、なくはない。

何か素晴らしいものに出会った時、これまでで一番良いと思える瞬間というのは、
おそらくは、標準的な記憶力の人間と比較して、かなり多いであろう事は、
意図せずとも、自然な成り行きである。
これまで食べた中華料理の中で、この麗華は、もしかすると一番かも知れない、
そう思ったのは、経験的な事実ではないかもしれない。
しかし、いずれにしろ、本人的には、それは本心であって、
それが実際には、自分にとっての最高峰の中華料理店の、それでも何軒かの内の一軒に過ぎなかった、
そうだとしたところで、何の不都合があろうか。

辛さや濃度、素材やその鮮度だけに頼らない、本当の意味でのバランス感覚、料理センス、
それが、この麗華の料理にはある。

2度訪れた、日替わりのアラカルト・メニュウ、
海老と茄子のチリ・ソース炒め、そして、セロリと牛肉の黒胡椒炒め、
その2品からは、特に突出した印象、所謂、マジックの印象を受けた。
セロリなど、人によっては、苦手とする場合もあり得る類の食材ではあるが、
だからこそ、この組み合わせでなければ生まれ得ない風味というのが、この完成形には存在する。
その料理が旨いかどうか、それは食材単体の風味に因るのではなく、やはり、そのバランスなのである。

坦々麺も、辛さだけに頼るものでは勿論なく、
天津飯、炒飯に至っては、一品でボリュームは軽く2人前、
味だけではなく、量的サービスも、充分以上、十二分である。

サーブの面を見ても、料理の出来に対する自信が、はっきりと給仕に出ているように思え、
取り皿の提供、お冷の継ぎ足しなど、出し惜しみなく、
そこはやはり、この料理の値打ちがわかる客にならば、
どうぞどうぞと言わんばかりである。

お店の立地や外観以上に、店内は上品で完成されていて、
賑やかな小物にも、統一感とセンスがあり、
何より夜ともなれば、料理が映える光線の加減、それが絶妙で、
お得感のあるランチにこだわる事で、お昼にしか訪問しないというのは、
ひとつ損をしていることになるであろう事、それはある面、事実である。
実際、一回の夜の食事に、メイン、ご飯もの、汁物、点心系、
これらを一品づつ、ふたりでシェアして、満腹以上の状態で、3,000円に納まっている。
つまり、結果的に、これだけの料理を戴いて、
1,500円/一人に満たない価格であったのには、本当に驚いた。

こんな言い方もどうかとは思うが、この価格で、この内容、この風味、
本当に、何処に出しても恥ずかしくない中華、そういう評価さえ相応しいと思える、
単純ではない、しかし、上品過ぎもせず、遠慮なく食せる中華料理店、
それがこの麗華である。

知識、その他の蓄積、それは、その存在に対する偏りというものに他ならず、
物事の真実を、平らに観る為の邪魔になる場合が、多々ある。
中華料理というジャンル、それだけの土俵ではなく、価格帯で測るというのでもなく、
過去の己の記憶にある何かと比較するのでもない。
今、絶対的に、旨いと感じるかどうか、それに気付けるかどうか、
その為に、蓄積された何かは、本来、必要ではない。

明確な何かの記憶を呼び起こされる事なく、他の何かと比較する必要もなかった、
その事の幸せを、カゲロウは、ここ麗華で感じる事が出来た。
それは、おそらくは、人として、無上の喜びであろう。

スマート珈琲店

2011年03月21日 | 京都
「命の次に、大事なもの。」

フレンチ・トースト、かなりの肉厚です、
勿論、お肉で出来ている訳ではありませんが。
中しっとり、外はこんがりと焼き上がり、
たっぷりの甘いシロップをかけて、戴きます。
思いの外、牛乳の風味が効いてますね、
じんわり、じゅわっと、美味しいです。
ホット・ケーキが大評判のこちらの喫茶、
なかなかどうして、フレンチ・トーストも負けてはいません。
スマート珈琲にとって、前者が主役とすれば、後者は脇役、
そういう事なのであれば、主役を喰ってしまいかねない脇役、
それがこのフレンチ・トーストではないでしょうか。

その日、偶然居合わせた、挙動不審なひとりの紳士、
背後の席に居られたので、詳しい所作はわかりませんが、
向かいの席の妻や、隣の席の女の子たちは、
クスクスと笑いつつ、見て見ぬフリをしています。
度々、立ち上がっては厨房に出入し、同行者と冗談を交わしながら、
最後は御勘定を素通り。
しかし再び店内に戻り、「命の次に大事なモン、忘れとった」と、
テーブルに残されていたタバコを手に、いそいそと退出、
満場、客も店員も、含み笑いで、いっぱいです。
察するに、あれは、此処スマート珈琲のオーナーさんなのではないでしょうか。
世が禁煙ブームの最なか、この調子なら、
少なくとも彼の眼の黒いうちは、
こちら、一本筋の通った喫茶店として、
マイノリティである喫煙者の為の、
暫しの憩いの場であり続けることでしょう。

普段、命の次に大事にしているのが、本当にタバコかどうか、
そこのところは、実際、定かではありませんが、
彼のそんなセリフを、昨今の大惨事で思い出し、
実はそんな事も、常に自分に問うておくべきなのかもしれないと、
少々以前の記憶の中での出来事が、
笑い話ながらも、今になって身に沁みた、
そんなような気がした次第です。

トレンタ

2011年03月17日 | 大阪
「非日常的現実の中。」

ドルチェをプラスするかどうか、その事に気を取られていた妻は、差し引き意識していなかった、その前菜のバリエーションの豊富な事に、ひどく驚いた様子だ。
小魚のフライ、それにマリネは兎も角、他はあまり見かけない料理が3種類、ワン・プレートに計5種類もの品数が、眼にも華々しい。
餅とパンの間のような団子状の物体、烏賊飯のような形態の詰め物、そして、チューブ・パスタは、何年か前、旅行先、ローマの街の食堂で戴いて以来、日本では初めてお眼にかかる種類のパスタで、何ならこればかりを、一皿戴いてもいいというくらいに、旨く、懐かしい。

その懐かしさは、良い意味で日本的ではない料理の風味、それも然る事ながら、粗い造りの壁の塗装、一歩毎に軋む音が聞こえてきそうな、褐色の板張りの床の、どこか男性的な野性味、しかし実は、隅々まで意識の行き届いた、額の絵のセンス、窓際の籠に、一見無造作に山盛りにされた、ワインのコルク、ぴかぴかに磨かれ、艶かしく輝くグラスの女性的な肌理細やかさなど、周りの無骨さが、細部の繊細さを一際引き立てる風情、まさに昔訪れた、イタリア本国に漂う、ある種性的な生命感を感じさせる、そんな有機的な雰囲気を思い起こさせてくれるものだったからに、他ならない。

明るい昼間、他に客は、ひとりも居ない。
現地語の程好く長閑な歌謡曲、そんな微かなBGM以外、他に何も耳に聞こえてこないその事が、さらにその異国情緒的妄想に拍車をかける。
パスタ、そしてピザのランチ・セットを、ひとつづつ、先ずはパスタが食卓に届き、予想もしなかった大きさの、豚の角煮に、単純に驚く。
それを小皿に取り分け、ふたりで分け合っても、充分な量、そして、細やかな風味の前菜を上回る、そのダイナミックな美味しさ。
世に、物足りないラグー・ソースも少なくはないけれど、このソースは非の打ちどころがない。
そのシェフの嗜好、おそらく、かなり、個人的にも相性が良いようだ。

だが、こんなに美味しい料理なのに、他に客が、ひとりも居ない事、それを意識すると、それはとても不自然で、しかし実際、店が空いているそのおかげで、居心地はすこぶる良く、良い意味でも悪い意味でも、その感覚は、非日常的な事、この上ない。
ともすれば、それは人に、現実逃避を促す、特にこんな時節には。

パスタが終わり、ピザを待つ暫しの間、首をもたげる不安を振り払い、気を取り直して、再び、ゆっくりと店内を見回してみても、まさかここが、いつも当たり前にあるような、日常的な日本であり、現実であるとは、ちょっと思えない、雰囲気としての静けさ、ひと気のなさ、小さく聴こえる音楽、それ故の静寂、同じ空間を共有する妻も、そんな違和感を感じているらしい。

いよいよやって来たピザは、素晴らしく見栄えのする、充分な大きさの、赤く華やかな、円形の物体。
熱いうちにと、気持ちは逸る。
しかし、とろとろの具が落ちてしまわないようにと、気を付けて、ゆっくりと口に運ぶ。
土台はふんわり、ほくほく、モツァレラは、もぎゅもぎゅと、クラッシュされたトマトは新鮮で、瑞々しさを失わず、窯で焦げた小麦粉、その炭の香ばしさと合いまりつつも、尚4種の風味、全てが主張し合い、しかし不思議とお互いを潰してしまう事もなく、絡み合って感じられる、それは、とても特別な味わいだ。

もうこれで100%満足している事は、ふたりともに間違いないが、さらにプラスしたドルチェがやって来る。
盛られた4種は、またしても色鮮やかで、形状、そしてその温度も様々、特にティラミスが秀逸だとの、妻の弁。

そして最後に数種の飲み物の中からカプチーノを選ぶ。
それは、ランチ・セットの基本メニューの内で、ドルチェを注文した人にだけではなく、ふたりともに付いてくる事が判明し、気前のいいサービスに、さらに驚く。

どこか白昼夢の中であったような店内から、食事を終えて、一歩外に踏み出す。
心なしか、店前の生活道路からは、閑散とした印象を受ける。
そう、今は皆、心の片隅に不安を抱え、楽しむ為の余裕も失われ、いつ大きな揺れに襲われるのかと気が気でなく、その日常生活全てが、どこか薄ら寒い。
立場をわきまえず、作家的発言で顰蹙を買い、陳謝した政治家の言葉が、頭を過ぎる。
彼が間違っていたとしたら、それは日本人だけではなく、人類全てに対する天罰であるという点であって、そんな心当たり、自分にはないと言い切れる人間など、居る筈もない。
言うまでもなく、こんな時こそ自分を省みなければならない、そんな事など、皆、心の奥底ではわかっている。

出歩く人が居ないというわけではない、しかし、どこかひと気のないように感じられる路上とは打って変わって、その後、立ち寄った巨大ホーム・センターでは、おそらくは普段の平日にはないであろう人出があり、しかし混雑するでもなく、どこか粛々と、何事かの備えを蓄えようとする、多くの人たち。
その表情、それは、たとえ穏やかではあっても、やはり寒々しい。

今しばらくは続くであろう、非日常的な、居た堪れないこんな空気は、残りの人生、出来れば2度と味わいたくはない。
だが、トレンタの与えてくれるような、別の意味での非日常性こそ、辛く苦しく、悲しい知らせばかりの伝わってくる、こんな時節などではなく、もっと穏やかな幸せを感じられるようになったその時にこそ、改めて存分に味わいたいものだと、心の底から、思い、願う。

くいしんぼー山中

2011年03月10日 | 京都
「普段使いのすゝめ。」

洋食といえば、定番はハンバーグ、それに倣って、此処、山中のランチ・メニューのメインと言っていい料理、それがハンバーグ・ランチであるその事に、異論はない。
一食2,940円、一般的なランチとしては、実際、破格ではあるが、結局は肉質的に妥当な価格なのであろうその事に、異議もない。
ただ、庶民感覚的には、日常のランチとして度々戴ける、そんな生易しい価格でもない、それは、事実であろう。
おそらくは、ハンバーグとしては、あまりに良い肉質、それ故、あまりにナチュラル、違和感がなさ過ぎて、その有難味を噛み締め、味わう間もなく、パクリパクリと口中に消え入ってしまう、それが、贅沢ながらも、残念でならない。

そんな無念も予想の内という訳でもないけれど、ふたりで行って、同じメニューではつまらない、そう思い、吟味しつつも、とりあえずと注文したBランチ、一食1,890円、これが、個人的には、しっくり来る出来栄え、量、そして価格であった事、その事を、あえて、恥ずかしながらも実感として、告白せざるを得まい。

「B」、それは、一般的には、ビフカツと呼ばれる料理がメインのランチであり、その内容、そして意味的にも、ほとんどそれが、全てである。
親切に、ご丁寧にも、一口大に食べ易く切り分けられた3枚もの牛カツレツに、デミグラス・ソースたっぷり、芥子もたっぷり、そして、つけ合わせの野菜、さらに、銀紙に包まれたポテトと球状のバターである。
それを、ご飯、そして、お漬物と共に、お箸で戴く。

ステーキ・ハウスと言えば、そこそこのお値段で、ちょっと良いお肉を少々、というイメージも、無きにしも非ずなのであるが、このビフカツに関しては、こんもりと言っていいボリューム、食べて儚くなくなってしまう、そんな事を気にかけずとも、パクパクと戴いて、お腹いっぱいになり、まだ余りある印象である事実、それが素晴らしい。
味も価格も違うので、一概には比較できないが、個人的にはトータルとして、芦屋の某店以上の満足度であるかも知れない。

そしてさらに、出色であったのは、他店で戴くものと比較すると、かなり酸味の効いた食後のコーヒーで、これもまた、個人的嗜好に合う、相性の良い出来栄えに、満足、満腹、納得、ご馳走さまでした。

道頓堀 今井 本店

2011年03月04日 | 大阪
「神も悪魔も、インド人も、きっと。」

人には属性というものがあり、しかしそれを、単に生まれだけで判断する事、それは明らかな差別、言うまでもなく、愚の骨頂ではあるけれど、それが、経験、環境、つまり育ちによって形成されて行くものであるという、その事実に関しては、その人物の成り立ち、それを冷静に、公平に、そして出来る限り客観的に見て、尚且つ、否定する事は、誰の場合であったとしても、出来はしない。
そして否応なく、人間というものには、そういう類の属性があるという事、それはつまり、馴れ親しんだ何らかに対する偏向、偏りこそが、その人となりの、あらゆる部分を形成しているという事に他ならず、多少の個人差はあれども、何によらず、人間の抱く全ての価値観とは、他の何かと比べて成り立つもの、相対的なものであるという事と、同義である。
そして更に、全ての価値観というからには、個人の味覚というものも、その例に漏れず、それつまり、世の中の誰にとっても絶対的に旨いと感じられるもの、あらゆる人間にとっての味覚の頂点などというものは、存在しようがないという結論に、否応なく達してしまうと、そういう訳である。

カゲロウは、思い起こす。
以前、知り合ったインド人に、日本の食べ物は美味しいですか?と訊ねたところ、いや、あまり・・・と、口ごもり、不躾に、不味いとまでは言わないものの、その表情は、言葉以上に、彼その人の真意を物語っていたという実際があった。
その後も遠回しに、何が食べられて何が食べられないのか、それとなく探りを入れていると、どうやら、出汁の効いた料理、出汁そのものの風味を身体が受け付けない、そのような傾向がある事が、おぼろげながら判明してきた、そのような気がした。
ちなみにそのインド人が、日本の食べ物で、無理なく美味しいと感じた物のひとつ、それは、「かきのたね」だそうである。
意外とインド本国では、「かきのたね」が、一部地域で受け入れられている、それは事実のようであり、その味覚的傾向というのも、何となく、わかるような気もする。
だがしかし、日本の誇る、出汁の文化、その風味というのは、彼の属性に従って、決定的に不可な訳である。

だから自分が、京都という、突出した出汁の文化の中で育ち、今となってはほぼ明らかであると思われる、最上級の部類の出汁を、日常的に味わっているのであろう事に、カゲロウ自身、疑いを持ってはいないのではあるが、同時にその文化というのは、別の属性を自身の中に抱く人々にとっては、むしろ味覚的に嫌悪する風味である場合もあり得るという、その厳然たる事実も、重々認識すべきであるという事は、いち人間として、当然、必須である。
インド人ならずとも、カゲロウの価値観を揺るがす現実、カゲロウにとっては、味覚的に理解を超えた料理に舌鼓を打つ人々の姿というのは、日々日常的に、世界のどこかの食卓に存在する、それは当然の事で、実際に短期間でも異文化の中に身を置き、そのような光景を幾らか眼にすれば、やはり、世界は相対的なものなのだという思いは、より強くなる。

だがしかし、絶対的な何かの存在というのは、人間にとって捨てきれぬ願いであり、救いとなり得る夢である。
それさえ掴めば、全てがわかる、そういう希望、拠り所を、人が心から完全に拭い去るという事は、なかなかに出来る事ではない。
そして、その欠片かと思えるようなものを、此処、大阪の有名店、今井で掴んだような気がした事は、カゲロウにとっては思いもよらない、しかし、破格に嬉しい出来事でもあった。

カゲロウの舌に馴染んだ、普段戴く京都風の出汁、それと比較すると、明らかに、甘い出汁。
だがそこには、有無を言わせぬ何かがある。
これが、絶対というものなのかも知れない、カゲロウは、禁忌に触れるが如くに、そう思う。
やさしく甘い、ふくよかな母性、いや、それをも超えた、祖父母的な落ち着きをも感じさせる、懐の深い出汁。
しかしながら、自らの属性に絶対的な自信を持ってしまい、それは勘違いであるという客観的認識すら持てない人間ならば、その甘さに批判を加える事必至であろう、その甘さは、実は真実、他との比較、それすら許さない。
どこか漂う余裕すら感じさせる風情、そして風味。
自分の慣れ親しんだ、京都で戴く出汁の効いた料理とは、また違う。
そして例えば、東京、浅草で嘗て啜った、大きな海老天の載った蕎麦などは、驚く程に味なかったのであるが、そんな論外の出汁とも勿論違う、この今井の出汁は、カゲロウにとって馴染みがない、にもかかわらず、論外などとは、口が裂けても言い得ない何かがある。

ひとつの観光地とはいえ、日本の中心である、浅草の有名店で温蕎麦を啜り、大きく期待を裏切られて以来、やはり出汁料理というのは、京都ならでは、その十八番なのかも知れないと、心のどこかで、我が事のように自惚れていたカゲロウの胸に、喜びさえも内包するかのような嫉妬心を抱かせてくれた、大阪、道頓堀の、そんなお出汁、それが今井の、何の変哲もないようにしか見えない、一杯の、きつねうどんであった。