カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

はゆか

2013年02月27日 | 香川
「鋼の如し。」

その日は四国ではめずらしいらしく少々雪の降った日であった。

きれいな渓谷の傍らにあった谷川米穀店から羽床に向かう途中、立ち寄った田舎道のガス・スタのオヤジが言う、何年ぶりかの降雪というのはちょっと大袈裟な物言いに過ぎて眉唾だとしても、それでもきっとこの冬いちばんの寒さであったに違いないその日の気温というのは、素人が推測するに過ぎないとしてさえも多くの店の饂飩の出来にかなり大きな影響を与えていたことだろう。

谷川も、そして製麺所である三嶋でさえも其の饂飩の歯応えのなさに少々拍子抜けさせられてしまったのではあるけれど、だからといって今日この日の出来だけで其の饂飩を評価してしまうのは勿論のことフェアであるとはいえないが、しかしそれでも少々残念なことには違いない。

そして昼時、朝から四杯目となるのではあるけれど、時間に間に合うのならと入った通りすがりのこの羽床の饂飩には、思いがけず本当に驚かされた。

この稀に見る異常な気温、其の差などものともせず、其の饂飩のコシは全く失われてはいない、初めての訪問であってさえ其の事実が身に沁みて感じられるのだ、この饂飩は、正しい、と。

其の店の外観というのは、もしかすると所謂チェーン店と勘違いさせられる、そんな風情であるかもしれないが、実際はよく見れば其の裏側に住居が併設されていて、其れはおそらく店の入り口で饂飩を打っている店主の住まいであり、つまりこの建物は店舗兼住宅であるのだろう、其処にある種の覚悟のようなものが感じられるのが非常に好ましい。

半ばセルフの広い店内には客足が途絶えることなく、厨房の店員の人数もそれなりで人手が足りないというようなことは先ずないであろうが、其れでも其の店主は店に立ち、休むことなく自ら饂飩を捏ねている、そんなこの店の在り方というのは、まったく感心なことにこの規模にして人任せではないのである。

其の饂飩の旨さは勿論のことではあるけれど、実際そんな真摯な姿勢こそが本来料理店経営者としての在るべき真っ当な姿なのであり、評価されるべき最も大切な要素であると言えるのだろう、素晴らしい。

はゆかうどん / 羽床駅

昼総合点★★★★ 4.0


蒲生うどん

2012年01月30日 | 香川
「筋金入りの、けつねうろん。」

そういう言い方も妙なものではあるが、この蒲生のけつねうろんは、最強である。

とは言うものの、この御店にきつねうどんというメニュウがあるわけではなく、単にトッピングの組み合わせでけつねうどんの体裁を取っただけのことであり、関西に生まれ育った以外の人にとっては、けつねうろんなどと言っても何のことなのかさっぱりわからない、それだけならまだしも、呂律の回らぬその言い回しに頭の打ち所を心配されるだけであろうそのことは、重々覚悟する必要すらあるだろう。

そんなことは兎も角、何を以って最強などという、けつねうどんを形容するにこれ程相応しくないとすら感じられる、そんな単語を持ち出したかといえば、それはやはり、讃岐うどんのコシの強さ、それ故であるとしか言い様はない。

多く京都や大阪で煮出される、はんなりとした、それでいて得体の知れない懐の深い優しいお出汁、そしてその風味に歩調を合わせたかのような、やわやわのうどん、そこに甘ったるいお揚げを載せて、これをけつねうろんと称するわけである。

そのふにゃふにゃ、やんわりした印象の食べ物は、例えば歳を取った人の雰囲気に喩えられる、そんなことも少なくはなく、それはおおよそそのうどんの柔さ、人当たりの好さというものが、そういう雰囲気、印象を人に与えるからである、そういうことなのであろう。

それはそれで勿論心地好いのではあるが、実はそれは、物心つく頃から日常食と言い含められながらも、実は非常に食べる時を選ぶ特殊な食べ物であるということも、実際のところ言えるわけである。
言うなれば、ほっこりとしたゆるい心持ちの時、それ以外に戴くと、どうにもぬるい、場合によっては食べた気すらしない、それがけつねうろんの欠点ですらある。

だがそこで、そのけつねうどんの麺というのが、ゆるゆるではなく、ガッチリとコシの入った讃岐うどんであったりした場合、戴いた印象はどうであるのか?それはもう、完全無欠のけつねうろんになるのである、やはりと言うべきか当然というべきか。

そしてしかしそのけつねうろんというのは、ひたすら頑強な讃岐うどんともまた違う、実は非常にトータルにバランスの取れた絶妙のうどんと化すのである。
それが少なからずふにゃふにゃうどんに慣らされた関西人にとってはかなりの驚きであり、はんなりのお出汁には柔らかうどんがマッチするものであると信じ込まされてきた者としては、ある意味、勝負に負けた、そんな心持ちにさえさせる完全無欠さ加減であるのが、まさにこの蒲生のきつねうどんなのである。

讃岐を訪れた際には、気持ち的にも物質的にも、一本づつうどんを啜るのが当然のように通例になってしまうのが常なのではあるが、このきつねうろんに関しては、それとはまた話は別であって、関西で戴くけつねうどんと同じように数本を勢いよくずばばっと啜り、程好い加減で遠慮なく歯で切断して咀嚼する、この食べ方がやはり旨いのである。

ちなみに、このうどんを箸で切断するのはちょっと無理があるので、それを歯で噛み切るのは行儀が悪いと思う人もいるのかもしれないが、そこのところをとやかく言うのはお門違いである。
いずれにせよ高い確率で表で立ち食いすることになるうどん屋で、行儀云々などということで人を窘めるようなことなど、むしろ笑止千万、無作法だからこそ旨いのだとさえ言い得るその雰囲気というのは、関西のきつねうろんに仄かに漂う奥床しいいかがわしさと比較すれば、陰と陽の関係にあるかのようでもあり、その朗かな健全さは、同じ類の食べ物に対する印象を根底から別の何かに置き換えてしまう、それほどにインパクトがある、そんなけつねうろんなのだ。

最早、何を言っているのかよくわからないながらも、実際そんな感じのうどん、それが蒲生で食べたけつねうろんなのであった。

蒲生うどんうどん / 鴨川駅
昼総合点★★★★ 4.5


道久製麺所

2012年01月20日 | 香川
「無言の、メッセージ。」

器と箸と、薬味を持って訪れなければならない、そう聞いてはいたものの、
実際のところ、薬味の持参が必須というわけではなかった、

そう感じるほどに、そのうどんからは漲る魅力が滲み出している。

噛み応えのある塩の風味の効いた艶のあるそのうどんは、
その場、その時でしか味わうことの出来ない代物である。

玉売りが基本の製麺所である、
それがゆえに食事処としての用意がまったくないその事実というのは、
実は、表向き、建前の言い訳にしか過ぎず、

その本心というのは、己の責任において、薬味なしでこのうどんを一度味わってみて欲しい、
そんな道久製麺所からの無言のメッセージであるかのようだ。

物理法則に基づくエントロピーの増大云々を論ずるまでもなく、すべての物質は刻一刻と変化し、
それを感じ、それを測る人の認識、そしてその記憶でさえも、同様に刻一刻と移ろい行く。

その美味しさを自分がその時どう感じたのか、
それはその時、その瞬間、その人にしかわからないことであって、

その記憶を頼りにその日の夜に思ったことと今思うことも同じではない、

万物はもちろんのこと、心象風景さえも、諸行無常は網羅する。

同じ人が同じ場所で作ったうどんであったとしても、時間の経過は刻々と変質をもたらし、
その時とその日の夜、そして次の日ともなれば、それはまったくの別物と化す。

その変化のもたらす何が良くて何が悪いと嘆いても、
それは非力な人間存在の無駄な足掻きでしかない。

本当にそれを求める気持ちがあるのならば、そのチャンスの存在する処へと赴き、
自分の足でその場に立たなければ、貴重な瞬間を得る望みなど到底叶わない。

今すぐにとは言わずとも、心の中で思い描き、それを常日頃、思い残しておけばよい。
それは、言い換えれば希望である。

道久製麺所うどん / 詫間駅
昼総合点★★★★★ 5.0


純手打うどん よしや

2011年05月04日 | 香川
「純真、うどん、そのもの。」

気張った雰囲気がない、
此処、よしやに入って最初に受けた印象は、
良くも悪くも、そのようなものであった。
現代的と、言えば言えないこともない、
ひと昔前のドライブイン的、建築様式、
これもまた、良くも悪くも、
ある種、朴訥な印象を受ける。

気軽に入れるその雰囲気のせいか、
客筋は比較的、若い年代のようである。
然程、遠方からではないように見える、
女の子5名程度の団体さんが、
この、うどんとサイド・メニューしかないお店で食事して、
満足気に店員さんと挨拶を交わし、帰っていく、
此処は、そういう御店なのだ。

だが、何でもないように見えるこの御店は、
どこにでもあるような、ありふれたうどんを出す、
そんな御店では、まったくなかった、驚いたことに。

観光客が多数居た、他のうどん屋さんとは、
明らかに、麺が違う。
例えば、讃岐うどんを謳う、県外のお店のように、
如何にも麺が太い、そういう訳でもない。
讃岐うどんとしての特色を出そうという
変なプライドは、此処では必要ないのだ。
ひと昔前のヤンキーのように、
ズボンの太さでハッタリを効かせるような、
無駄な麺の太さは、必要ない。
太さだけで言えば、よくある程度ではあるが、
実は戴いてみれば、その差は歴然としたものがある、
当たり前の事であるが。
やはり、事前に仕入れていた極秘情報、
緑あひるの小麦粉の、それが威力なのであろうか。
扱いの難しい原料であることから、
うどんの出来も、日によってムラがあるとの話も聞く。
その製法も、全て手作業であるとのことで、
それは例えば、清酒で言う、きもと造りのようなものであろうか、
その労力に、頭が下がる思いである。

そしてそれを、謙虚にアピールするかのように、
店内に立てかけられた、緑あひるの小麦粉の大袋。

・・・店内の客も、ごく少数、
これは、事前に聞いていた※極秘情報を試してみる、
絶好の機会なのではないであろうか。
時間に追われる中の、遠方からの折角の来訪、
それを、申し出てみない手はない。

かくして、提供されるうどんのように、
実直で誠実な人柄の若い店員さんは、
嫌な顔ひとつせず、緑あひる柄の、
そのTシャツを、快く分けてくれたのであった。

須崎

2011年04月24日 | 香川
「いつまでも、心の中で、そのままで。」

一生に一度だけでも、此処に来れてよかった、カゲロウは、そう思った。

だが、そんな場所ではあるけれど、此処のうどんを食べて育った子供は、
ある意味、不幸だと、ふと思う。
なぜなら、そんな幼児体験を持つ人は、このうどん以上のうどんには、
その後の人生において、おそらく出会うことはない、
そう思えるからだ。
ある意味、カゲロウ自身も、もう二度と、此処には足を運ばないほうがいい、
そうなのかもしれない。

山間の、少し入り組んだ路地の中の集落、
雑貨を扱うその食料品店の、舗装もされていない粗い地肌の駐車場、
そんな剥き出しの場所で、恍惚として、小ぶりな黒いどんぶりを持つ、若い女の子。
ああ、此処がそうなのだと、ひと目で覚る、その光景ではあるが、
言うまでもなく、その状況というのは、不自然極まりない。
それは、朝、目覚めて考えてみれば、苦笑して、自分の正気を少々疑う類の、
こんな場所で、こんな人物が、そんな事をしているわけはない、
そんな、変な夢、あの感覚である。
だが、此処ではそれが、紛れもない現実なのだ。

おそらくは、そんな彼女の先程と同じように、
店内を覗き、うどんは戴けますかと尋ね、しばらく待つようにと言い渡される。
うどんを提供している旨、その金額、その種類、何ひとつ、記されてはいない。
雑貨屋さんのほうは、田舎なりにそこそこ繁盛しているようで、
家族経営であろうお店の人たちは、それぞれに作業に勤しんでおり、
実際には大した事はないのであろう、その待ち時間が、少々長く感じられ、
本当に此処でうどんを食べる事が出来るのか、ちょっと疑わしいような気がしてくる。
いや、そもそもこの状況で、うどんを食べられる事のほうが、おかしい、
やはり、そんな話は、何かの間違いだったのではないかとの、思いが募る。
だが、徐々に訪れる人の数も増え、
駐車場には、ドライブ中のカップル、バイカー、営業中のサラリーマンなど、
比較的若い年代の人々が、10人程度、
この場所に対する驚きと、未知のうどんに対する期待に満ちた目で、
ワクワクしつつも、ウロウロと、所在無さ気、手持ち無沙汰に徘徊している。

そして、いよいよ呼び込まれた倉庫、兼、台所のような場所で、
葱、生姜、出汁醤油、そして生卵を好きに使って食べればいいと、言い渡される。
どんぶりを持って、表に行く者、その場で食べる者、
皆がその状況に戸惑い、だが、誰も指示してはくれない、
だがそれが、本当の自由というものなのだ、おそらく。

そして、いちばんの驚きは、遂にやって来る。
うどんが劇的に旨い、そうなのだ。ナンダ!コレは。
うどんって、こんなに旨い食べ物だっただろうか、
そう思うほどに、旨いのだ。
早朝に、近くの金刀比羅さんの本宮まで登り、
その石段でへとへとになっていたからであろうか、
いや、それだけでは、勿論ない。
周りでうどんを啜る人々の、一様に満足気な表情が、その事実を物語っている。
麺のカタチだけでなく、食感だけでなく、
こんなにきれいな輪郭を、うどんに対して感じたことは、これまでにない。
しかし、だからといって、二玉、三玉と数を重ねるのは、違うと思える。
儚く散る桜や、打ち上げ花火のように、この一瞬、このひと時を、
心の中で大事にすれば、それでいい。
金刀比羅の奥社は見ず、このうどんも、ひと種類の食べ方だけ、
だがその方が、後々心の中で、その存在が、さらに膨らむことだろう。

どんぶりを返し、生卵の代金を含めて、140円を払い、
安過ぎて申し訳ない、そんな気持ちになりながら、
ごちそうさまでしたと小さく告げて、カゲロウは、その場を立ち去った。