カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

中国菜 オイル

2011年11月27日 | 大阪
「応用中華自己化学。」

大阪駅の北側、陽も暮れて、極端に人の気配の少ないその倉庫街、薄暗闇の夜道を歩きながら、さっきの料理は何だったんだろうかと、カゲロウは想いを巡らせる。
普通では、決してない。
言うまでもなく、安っぽい中華などでは勿論なく、かと言って、伝統的広東料理として、王道であるとも思えない。
あの、堅くコッテリとした食感、いや、そういう風に言うよりも、料理としての印象は、やはり、独特のものだと、カゲロウには思える。

グルメでもマニアでもない、そう成りたいとも思っていない、そんなカゲロウは、常日頃、あらゆる料理を同じ土俵で測ることを旨としている、そんなフシがある。
つまり、広東料理とジャンル分けされたものが、何を以ってそう判断されるのか、そういうことに重きを置きたくはないのではあるが、それでも、何となくは、そういう世間の基準というものが、自分がそうあるべきと思う認識を、否応なく侵犯して行くことは、生きていて避けようのないことではある。

いずれにせよ、意外な組み合わせと、コッテリとした深みのある味付けであった今夜のディナーは、一概に好みと合致したとは、正直その時は思わなかった部分もあるものの、食後、考えれば考えるほどに、良く出来た、評価すべき料理だと思えてくる、そんな印象深さがある。

だがしかし、それはあくまで、その料理、一品一品に対する評価であって、だから一概に、広東料理が優れているのだというような認識は、ひたすら浅墓な決め付けであると、やはり、静かに、カゲロウは思索する。

例えば、ある音楽を聴いていて、なるほど、好い曲だと思い、自分でその曲を楽器で弾いてみると、ただ聴いているだけでは聴こえていなかった、そんな音が聴こえて来る、そういうことが、ままある。
それは、自分で弾いてみれば、より深く曲を理解できるからだというような見解は、おおよそ大雑把で無責任な言い様で、そんな漠然とした感覚ではなく、下手なりに自分でその曲を演奏してみると、その曲の荒削りな、手触りの感触とでもいうものが、実際の経験として、自らのものになる、そういう感覚があるものなのだ。

カテゴライズされ、一般化されたそれらというのは、その荒削りな部分を削れるだけ削り、出来得る限り大衆に受け入れられるよう、ソフィスティケイトされてしまっている。
それが巷に溢れる音楽であり、料理であるのだが、大衆はそれが当たり前だと、常々思い込まされている。
だが、そんなものに、実際に人が作った、手触りの感触などというものが、存在するはずがない。
聴き易く、食べ易いかもしれない、だがそこには、血が通っているとは到底言えない、白けた感覚が在るばかりである。

本当に、人が自分の手で作ったものというのは、耳障りであったり、少々荒削りであったりするのは当然のことで、そこにこそ、その作り手の人間性が現れる、そういうものなのだ。

音楽であれ、料理であれ、優れた作り手にとって、杓子定規に過ぎないジャンルなどというものは、実は自己表現の為の方便に過ぎず、その為に利用されるものに過ぎず、結局その料理というのは、彼そのものでしかない、そういう料理こそが本物であり、此処、オイルの料理というのは、まさにそのようなものであったように、カゲロウには思えたのだった。

中国菜 オイル四川料理 / 福島駅西梅田駅大阪駅
夜総合点★★★★ 4.0


紀元

2011年11月24日 | 兵庫
「味わい、繚乱。」

これだけ安価なランチのラインナップに、ここまでベースの違う味わいの料理が並ぶというのは、実際、凄いことだと、カゲロウは感心する。
勿論それは、下拵えあってのことであり、そこに、勢いで鍋を振るような街場の中華屋の雰囲気は、おおよそ窺うことは出来ない。
出来上がってみないと、その日の出来は、わからない、そのような行き当たりバッタリではなく、計画的に、用意周到に、滞りなく、様々の味覚を刺激する仕組みが、其処に見て取れる。

蒸し鶏は、濃厚なココナッツの味わいが、他店とはひと味違う深みを漂わせ、海老チリは、辛さで他の料理の風味を喰ってしまわない、絶妙な奥行きを有していて、そのソースは、最後まで、残ったそれだけでも掬い取って舐めてしまう、それ程の旨さがある。
サラダはシンプルにサッパリと、しかし漬物は、かなり力強い酸味で、口直しという以上に、一品の料理としての存在感を確りと示している。

そして主役は、クリーミーで得体の知れない複雑さを内包した、しかしそれでも、あるべき上品さは失わない、そんな風情の中華粥である。
量もタップリ、それのみ、単独でランチでの提供であったとしても、何の文句も出ないであろうその粥が、その他の六皿に更に支えられ、その深く優しい旨味を、存分に発揮している。
其処には、一品たりとも手を抜かない、そんな他のメニューが在ってこそ、更にその粥の存在が際立つものであるとの、味覚の魔術師、料理人たる者の計算が窺える。

勿論、たったの一千と五十円で、これだけの品数が目前に並ぶというそれだけで、人というのは高揚感を覚えるものではあるが、しかし世の中になくはない、見掛け倒しの料理店で、ままありがちな、残念なことというのは、その全ての皿の風味、そのベースというのが、結局は同じであるように感じられ、外見的な色合いの違う、実は同じ味のものを、ただその量、食べただけという、食前の期待からすれば、むしろ、大きなマイナスのイメージを抱かざるを得ない、そんな食事が提供されることも、世の中しばしばである。

だが、こちらの紀元に関しては、これだけの品数以上に、さらに選べる、そのランチの内容、その品目の多様性、その味覚的広がりが、実際、最後まで、食道楽の期待を裏切らない、真の満足感を与えてくれる、そんな凄いランチであると、この咲き乱れんばかりの味わいに、カゲロウは甚く感心させられたのであった。

紀元広東料理 / 花隈駅西元町駅大倉山駅
昼総合点★★★★ 4.0


中華料理 秀林

2011年11月19日 | 大阪
「味わいの、隙間に在る水。」

言葉の綾であることを重々承知の上で、それでもその言葉を使いたくなる、それ程に、本国の人であろう料理人たちが作る中華料理というのは、微かな味わいの節々に、どこか瑞々しさを感じさせると、カゲロウはいつも感心するのだ。

一品の料理の中には、それぞれの素材は勿論、おおよそ様々な調味料における、各々の風味が混在していて、しかし、良い意味でそれらの風味が、口中にて別々に感じられるような、文章でいうところの、行間が存在するというか、全てを無理にでもつなげて扁平にしてしまう、それ以前の在りのままの姿が、彼らの料理には感じられるような、そんな気がするのである。

勿論、その味わいを作り上げるには、サーカスの綱渡りのようなバランス感覚が必要で、一歩間違えば、そこは奈落の底、とんでもなくバラバラの、無残な味わいしか持たない、料理とも言えない料理が出来上がってしまうわけで、そのような誰にも望まれない存在を生み出す料理人など、当然のこと、料理人を名乗る資格など毛頭ない。

そのバランス感覚というのが、天性のものに限られるのか、後天的に、努力によって手に入れられるものなのか、そこのところは定かではないにせよ、中国における料理人としてのランキング制度というものは、おそらく日本のような、全ての上下があやふやな社会とは、ひと味違った厳しさがあるのだろうなと、カゲロウはその背景を、多少思い遣らずにはいられない。

そして、料理といえば、頭から離れず、考えずにはおれない魔法の粉の存在、それは果たして、国外にもその魔的な触手を伸ばしているのか、あるいはひたすら、日本独特のものなのであろうか、と。

卑怯な程にあまりにも容易く、味と味の間をつないでしまうその粉は、あらゆる料理に、その擬似バランス感覚を安易にもたらし、その素材や調味料本来の持つ、独特の角を削ってしまう。
あらゆる味を扁平にする、その効果の程は、まさに魔法の粉と呼ぶに相応しい、そんな存在であり、多くのラーメン屋がその粉に頼り、出来得る限りは、自分の味をと心掛けている料理人でさえ、開店時間間際、苦心したスープの味の調わないその時には、止むを得ず、その粉に頼ることに、なるとかならないとか。

そしてその内、易きに流れる人間の性で、その手法が常態化し、残念なことに、その味わいが、その店の味となってしまい、あらゆる料理店から、味の個性というものが消え失せる。

本場中国の料理人のプライドが、この国において、何卒、末永く、その魔法の粉の誘惑に負けてはしまわないよう、切に祈るばかりである。

中華料理 秀林 中華料理 / 桜井駅
夜総合点★★★★ 4.0


まねきそば

2011年11月14日 | 大阪
「舟、漕ぐ男。」

ヨル11時過ぎ、ぶらり横丁の一角で隣に立つその男は、小さくはない器を2つ空にして、まだその場を立ち去る気配はない。
その男が物事の順序通り、この場を潔く立ち去ってくれさえすれば、その向こうにある冷水機から、プラスチックのコップに冷たい水をタップリ注ぎ、そばの汁で火照った、このじわりと汗の滲む身体を、さっぱりと冷ますことが出来るのだが。

この200円という価格からすれば、充分に納得の行く内容の福蕎麦は、その静かな出汁の風味は人に優しく、その量も胃袋を満たすにナカナカのものである。
にもかかわらず、隣の男はそれに飽き足らず、どうやら更に、同じ大きさの器で提供されるカレーをも平らげ、しかも蕎麦の汁、一滴すら残してもいない。

しかしそれにしても、何故この男は、早々にこの場を立ち去ってくれないのか?

顔の角度は変えず、視線は合わさず、それとなく横の気配を窺っていると、何やらふいに男の体が、前後に揺れ始める。
咄嗟に危険を察知して、委細構わず男の顔を覗き込んでみると、案の定、おおよそ、その瞼は閉じている。
時折開こうと努力するその瞼は、だがしかし完全に持ち上がることはなく、薄く白目を窺わせるばかりの赤ら顔で、その風情を見ると、先程までは感じなかったアルコール臭が、心なしか漂ってくるようにも感じられる。
この夜更けに、ポッカリと空になった大きな器は、アルコールによって満腹中枢を破壊された者のみが発揮することの出来る力、その成果なのであろう。

そして、途端、ガクリと男の膝が崩れ落ちようとする、しかし、何故か不思議と、人間、こういう場面では、持ち堪えるものなのだ。
だが、それも二度三度とは、期待出来ない。
この男の漕ぐ舟が、沈没間近なのは明らかだ。
この男の向こう側にある冷たい水など、期待している場合ではない。
とばっちりを喰わない内に、退散するに限る。
此処の支払が、食券での先払いで、本当によかった。

さて、この男の漕ぐ舟は、沈没せずに、明日は何処かに向かうことが出来るのか、知る由もない。

まねきそば うどん / 梅田駅(阪神)大阪駅梅田駅(大阪市営)
夜総合点★★★☆☆ 3.5


かどや飯店

2011年11月08日 | 大阪
「路傍の、餃子。」

この御店の餃子が、どう好いのか、その話をする前に、先ずは、世の中の餃子全般について、少し考察してみたい。
しかし、世の中、とまでいうと、話が広過ぎる嫌いもある。
なので、此処では関西に限定して、話を進めてみよう。

すると、その外食における消費量の、少なく見積もっても50%程度は、とある外食チェーン、将棋の駒のひとつの名称をその看板に掲げる、そんな御店の提供する餃子が、独占禁止法も何するものぞとばかりに、幅を利かせているのが現状である、そう言っても過言ではあるまい。
いや、もしかするとそれは、過言そのものなのかもしれないが。

兎も角その割合に関しては、各々の見識に任せるとして、その餃子というのは、確かに、誰にも文句は言わせない、それだけのボリュームと旨さを併せ持っている。
感覚的な概念として、普通であると思われる餃子、その大きさよりも、少し、しかしハッキリと大きい。
薄い皮の中には、みっちりとタネが詰まっており、程好くニンニクも効いていて、非常に大きな満足感を、多くの食道楽にもたらす餃子であることに、疑いも異論もないのではあるが、だがしかし、それはやはり、食べる者の欲望に合わせた、過剰な旨さであるとも言い得る代物なのである。
誰も不満を言わない、だから、それでいい、世の常識からすれば、そうなのではあろう。
だが、それがイコール、ベスト、つまりスタンダードと言い得る状態であるのかといえば、それはそうとは限らない。
過剰な欲望に合わせた餃子は、やはり存在として、過剰なのである。

そこで、この御店の餃子である。
過剰なまでの消費者の欲求に、コスト的にも、出来得る限り応えようとする餃子、その大きさに慣れてしまっている眼からすれば、どちらかというと、少々小ぶりなように、見えなくもない。
そして、それ以外の点においては、取り立てて特徴もなく、見るからに唾が沸き、食欲をかき立てられるという風情とも言い難く、焼き目以外の部分の白さには、そこはかとなく上品さすら漂うと、言って言えないこともない。

では何が特筆すべき点なのかといえば、それはやはり、見ているだけではわからない、食べてみないとわからない部分であって、しかも、複数回、食べてみればみる程に、その旨さに気付かされるという、何とも奥ゆかしい好さが、この餃子にはあるのだ。

もう一度言おう、どこが好いのか、それは実際に複数回、己の味覚で確かめるしかない、そんなところではあるのだが、あえて、一点だけ、わかり易い点を述べるのであれば、それはやはり、その餃子の皮、そのもちもち感、噛んだ時のぐにゃりとした食感にあるということは、おそらく誰にとっても言えることであろう。

だがしかし、それさえも、初体験でありありと感じることが出来るという訳ではなく、何度か食べて、あれ?此処の餃子、他と違うなと、何となく気付く、そういう慎ましやかな、しかし、明らかな差違が、その生地には秘められており、そしてそれが、餃子存在としての秘儀、ありふれて世の中に在るようでいて、実はない、顧客の欲望にも、コストの削減にも左右されない、スタンダードとでも言うべき、正しく、美しき餃子、その在り様なのである。

かどや飯店 中華料理 / 大阪空港駅蛍池駅
夜総合点★★★☆☆ 3.5


グリルじゅんさい

2011年11月04日 | 京都
「迫れ!じゅんさい、その謎に。」

鋭く切り立ったエッジを持つ、茶褐色の肉片、そのような言い回しが、読む人の食欲をそそるものなのかどうなのか、その如何に関わらず、現実としてそのビーフシチューの肉塊は、不思議なくらいに幾何学的に、鋭利に直方体を成していて、どのような調理法によって、この完成形までその形体を維持することが出来たのか、それはひとつの秘儀であるような、そのような深遠さすら感じさせる、これはひとつの謎である。

そしてその謎は、この料理店の店名「じゅんさい」という響きにも似たものがあり、実際、何の変哲もない洋食屋に過ぎない風体の、この御店を彩るこのふたつの不可解は、訪れる者の心に、おおよそ奇妙で小さな違和感を与える。

では、そのふたつの謎を順に解き明かしていくにあたり、自らを真面目な人間だとそれなりに自認する、そのような方々には、是非とも、この先を読むことを止めて戴けるよう、重々にお願いしたい。

実際、この鋭利な角を持つ、ビーフシチューの肉塊は、最悪の場合を想定せずにはいられない、そんな外見的印象を併せ持つとも言い得るだろう。
当然、煮崩れしていないということは、それなりの硬さ、それどころか、それなり以上の硬さである、そんな可能性というのは、誰しも望まないが、しかし大いにあり得る、ありがちな現実である。
だがしかし、箸を入れるとホロリと崩れるその柔らかさ、肉の内部にまで染み込んだシチューの水分、そして旨味は、予てからの、一見してのその懸念があるからこそ、更に嬉しい驚きを上乗せするという流れで以って、食道楽の心理を満足へと導いていると言えるだろう。
そのような成り行きの、結果良ければ、全て良し!という、身も蓋もない現実を踏まえ、この煮崩れしないビーフの謎は、究明せぬが華、謎は謎のままでということで、一件落着である。

そしてふたつめの謎、この「じゅんさい」と名付けられた店名の不可解である。
実はこれ、HP上にて、事細かにその命名の成り行きが記されており、由来としては、全く謎でも何でもない。
端折って述べるならば、今も昔もその存在自体は変わらず御店の脇に在る、有名な宝ヶ池でも、あのヌルリとした食感の不思議な植物、じゅんさいが、以前は幾らか収穫できたということらしい。
勿論、開発の著しい宝ヶ池には、今はもうその植物はないのだが、件の京都最大の心霊スポットでもある深泥ヶ池では、今も多少は自生しており、ただ、食用の多くは、現在は中国産に頼っているということのようである。

さて、話はスッキリしたようである。いやいや、実は何も、スッキリとは、していない。
昔、近所でじゅんさいが取れた、それはわかった、だがしかし、何故、ひとりの人間が、人生を賭してオープンした洋食屋に命名するにあたって、あえてその店名が、ヘンテコで、存在として脱力感溢れる奇妙な植物、「じゅんさい」になったのか、サッパリその根拠、その意図、そして何よりその意気込みは、ホトホトわからない、そのままである。

やはり、謎は謎のまま、それもすっかり呑み込んだ、その上で訪れ、この「じゅんさい」の洋食は、楽しむべきものであるということらしい。

グリルじゅんさい 洋食 / 国際会館駅八幡前駅宝ケ池駅
昼総合点★★★★ 4.0