カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

SOBACafe.さらざん

2012年02月23日 | 京都
「シンギングソングライティング。」

初めてのガレットです。

焼いた生地に具を載せて、それを切り分けて食べるということでは、理屈としてはピザの一種のようでもあり、しかしそれを和風というか日本風で喩えるのなら、成り行きを同じくして、お好み焼きのようでもある、しかし実際には、その生地の薄さから言うと、風味がインド風であるというわけではないけれど、ナンをちぎってカレーに浸して戴いているような、そんな感覚がいちばん近い、個人的には、ボルネオ島に旅行した時に戴いたことのある、ナンの超薄焼き生地、ロティチャナイを食べた時の感覚にそっくりだったことを、食べているその時というのはどうしても思い出せずモヤモヤしていたものの、後日ふと思い出して、自分の経験したことのあるその感覚にこの初めて戴く食べ物の印象がやっと符合して、訳もなく安心した、それが、このガレットという食べ物を生まれて初めて戴いた、その感想でした。

以前から興味を抱きつつも、名称と外見以外の具体的な由来は何も知らず、その生地の原材料というのが、おおよその場合は蕎麦粉であると、そんなことすら知らない、そういう気のない現状ではあったものの、それが実際、大好きな蕎麦切りと同じく、あの蕎麦の実から出来ている料理であると知って俄然興味が湧いたのが、いざガレットを戴いてみようと思った、その動機でした。

ただ、そこで面白いのは、この御店の若き女性店主が、ガレットを提供しようと思ったその発想というのが、原材料である蕎麦の実を栽培し、それで何が出来るのかというところから先ず出発したという、非常にラジカルなエピソードで、調理ありきの料理人とはまったく別の着想、言うなれば、より長い眼で見た大きな視点から、こと提供する料理の内容だけに限らず、御店全体のヴィジョンをカタチにして行った、そのイメージの実現化の過程というのが、本当に素晴らしい、夢のある話だと感じ入ったと、そういう訳です。

喩えれば、調理をするだけの料理人というのは、他人の作った歌を自分なりに唄う、それだけのようなもの、しかしその原材料を自分の手で栽培することというのは、自分の唄う歌を自分で作るようなもの、そして、その料理を提供する御店を自分でイメージし、さらに実際に自分で手をかけてその建物を作り上げること、それは、その曲の入ったアルバムのジャケットをも自ら撮影することにも匹敵する、そんなオールマイティな才能であり、努力であるように思うのです。

寛げるカフェとして、飲み物だけで過ごすことにも充分に耐え得る美的センスが見事に発露したこの御店ではありますが、実際のところ、折角この御店にやって来て肝心のガレットを戴かないこと、それはそれは大変に勿体ないことであると、そう述べる外ありません。

手でちぎって齧りついてもよし、ナイフとフォークで切り分けてもよし、箸でも食べるもよし、そういう自由な食べ方が許される、そんな大らかな雰囲気をも漂わせるこのガレットという食べ物は、日本に住む多くの人にとって未知であるが故に、この御店のメイン・メニュウとして気軽に採用され、提供され、ささやかな期待とともに気楽に戴くことが出来る、それはおそらくは、多くの人にとって、どこか馴染みのある感覚で、しかしおそらくは、やはりハッキリ目新しいと感じられる、ガレットとはそんな食べ物であると、大いに感じ入った次第であります。

SOBACafe.さらざんカフェ / 五条駅(京都市営)四条駅(京都市営)清水五条駅
夜総合点★★★★ 4.5


酒肴屋 じじばば

2012年02月19日 | 京都
「探しに行こう、次の角まで。」

これは物語りである。

その日の夕方、時化た雰囲気の仕事の寄り合いもやっと終わり、カゲロウはその妻とともに京都駅前に新しく出来たヨドバシカメラの6階で、駄目で元々と突然に誘いの声をかけてみた同窓生を、ふたりして待っていた。

訳あって独り暮らしになったというその彼に、詳しい事情を一度直に訊いてみたかった、それが随分以前に会ったきりの彼に声をかけたその理由なのは、言わずとも彼自身わかってはいただろう。
だが彼は、その飲み会を拒みはしなかった。
もしかして成り行き的に何も聞けなかったとしても、それはそれで充分である、楽しめればそれに越したことはない、きっとお互いそう思えることだろうと、カゲロウは割り切ってもいた。

ヨドバシの6階、よそ行きの服を着てその妻が立ち読みしているのは、現代ベスト・ロック・ギタリストの特集を組んだ月刊誌で、その風情に違和感を覚えているのは、いつもの如く周りだけで、本人がその不自然さに気付く気配はまるでない。
大垣書店での待ち合わせなら、時間潰しにいいだろうと思ったカゲロウの思惑は、過不足なく報われたのではあったが、何となく色んな意味でそわそわしつつ、カゲロウは彼を待つ。

間もなくやあやあとやって来た彼が、以前と変わらない若さを保っているように見えるのは、単にカゲロウの身贔屓なのか、実際そうなのか、客観的には判断がつかないものの、それは各々お互い様のようで、3人は時をおかず、すっかりあの頃に戻った気分で、詰まらないことを言い合いながら、若かりし時のように行き先を打ち合わせることもなく、適当に気の向くままに歩き出す。

愚痴とも自慢ともつかないサラリーマン道を常日頃から説く風情の彼は、その割りに意外にも京都駅周辺の呑み屋には詳しくないのだという。
とりあえず七条通りに上がって西に折れ、幾らか話に聞いたことのある、その奇妙な名前の店をカゲロウは探してみる。
だがしかし、噂に聞く周辺の特殊な風情を窺ってはみるものの、直ぐには見当たらない。
とりあえず次の角まで行ってみようとするその途中に、噂のリド飲食店街はあった。

確かに車で前を通るくらいでは、それとはわからない造りの路地の中側に、数軒の飲み屋が軒を連ねている。
こんな時代がかった風情の一角が、よく今までこの街中に残っていたものだ。
ただ、灯りの入ったその通路に人影はなく、その一角は、賑わっているというには程遠い。
まだ時間は早いといっても既に1900過ぎ、平日とはいえ覗く店先にも先客はなし、この不景気もそろそろどうにかならないものかとの世知辛い思いが、カゲロウの脳裏に一瞬間、瞬く。

その店、じじばばを訪れること初めての3人が、引き戸を開けて思わず驚く狭さのカウンターは、おそらく一般的な基準での施工は許されないであろうと思える、身動きも取れない省スペースで、それでもこの店でやって行けると踏んだ店主の頑固さを、カゲロウは出端から垣間見るような心持ちがする。

適当に注文した料理のおおよそは、当然のことながら濃い味付けの酒の肴ばかりで、料理は料理として、酒との相性を求めないカゲロウとしては、正直、手に負えないと思える面もあるものの、それでもきっちりと手抜きなく調理されているのがよくわかる、真面目な料理であるということは理解できる。

当初、生ビールが軽くて癖のあるハイネケンだと知り、ちょっと注文を控えるつもりの様子に見えた彼も、呑ませることに特化したその料理に乗せられて、いつの間にかあれよあれよとジョッキは進み、結局5杯以上は呑んでいたことだろう。
ただカゲロウは帰りの運転のこともあって、酒にも肴にも満足にはありつけず、独り自分用に、こんな類の店では意外といってもいいであろうそのメニュウ、スパゲッティなどを所望してみたりもする。

とりあえずと、3人が飲み食いに重きを置いている状況で、程なくして、意外なことに、西洋人の4人連れが、ガイドブックでも見て来たのか、こんな風変わりな店にわざわざご来店である。
そして如何にもよそ者らしく、もの珍しげに、ひそひそと、仲間内だけで、わからぬ言葉を交わし、黙る。

そして更に、その直ぐ後に表れてカウンターの残りの席を占拠したのは、何と、カゲロウがさっき別れたばかりの仕事関係の2人組で、驚いている相手とともに、こんな可笑しな場所で何の打ち合わせもなく鉢合わせするなんて、世の中、本当に狭いものなのだなと、カゲロウも驚きを禁じえず、その不思議に甚く感心する。
その2人は既にご機嫌もよろしく、彼らの知らぬ顔も混じっている同窓生3人組に、気前よく、スパークリング・ワイン、セグラビュータスをボトルで開けて振る舞い、重ねてこのじじばばお勧めの日本酒で、神亀の純米活性にごり酒も景気良く開けてしまいましょうかと穏やかに誘う。

だが、思うところのあるカゲロウは独断で遠慮して、いや、もうそろそろお暇しますのでと、その申し出をあえて遮る。
実際その時点でかなりの長居ではあったのだけれど、それ以上に、仕事の関係者と、昔馴染みの同窓生という存在を、自分の中で一緒にはしたくなかったというのがカゲロウの本音だろう。
そう、その二つの人間関係というのは、決して同じニュアンスには成り得ないものなのだ、少なくともカゲロウにとっては。

そんなカゲロウの雰囲気を察し良く感じ取ってか、後に入った二人は程々に呑んだ後、あくまで礼儀を失わず、結局は先に立ち去って行った。
そして席が空くが早いか直ぐその後には、再び、既に出来上がり過ぎた様子の別の二人組みが腰を下ろし、その内の一人は、席に着くなり早速にカウンターに突っ伏している。

普段、カゲロウといるだけではそれほど杯の進まないその妻も、昔馴染みの彼につられて既にジョッキ3杯は越えているであろうか、誰が何を言っても可笑しい、そんな状態に突入している。
すっかり学生時代の感覚に戻り、一組の夫婦という関係もほどけて、単純に三人組の友人と化し、皆で馬鹿笑いしているその中で、「オマエ、メッチャ酔うてるやろ!」、彼が妻にそう言った途端、不意にカゲロウの背後から、「酔ってないよ!」と、突っ伏していた見知らぬ男が唐突に叫び、再びガクリと眠りに堕ちる。
店内の誰もが、「誰もオマエには言ってないし、しかも、オマエは明らかに酔ってるよ」と言いたかったところだろうが、そんな間もなく笑いが起こり、そのまま平和な時が流れて行く。

どんどんと杯が進み盛り上がりを見せる客と、場に慣れない外国人に挟まれた格好の店主は、暫し間が持たなくなると、カウンターに両手をつき、視線を落として一点を見つめている。
実は独り酔ってはいないカゲロウは、そんな彼を見て、そういえば北新地の料理屋でもこれと同じ仕草を見たことがあるなと思い出す。
そしてその仕草というのは、そこそこの店で修行をしたことのある料理人に植え込まれる、ちょっとした悪い癖のようにカゲロウには思える。
意識しようとするまいと、彼に限らず誰かに師事したことのある人間というのは、きっとその師の佇まいを良くも悪くも受け継いでしまうものなのだろう。
そう、好きではないはずの父親に、歳を追う毎に似てくる自分を感じざるをえない息子のように。
それが家族であり、家族とはそういうものなのだ、おそらくは例外なしに。

程好く酔い、程好く話せた3人が、心置きなく別れを告げたその時は、既に2300を回っていた。
呑みながら、一般的な話として言ったところで、大方の人にはわかってもらえないだろう、しかしカゲロウ夫婦ならと彼が打ち明けてくれたその話の内容というのは、カゲロウにとってはそれでも本質的なものだとは思えない部分もあったにせよ、それでも充分に彼の心持ちはわかったような気がするのは、あながちカゲロウの勘違いというわけでもあるまい。

そして明けて翌日、二日酔いのお見舞いメールの返信を傍受した妻から、カゲロウは興味深い後日談を聞くことになる。

それによると、彼はその後、ビールとスパークリング・ワインを、ちゃんぽんして呑んだその作用によって、案の定、電車で降りるべき駅を乗り過ごし、しかしどのようにかして自宅に辿り着いてみると、手に入れたばかりのi-Phoneが懐にない。
自宅のPCを使い、GPS機能で追ってみると、どうやらあまり心当たりのない道端に、そのi-Phoneは落ちているようだ。

はたしてどのようにかして、彼は独り真夜中にその場所まで駆けつけて、朝の6時まで探し続けてみるも、そこにある筈のi-Phoneは見つからない。
暗闇の中で落し物を見つけるのは、夕方に呑み屋を探したように簡単には行かないようで、幾つ角を曲がっても見つからず、彼はとりあえず一旦会社に出勤し、そして結局、不思議なことに、その日の内に、何故か郵便局からその失せ物の連絡が来たのだという。

おそらく、それを拾った人物は、運良く盗人ではなかったものの、交番に届け出る面倒臭さからか、思いも寄らぬことに、どうやらそのまま近くのポストにi-Phoneを投函してしまったようだ。
それは、無責任な行為ではあるけれど、ある面、社会の仕組みをよくわかっていないと思いつかない、ある種賢明な行為ではある。
親切であるとはいえないけれども、馬鹿ではないその人物の投げやりな遣り口に、カゲロウは少々感心しないでもない。

失くしてしまったi-Phoneを、彼が徹夜してでも懸命に探したその理由というのが、単に買ったばかりで惜しかったからなのか、それとも、それ以上に、離れて暮らすことになった家族とのつながりを失ってしまわないようにとの思いで必死だったのか、勿論そのどちらもではあるだろうが、そこのところを厳密に問い詰めたところで、そうすることには何の益もない。
問われたところで、きっと彼は照れてしまって本心を出すこともないだろう。

そして実は本心というものは、たとえ本人が出そう出そうと心掛けていてさえも、常日頃からの心掛けなしには、容易に出すことはできない、おそらくはそういうものなのだ。
だからカゲロウは、それを彼の話や素振りの節々から思い遣り、少なくとも己に理解できるところだけでも同情するしかない。
結局はその程度の理解でしかないのではあるれど、それでもそのある種滑稽な後日談を聞いて、カゲロウは何だか安心したような、そんな心持ちがしたのだった。

酒肴屋 じじばばダイニングバー / 京都駅五条駅(京都市営)七条駅


洋酒喫茶 どん底

2012年02月13日 | 兵庫
「陽の当たらない、場処。」

どん底に居ると安心するのだ。

ゼロ以下の地点、どん底に居れば、高い所から蹴落とされるような心配もなく、白日の下に晒され、人に値踏みされるようなこともない。

実際、薄暗いこのアンダーグラウンドの一角で、隣の学生はテーブルに突っ伏して寝ているし、反対側には独りノート・パソコンに何かを打ち込み、ほくそ笑んでいる若者が居る。
自らの欲望から解放され、ひと息つける場処、それがこのどん底である。

向かい側では三人のサラリーマンによる、幾許かいかがわしげな小宴会が開催され、持ち込まれたつまみと、何故か瓶ビールがテーブルに置かれている。
この店の昼間のメニュウに、はたして瓶ビールなどあっただろうか?

どういうワケでか陰気な地下へと誘われ、そんな場処でありながらも、ワリと声高に長々とお喋りする主婦の寄り合いもあれば、ケーキを持ち込んで食べ比べしているらしい、そんな若い女の子たちも居る。
社会的なしがらみから解放され、ちょっと隠れて息抜き出来る、それがこのどん底である。

各々が周りを気にもかけず、自分だけ、もしくは自分たちだけの世界に住まい、好き勝手に生息している。
そして紛れもなく、カゲロウも今、彼らと同じくそんなどん底の一員なのであって、その薄暗さに嫌悪感を抱くこともなく、むしろ心安らいでいる。

誰しもにとって、そんな時間、そんな場処が人生には必要で、明かりばかりではなく陰さえも、人にはなくてはならないものなのだ。

洋酒喫茶 どん底バー / 三宮駅(阪急)三宮駅(神戸市営)三宮・花時計前駅


楽々

2012年02月02日 | 大阪
「補足的、レビュウ。」

ジョージ・ハリソンは言う、「リヴァプールの人っていうのは、みんな自分のことをコメディアンだと思ってるんだよ」と。

そして彼が自覚的であるように、リヴァプール出身であるビートルズというバンドの根幹というのは、ひたすらにユーモア、その機知なのであって、決してシリアスなものではなかったとメンバーは口を揃え、その短命に終わったバンドの曲群を振り返る。

当時のポピュラーミュージック界において、彼らの作り出す音楽というのは、あまりにも奇を衒い、曲芸的であり、古典的なロックの範疇からは完全にはみ出していて、故に彼らはチャレンジャーであり、世間の評価を怖れず、若者の憧れの的となり、結果、突破者となった。
今現在、そして今後も、その存在、そのセールスを超える者は出てこないであろう絶対的存在となり、祭り上げられてしまった彼ら、その在り様、その動機というのが、そもそもコメディアン的なジョークでしかなかったというのは、ある意味、非常に意味深いことである。

それと意味合いを同じくして、この世間に祭り上げられてしまった観のある楽々のうどんというのは、情報化の流れに乗って、いつの間にやらうどんというジャンルのトップを走るかのような存在として定義されてしまったのではあるけれど、その正体、その実体は、うどんであってうどんではない、そう言ってしまったとしても、とりたてて過言であるというわけでは決してない。

冗談であるというわけではないにせよ、そのうどんというのは決して王道ではありえず、特に関西うどんの概念が染み付いた人間からは、これはうどんじゃあないよと言われてしまう、そんな状況も実際あるであろうながら、しかしそれを怖れる風でもなく、何なら民芸調の店舗の造りをその頭から追い出して、眼を瞑ってその麺を咀嚼し、味わってみれば、やはりそれはうどんとしての範疇を明らかにはみ出している。

関西風であることも、讃岐風であることも、いずれの概念をも含め、うどんのイデアというものをメタ思考的に想像したその上で、尚そう感じられる、実際そんな食感である。

それは、そもそもうどんが大好きだという人よりも、むしろ、うどんを知らない西欧人にでも味わってもらったその方が、下される評価というのは公平なものになるのかもしれない、そんな新種の麺とも言い得るこの麺は、うどんを知る日本人にとってはうどん以外の何ものでもないが、それでもやはり規格外である、少なくともそれが現状であろう。

つまり実際この御店のうどんというのは、うどん業界全体としては、まだまだ補足的なものに過ぎず、明らかに何にも属さない異端であり、しかし此処に至ってあえて個人的な好みを述べるのであれば、異端であること程に好ましい有り様というのは、そうはない。

ただ、異端であるが故に、古典的なメニュウであるきつねうどんなどには向かないうどんであるなとは、残念ながら実際戴いた感想として、個人的には思わざるをえないのではあるけれど。

兎も角、件のバンドと同じく、業界のトップを走り始めたうどん界の異端児が、件のバンドのエピソードのように、黄色い声援によってコンサートでの演奏を中止に追い込まれ、破綻して行ったその状況と同じ道を辿らぬようにと願いつつ、その成り行きを末永く見守っていきたいと、思う。

楽々うどん / 郡津駅村野駅