「手のひらのあたたかさ。」
桂離宮の向かい、一車線ながら、とても車通りの多い八条通りに面した店舗。
なのに、奥の座敷に上がり込むとその喧騒が、遠くから響いてくる心地好いざわめきのように聴こえるのだから、これは一風独特な感覚、それでいて体感してみれば、心のどこかが知っていると感じる、そう、あの感覚です。
気軽に覗ける、それでいて軽薄とは程遠い印象を受ける店頭の販売所。
その脇では、囲炉裏のある土間で軽く和菓子をいただくこともできますが、せっかくここまで足を運んだのであれば、やはり少し時間をとって、靴を脱ぎ、ぜひとも奥の座敷に上がり込みたいものです。
空気が流れるたびにカタカタと家が鳴く、その古い作り付け。
今はない、祖母の家がまだ建て増しされる前、ちょうどそのような具合で、個人的には懐かしさもひとしおなのではありますが、実際にそういう故郷を持っているという人でなくとも、田舎というのはこういうものなのだなと思わせる、情緒ある風情、ここにはそれがあります。
気取った高飛車な雰囲気とは程遠い、隙間だらけのこの建物。
しかしそれでいて、細部、特に床の間に、品を失わないための、最小限にして最大限の手間隙がかけられ、それは、今あるもので満足しつつ、それを大事にしていくという志のようなもの。
それこそが、京都の良いところ、つまり京都的良心であると教えてくれるのが、このお店の佇まいなのです。
まさにこういう場所こそが、本当に失われてはならない処なのであり、現代の成金主義的喧騒から一服人を逃れさせてくれる、ほっとした心持ちにさせてくれるという、稀有な場所であるのかもしれません。
ただ、その雰囲気もさることながら、それだけでは勿論なく、間違いなく、個人的に和菓子に対する認識を改めざるを得なくさせられた、和菓子の奥の深さを教えてくれたすごいお店、それが、ここなのです。
餡がどうだ餅がどうだと、和菓子の事だけ聞ければそれでよい。
そう思われる方もあるかもしれませんが、ひとりの人間が色々ある人生の中で、ここ中村軒の麦代餅が、どうしてそんなに美味しいと感じたのか、それは、例え話のようなものでしか説明の出来ないものであるということ、それは重々理解してもらわなければと、思います。
餅のことだけ端折って要領良く聞き、わかったような気になりたいという方は、以下の文は読まないほうがよいかもしれません。
興味のある方だけ読んでいただければと、心から思うのです。
市内ではないにしろ、生まれて此の方、長らく京都に住んでいるのにもかかわらず、こちらのお店を知ったのは、恥ずかしながら京都に縁もゆかりもお持ちでないであろう、北海道出身の方からのご紹介によってでした。
思いがけないトラブルから親しくなったその方は、食べ物の好み、嗜好性は各々であるものの、特に味覚にしっかりした基準をお持ちであったので、常々いくらかお店探しの指針にさせていただいていたのですが、傾向として、やはりレビューはやや辛め。
しかし勿論、それもまた人ひとりの意見であります。
おそらくは、酷評されたお店に使役されるサクラによる嫌がらせ、さらに、何かを勘違いしている愚か者が、レビューの論調にわざわざ反論するという愚行なども重なり、あるべき世間を知らぬそのような者を、笑う努力をしつつも戸惑う我々ふたりに対し、偶然にも居合わせた救いの女神のような方の助言もあり、それが縁で、より親密なやりとりを交わすことにもなったのでした。
そして、それ以後の話の中で、こちらのお店をご紹介いただいたと、そのような、災い転じて福となす経緯があったのです。
ところで個人的に、実生活でも北海道には浅からぬ縁があり、幼い頃からその海産物は勿論、生で食べるトウモロコシや、関西ではまずお目にかかれない野太いアスパラガス、その他諸々の特産品などが、途切れることなく我が家に送られてきたものでした。
しかし、そのようなものでも、日々毎日、食べ切れぬ物で食卓が埋められると、それはそれで、やはりトラウマとでも言うべきものとなるものなのです、人間というのは。
少なくとも子供の目に映る両親は、溢れるそれらを有難がるばかり。
大人と同じものを強制的に食わされるしかない立場の人間が、その手のものはもう見たくないと、子供心に思うのも無理からぬことなのです、実際。
しかして結果、第三者には贅沢としか見ることの出来ない、誰からも同情してもらえない心理的病を抱え込むこととなった子供が出来上がった、と言うと、大袈裟過ぎるでしょうか。
とある読み物に記されている通り、「すべての子供たちが胸裏に抱く最初にして最後にもなってしまうたった一つの目標とは、このような親には決してなるまいという単純な決意なのだ」とあるような、避けようのない心持ちの芽というのは、個人的には、既にこの頃に芽吹いていたのかもしれません。
それはともかく、とにかく食べることに興味が湧かず、かといってあまりに上等のものを舌が知ってしまっているが故に、中途半端に不味いものも食べられない。
明らかなその反動として、週末になると、比較的近所で雑貨屋を営む祖母の家に泊まりに行き、菓子パンやインスタント・ラーメンを貪るというような、本末転倒の食生活を送っていたのが、恥ずかしくも勿体ないながら、幼い頃の実情でありました。
そのような事情によって、遅蒔きながら本当に食べるものの有難味や面白味を意識するようになったのは、学校を出て、結婚し、親と離れて暮らして、それなりの食材で妻に料理を作ってもらい、一緒に食べ歩きをするようになってから、でしょうか。
夫婦で美味しいものを探し、それだけでは飽き足らず、ネットで情報収集し、そこで知り合った人と、顔を会わせないまでも、美味しいお店を教え合う。
この中村軒も、そういう縁がなければ、おそらく人生のもっともっと後になるまで、知ることはなかったのでしょう。
そのような一件のあった昨年末から、機会のある限り既に何度も寄せていただき、そこそこの種類のお菓子などいただいておりますが、美味しいものを少し欲しいという時に本当に重宝するお店というのが、ここなのです。
和菓子だけでなく、にゅうめんなどもあるのですが、正直、このお料理も、あらゆる麺が好きである身ながらも、ここぞと思うお店でならば食べてみたい、という程度にしか、興味の湧かない麺類でありましたし、おそらくは今後も、こちらでなければ、食べたいとは思わないことでしょう。
そして、和のお菓子です。
例えば、おぜんざい、申し訳程度の、いわゆる観光地で供されるものとは、一線を画します。
肌理の細かい、甘すぎない漉し餡は、たっぷりにもかかわらず、少しづつ、最後まで飲み干したいという欲求に駆られるもの。
きんつばは、個人的にこれまで抱いていた、甘ったるいばかりのもそもそした物体との印象とは打って変わって、半殺しの不思議と甘さを感じない小豆の粒が、誤解を覚悟で言うと、和菓子とおにぎりの間のような、それでいて中途半端さを感じない、絶妙のバランスで調和しています。
そして、持ち帰りでいただいた、生麩餅、要冷蔵ではあるのですが、これはもう、どうしても持ち帰れない状況であるのなら、その場でいただくこと、必食の品です。
ごく最近では葛切りをいただきましたが、あまりにも頭の中で抱くイメージ通りの爽やかさに、もし、これを味わうためには暑さが必要だというのならば、今があの蒸し暑い夏であれば、どれほど良かったであろうかと、想像せずにはいられませんでした。
そして何より、麦代餅です。
どのように説明すればよいのでしょう。
柔らか過ぎず、かと言って無骨ではない。
甘過ぎず、かと言って、物足りなくもない。
飾り気はないけれど、上品さは失わない。
粘りがあるというのではないけれど、簡単には断ち切ることが出来ない。
そう、これはまるで、おばあちゃんのようなお餅なのです。
そのむかし、雑貨屋を営んでいた祖母は、家事はもちろん、畑仕事も山仕事もこなす、本当に働き者の、どんな時にも頼れる、おおらかな人でした。
今から思えば、色気があるというのではないけれども、女性としての優しさ、そして、力強さを持ち合わせた人でもありました。
高校生の時、その祖母は、人が老いれば罹るに珍しくはない病を患い、何年も入院することになりました。
思えばその頃、ある意味、虚無に取り付かれたかのように何事にも無関心な自分であったが故、親に連れられ、そのお見舞いに行ったことというのは、数える程しかありませんでした。
生まれ落ちたその時から、あれほどたくさん可愛がってもらったその人に対し、今から思えば何と薄情なことであったかと苦々しく思うのですが、今更どうなるものでもありません。
そのまま家に帰ってくることもなく、現世にも帰らぬ人となったその時にも、人とは死ぬものであると、さほど感慨深いものはなかったように思いますが、ある夜、夢を見ました。
おそらくは、小学生の頃に修学旅行で行った伊勢神宮の境内のどこか、記憶の中では大きな一枚岩の石畳のある水辺で、その水面から祖母の乗った列車が、銀河鉄道さながらに夕焼けの空に舞っていくのを見送りながら、別れが悲しくて滂沱の涙を流している自分がいました。
しばらくしてすぐに、それが夢の中だと気付き、我に返って、どれほど枕が濡れているのだろうかと思いましたが、意外にも、涙はひと欠片も流れてはいませんでした。
まだ人間になりきれていないと言っていい人生の初期、現実にはまだしばらく、その無感動な日々が続くこととなったのでしたが、しかしそれでも、流されるべき涙は、いずれどこかで流されるものなのだということを、今思えばその時、おぼろげながらも心の片隅では感じていたのでしょう。
桂離宮の向かい、一車線ながら、とても車通りの多い八条通りに面した店舗。
なのに、奥の座敷に上がり込むとその喧騒が、遠くから響いてくる心地好いざわめきのように聴こえるのだから、これは一風独特な感覚、それでいて体感してみれば、心のどこかが知っていると感じる、そう、あの感覚です。
気軽に覗ける、それでいて軽薄とは程遠い印象を受ける店頭の販売所。
その脇では、囲炉裏のある土間で軽く和菓子をいただくこともできますが、せっかくここまで足を運んだのであれば、やはり少し時間をとって、靴を脱ぎ、ぜひとも奥の座敷に上がり込みたいものです。
空気が流れるたびにカタカタと家が鳴く、その古い作り付け。
今はない、祖母の家がまだ建て増しされる前、ちょうどそのような具合で、個人的には懐かしさもひとしおなのではありますが、実際にそういう故郷を持っているという人でなくとも、田舎というのはこういうものなのだなと思わせる、情緒ある風情、ここにはそれがあります。
気取った高飛車な雰囲気とは程遠い、隙間だらけのこの建物。
しかしそれでいて、細部、特に床の間に、品を失わないための、最小限にして最大限の手間隙がかけられ、それは、今あるもので満足しつつ、それを大事にしていくという志のようなもの。
それこそが、京都の良いところ、つまり京都的良心であると教えてくれるのが、このお店の佇まいなのです。
まさにこういう場所こそが、本当に失われてはならない処なのであり、現代の成金主義的喧騒から一服人を逃れさせてくれる、ほっとした心持ちにさせてくれるという、稀有な場所であるのかもしれません。
ただ、その雰囲気もさることながら、それだけでは勿論なく、間違いなく、個人的に和菓子に対する認識を改めざるを得なくさせられた、和菓子の奥の深さを教えてくれたすごいお店、それが、ここなのです。
餡がどうだ餅がどうだと、和菓子の事だけ聞ければそれでよい。
そう思われる方もあるかもしれませんが、ひとりの人間が色々ある人生の中で、ここ中村軒の麦代餅が、どうしてそんなに美味しいと感じたのか、それは、例え話のようなものでしか説明の出来ないものであるということ、それは重々理解してもらわなければと、思います。
餅のことだけ端折って要領良く聞き、わかったような気になりたいという方は、以下の文は読まないほうがよいかもしれません。
興味のある方だけ読んでいただければと、心から思うのです。
市内ではないにしろ、生まれて此の方、長らく京都に住んでいるのにもかかわらず、こちらのお店を知ったのは、恥ずかしながら京都に縁もゆかりもお持ちでないであろう、北海道出身の方からのご紹介によってでした。
思いがけないトラブルから親しくなったその方は、食べ物の好み、嗜好性は各々であるものの、特に味覚にしっかりした基準をお持ちであったので、常々いくらかお店探しの指針にさせていただいていたのですが、傾向として、やはりレビューはやや辛め。
しかし勿論、それもまた人ひとりの意見であります。
おそらくは、酷評されたお店に使役されるサクラによる嫌がらせ、さらに、何かを勘違いしている愚か者が、レビューの論調にわざわざ反論するという愚行なども重なり、あるべき世間を知らぬそのような者を、笑う努力をしつつも戸惑う我々ふたりに対し、偶然にも居合わせた救いの女神のような方の助言もあり、それが縁で、より親密なやりとりを交わすことにもなったのでした。
そして、それ以後の話の中で、こちらのお店をご紹介いただいたと、そのような、災い転じて福となす経緯があったのです。
ところで個人的に、実生活でも北海道には浅からぬ縁があり、幼い頃からその海産物は勿論、生で食べるトウモロコシや、関西ではまずお目にかかれない野太いアスパラガス、その他諸々の特産品などが、途切れることなく我が家に送られてきたものでした。
しかし、そのようなものでも、日々毎日、食べ切れぬ物で食卓が埋められると、それはそれで、やはりトラウマとでも言うべきものとなるものなのです、人間というのは。
少なくとも子供の目に映る両親は、溢れるそれらを有難がるばかり。
大人と同じものを強制的に食わされるしかない立場の人間が、その手のものはもう見たくないと、子供心に思うのも無理からぬことなのです、実際。
しかして結果、第三者には贅沢としか見ることの出来ない、誰からも同情してもらえない心理的病を抱え込むこととなった子供が出来上がった、と言うと、大袈裟過ぎるでしょうか。
とある読み物に記されている通り、「すべての子供たちが胸裏に抱く最初にして最後にもなってしまうたった一つの目標とは、このような親には決してなるまいという単純な決意なのだ」とあるような、避けようのない心持ちの芽というのは、個人的には、既にこの頃に芽吹いていたのかもしれません。
それはともかく、とにかく食べることに興味が湧かず、かといってあまりに上等のものを舌が知ってしまっているが故に、中途半端に不味いものも食べられない。
明らかなその反動として、週末になると、比較的近所で雑貨屋を営む祖母の家に泊まりに行き、菓子パンやインスタント・ラーメンを貪るというような、本末転倒の食生活を送っていたのが、恥ずかしくも勿体ないながら、幼い頃の実情でありました。
そのような事情によって、遅蒔きながら本当に食べるものの有難味や面白味を意識するようになったのは、学校を出て、結婚し、親と離れて暮らして、それなりの食材で妻に料理を作ってもらい、一緒に食べ歩きをするようになってから、でしょうか。
夫婦で美味しいものを探し、それだけでは飽き足らず、ネットで情報収集し、そこで知り合った人と、顔を会わせないまでも、美味しいお店を教え合う。
この中村軒も、そういう縁がなければ、おそらく人生のもっともっと後になるまで、知ることはなかったのでしょう。
そのような一件のあった昨年末から、機会のある限り既に何度も寄せていただき、そこそこの種類のお菓子などいただいておりますが、美味しいものを少し欲しいという時に本当に重宝するお店というのが、ここなのです。
和菓子だけでなく、にゅうめんなどもあるのですが、正直、このお料理も、あらゆる麺が好きである身ながらも、ここぞと思うお店でならば食べてみたい、という程度にしか、興味の湧かない麺類でありましたし、おそらくは今後も、こちらでなければ、食べたいとは思わないことでしょう。
そして、和のお菓子です。
例えば、おぜんざい、申し訳程度の、いわゆる観光地で供されるものとは、一線を画します。
肌理の細かい、甘すぎない漉し餡は、たっぷりにもかかわらず、少しづつ、最後まで飲み干したいという欲求に駆られるもの。
きんつばは、個人的にこれまで抱いていた、甘ったるいばかりのもそもそした物体との印象とは打って変わって、半殺しの不思議と甘さを感じない小豆の粒が、誤解を覚悟で言うと、和菓子とおにぎりの間のような、それでいて中途半端さを感じない、絶妙のバランスで調和しています。
そして、持ち帰りでいただいた、生麩餅、要冷蔵ではあるのですが、これはもう、どうしても持ち帰れない状況であるのなら、その場でいただくこと、必食の品です。
ごく最近では葛切りをいただきましたが、あまりにも頭の中で抱くイメージ通りの爽やかさに、もし、これを味わうためには暑さが必要だというのならば、今があの蒸し暑い夏であれば、どれほど良かったであろうかと、想像せずにはいられませんでした。
そして何より、麦代餅です。
どのように説明すればよいのでしょう。
柔らか過ぎず、かと言って無骨ではない。
甘過ぎず、かと言って、物足りなくもない。
飾り気はないけれど、上品さは失わない。
粘りがあるというのではないけれど、簡単には断ち切ることが出来ない。
そう、これはまるで、おばあちゃんのようなお餅なのです。
そのむかし、雑貨屋を営んでいた祖母は、家事はもちろん、畑仕事も山仕事もこなす、本当に働き者の、どんな時にも頼れる、おおらかな人でした。
今から思えば、色気があるというのではないけれども、女性としての優しさ、そして、力強さを持ち合わせた人でもありました。
高校生の時、その祖母は、人が老いれば罹るに珍しくはない病を患い、何年も入院することになりました。
思えばその頃、ある意味、虚無に取り付かれたかのように何事にも無関心な自分であったが故、親に連れられ、そのお見舞いに行ったことというのは、数える程しかありませんでした。
生まれ落ちたその時から、あれほどたくさん可愛がってもらったその人に対し、今から思えば何と薄情なことであったかと苦々しく思うのですが、今更どうなるものでもありません。
そのまま家に帰ってくることもなく、現世にも帰らぬ人となったその時にも、人とは死ぬものであると、さほど感慨深いものはなかったように思いますが、ある夜、夢を見ました。
おそらくは、小学生の頃に修学旅行で行った伊勢神宮の境内のどこか、記憶の中では大きな一枚岩の石畳のある水辺で、その水面から祖母の乗った列車が、銀河鉄道さながらに夕焼けの空に舞っていくのを見送りながら、別れが悲しくて滂沱の涙を流している自分がいました。
しばらくしてすぐに、それが夢の中だと気付き、我に返って、どれほど枕が濡れているのだろうかと思いましたが、意外にも、涙はひと欠片も流れてはいませんでした。
まだ人間になりきれていないと言っていい人生の初期、現実にはまだしばらく、その無感動な日々が続くこととなったのでしたが、しかしそれでも、流されるべき涙は、いずれどこかで流されるものなのだということを、今思えばその時、おぼろげながらも心の片隅では感じていたのでしょう。