カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

蒲生うどん

2012年01月30日 | 香川
「筋金入りの、けつねうろん。」

そういう言い方も妙なものではあるが、この蒲生のけつねうろんは、最強である。

とは言うものの、この御店にきつねうどんというメニュウがあるわけではなく、単にトッピングの組み合わせでけつねうどんの体裁を取っただけのことであり、関西に生まれ育った以外の人にとっては、けつねうろんなどと言っても何のことなのかさっぱりわからない、それだけならまだしも、呂律の回らぬその言い回しに頭の打ち所を心配されるだけであろうそのことは、重々覚悟する必要すらあるだろう。

そんなことは兎も角、何を以って最強などという、けつねうどんを形容するにこれ程相応しくないとすら感じられる、そんな単語を持ち出したかといえば、それはやはり、讃岐うどんのコシの強さ、それ故であるとしか言い様はない。

多く京都や大阪で煮出される、はんなりとした、それでいて得体の知れない懐の深い優しいお出汁、そしてその風味に歩調を合わせたかのような、やわやわのうどん、そこに甘ったるいお揚げを載せて、これをけつねうろんと称するわけである。

そのふにゃふにゃ、やんわりした印象の食べ物は、例えば歳を取った人の雰囲気に喩えられる、そんなことも少なくはなく、それはおおよそそのうどんの柔さ、人当たりの好さというものが、そういう雰囲気、印象を人に与えるからである、そういうことなのであろう。

それはそれで勿論心地好いのではあるが、実はそれは、物心つく頃から日常食と言い含められながらも、実は非常に食べる時を選ぶ特殊な食べ物であるということも、実際のところ言えるわけである。
言うなれば、ほっこりとしたゆるい心持ちの時、それ以外に戴くと、どうにもぬるい、場合によっては食べた気すらしない、それがけつねうろんの欠点ですらある。

だがそこで、そのけつねうどんの麺というのが、ゆるゆるではなく、ガッチリとコシの入った讃岐うどんであったりした場合、戴いた印象はどうであるのか?それはもう、完全無欠のけつねうろんになるのである、やはりと言うべきか当然というべきか。

そしてしかしそのけつねうろんというのは、ひたすら頑強な讃岐うどんともまた違う、実は非常にトータルにバランスの取れた絶妙のうどんと化すのである。
それが少なからずふにゃふにゃうどんに慣らされた関西人にとってはかなりの驚きであり、はんなりのお出汁には柔らかうどんがマッチするものであると信じ込まされてきた者としては、ある意味、勝負に負けた、そんな心持ちにさえさせる完全無欠さ加減であるのが、まさにこの蒲生のきつねうどんなのである。

讃岐を訪れた際には、気持ち的にも物質的にも、一本づつうどんを啜るのが当然のように通例になってしまうのが常なのではあるが、このきつねうろんに関しては、それとはまた話は別であって、関西で戴くけつねうどんと同じように数本を勢いよくずばばっと啜り、程好い加減で遠慮なく歯で切断して咀嚼する、この食べ方がやはり旨いのである。

ちなみに、このうどんを箸で切断するのはちょっと無理があるので、それを歯で噛み切るのは行儀が悪いと思う人もいるのかもしれないが、そこのところをとやかく言うのはお門違いである。
いずれにせよ高い確率で表で立ち食いすることになるうどん屋で、行儀云々などということで人を窘めるようなことなど、むしろ笑止千万、無作法だからこそ旨いのだとさえ言い得るその雰囲気というのは、関西のきつねうろんに仄かに漂う奥床しいいかがわしさと比較すれば、陰と陽の関係にあるかのようでもあり、その朗かな健全さは、同じ類の食べ物に対する印象を根底から別の何かに置き換えてしまう、それほどにインパクトがある、そんなけつねうろんなのだ。

最早、何を言っているのかよくわからないながらも、実際そんな感じのうどん、それが蒲生で食べたけつねうろんなのであった。

蒲生うどんうどん / 鴨川駅
昼総合点★★★★ 4.5


グリル葵

2012年01月26日 | 京都
「お勧めしてもらったように、お勧めしてあげたい、そんな心持ち。」

喩えるならば、半熟のゆで卵、その卵黄のようにとろりとしているのだ、この牡蠣フライは。
そして何故だか、そのとろみというのが一体化して感じられ、牡蠣の身における各々の部分的な食感というものがあまり感じられないのだ、この牡蠣フライは。
それはやはり、ひと角の食通に絶妙と言わしめるその熱の通し方による作用であろうし、この混沌とした状態の牡蠣の身であるからこそ、海の幸としては幾分似つかわしくないとすら思える、クリーミーという言葉で形容される、そういうことなのであろう、どこか得体の知れぬ、とろりとした魔的な魅力というものを、きっちりと宿している、そのような風情の、この御店の牡蠣フライである。

個人的には、まだ記憶に新しい、しっかりと熱を通し、極限まで旨味の凝縮された、そんな牡蠣フライを他店で戴いていたからであろうか、今回感じたものはそこまで強く、はっきりとした風味とはいかなかったものの、その明確な味の記憶が足掛かりとなって、これまでの自分であれば、そのクリーミーさの中に埋没してしまい感じ取れなかったであろう牡蠣独特の旨味も、仄かに、しかし、しっかりと味わうことが出来るようになったようである。

少し離れた場所にある、そこそこに似た系統の有名店と、かなり似通った造り、間取りの店内は、しかしその有名店以上に小ぎれいで、接客も経営するご家族の気持ちが隅々まで行き届いている、そんな印象を、そこはかとなく受ける。
そしてメニュウは牛肉ばかりに特化することもなく、バリエーション豊富で、何よりも手間を惜しまず、丁寧に作られ、盛り付けられ、そして更に言うならば、その良心的な価格というものも、相当に魅力的である。

既に以前から常連客には困らない、そんな人気店であろうことは、その客層から窺い知れることではあるのだけれど、知らなかった人間からすれば、まだまだこういう御店があるのだなと、京都という街の食に関する奥深さを思い知らされるような気がして、まだ戴いていないその豊富な料理の種類というのは、あれやこれやと未知の何かを、次回来る時に期待させる。

所謂、京料理と呼ばれるものの奥深さなどというものは、あえて意地の悪い言い方をするならば、おおよそ支払う金額に比例して得られる、そんな類のものでしかない、そういう印象がなくもないのではあるけれど、この御店で提供される料理の奥深さ、その広がりというものは、もっと無邪気で健全で、純粋に素直な心持ちで日常的に戴ける、そんな類の喜びに満ちたものである、そんな印象を与える、この佳店であった。

グリル葵洋食 / 五条駅(京都市営)四条駅(京都市営)烏丸駅
昼総合点★★★★ 4.0


道久製麺所

2012年01月20日 | 香川
「無言の、メッセージ。」

器と箸と、薬味を持って訪れなければならない、そう聞いてはいたものの、
実際のところ、薬味の持参が必須というわけではなかった、

そう感じるほどに、そのうどんからは漲る魅力が滲み出している。

噛み応えのある塩の風味の効いた艶のあるそのうどんは、
その場、その時でしか味わうことの出来ない代物である。

玉売りが基本の製麺所である、
それがゆえに食事処としての用意がまったくないその事実というのは、
実は、表向き、建前の言い訳にしか過ぎず、

その本心というのは、己の責任において、薬味なしでこのうどんを一度味わってみて欲しい、
そんな道久製麺所からの無言のメッセージであるかのようだ。

物理法則に基づくエントロピーの増大云々を論ずるまでもなく、すべての物質は刻一刻と変化し、
それを感じ、それを測る人の認識、そしてその記憶でさえも、同様に刻一刻と移ろい行く。

その美味しさを自分がその時どう感じたのか、
それはその時、その瞬間、その人にしかわからないことであって、

その記憶を頼りにその日の夜に思ったことと今思うことも同じではない、

万物はもちろんのこと、心象風景さえも、諸行無常は網羅する。

同じ人が同じ場所で作ったうどんであったとしても、時間の経過は刻々と変質をもたらし、
その時とその日の夜、そして次の日ともなれば、それはまったくの別物と化す。

その変化のもたらす何が良くて何が悪いと嘆いても、
それは非力な人間存在の無駄な足掻きでしかない。

本当にそれを求める気持ちがあるのならば、そのチャンスの存在する処へと赴き、
自分の足でその場に立たなければ、貴重な瞬間を得る望みなど到底叶わない。

今すぐにとは言わずとも、心の中で思い描き、それを常日頃、思い残しておけばよい。
それは、言い換えれば希望である。

道久製麺所うどん / 詫間駅
昼総合点★★★★★ 5.0


とんかつやまと

2012年01月15日 | 兵庫
「諸手を挙げるに、吝かでない。」

思いの外しっかりと熱の通った大粒の牡蠣の身は、これまでに経験したことがない程にその旨味が凝縮されたものだった。

その牡蠣肉エキスの味覚的結晶とでもいうべきものは、正直、ああこれが牡蠣本来の旨味、その美味しさだったのかと初めて思い知らされた、そのような感覚さえカゲロウにもたらすもので、己の経験不足を自ら晒すかのようで気恥ずかしいのではあるけれど、これを褒めずして何を褒めるのかと思わずにはおれない、それ程である。
こんなに旨い料理を戴いたのだから、たとえ己の恥を忍んででも、これまで食べた中でもこの御店、やまとの牡蠣フライはイチバンだったと公言し、諸手を挙げて誉めそやすことすら、カゲロウは吝かでない。

それでもやはり、牡蠣は生の旨味を味わってこそなどとのたまう向きというのは、おそらくは、珈琲はブラックでなければならないというような保守的な人物像と、イメージの中でおおよそ被ってくるのであるが、そういう狭量こそ、実は牡蠣の発散する魅力も、珈琲の内包する魔力も、実際その三分の一すら理解できていない、そんな類の人物に過ぎないのであろうとカゲロウは確信し、気の毒にすら思うのである。

インスタントではない珈琲で淹れたカフェ・オ・レ、それこそが、それなりのブラック珈琲そのもの以上の贅沢品なのであり、生でも行ける牡蠣に、あえて強く熱を通してこそ、それ以上の何かが生まれることもある、それはそういうものなのである。

例えれば、冬の運動場の霜柱ようなイメージの、太いながらも繊細な繊維を感じる、それ程に熱の通った牡蠣の身のしっかりした肉感というのは、やはりここまで火を通した結果でしか得られないものなのであり、そうでなくては、時には生臭ささえ感じさせるその水気を飛ばし切ることは、おそらくできないのであろう。
比較的、長い時間を我慢して、じっくりと熱を通してその結果、やっと、これなら生牡蠣でいいのではないかというような、中途半端な状態の牡蠣フライとは段違いの旨味が凝縮された、このやまとの牡蠣フライが日の目を見るというわけである。

とりあえず旬のものだからと、近年その季節になれば何度かは戴くようにしている牡蠣ではあったが、実際好物なのかと己に問うてみれば、自分自身を納得させる程の言葉はなくしてしまっている自分がいることに、正直気付かざるを得ない。
だから、時期半ばにしてまだ率先して御店に足が向かないという状況ではあったのだが、このやまとの牡蠣フライのお陰で、やっと何の躊躇もなく牡蠣は美味しい食べ物であると納得が行った、今更ながらカゲロウはそんな心持ちである。

さて、この牡蠣フライの旨さというのが、実際、旬であることに大いに左右されてしまうような移ろいやすい味わいで、既に来月であれば同じ様には味わえない、そのようなものであるのかどうか、それは経験不足ゆえ知る由もないのではあるけれど、少なくともこの御店の定番であるとんかつに関しては、その牡蠣フライの出来と比例して、これまで戴いたとんかつの中でも最上級の部類に入る逸品であったことは、実際あえて言うまでもないことではある。

とんかつやまととんかつ / みなと元町駅花隈駅西元町駅
昼総合点★★★★ 4.0


お好み焼きハウス さんすい

2012年01月11日 | 京都
「さあ、宝探しを始めましょうか。」

お好み焼きというものが美しく見える瞬間があるとしたら、それはやはり、鉄板で焼く前、しかも、器の中で混ぜてしまう前、そこにならば、幾らかの華やかさを見て取ることも、出来なくはないように、思わないこともない。
だが、それとて取り立てて食欲をそそるという感覚ではなく、ただ、見栄えとして、生野菜や生卵の瑞々しさ、天粕のほっこりした風情があるというだけのことで、当然のこと、そのままの状態で食べる訳ではないのだから、ある意味、食欲とは関係のない美しさなのかも知れない、その在り様とは。

勿論、焼き上がってしまったお好み焼きに、外見的な美しさなど在る訳もなく、せめてもの彩りにと、マヨネーズで幾何学模様を描く御店もあるにせよ、そんなものは気休めでしかない、どってりとした、鈍臭いその外観、だがしかし、そこにこそ、食欲をそそる風情というものが、厳然として存在する。
そう、つまり、見栄えを気にしたお好み焼きなど、根本的に何かを勘違いしているとしか言い様はなく、お好み焼きなど、旨いかどうか、ただひたすらそれが全てなのである。

と、当たり前の話はさて置き、この御店のお好み焼きは、テイク・アウトのみであるので、焼く前がどうのという話は、何の関係もございません、実は。
とは言え、こちらの御店、随分以前のことではありますが、普通にそこそこの店舗を構えておられ、深夜までの営業であった為、学生の頃は本当に重宝いたしました記憶がございます。

で、まぁ、今更それもどうでもいいことなんですが、特筆すべきはそのボリュームで、その直径、そして厚みに関しては、以前通りのゴリッパな雄姿、フライパンを持って伺いますというレビューがあるのも頷ける、そんな風情のお好み焼きは、やはり、全く、見栄えはいたしません。

しかし、お好み焼きとしての本分、その旨さはナカナカのもので、個人的に甚く気に入っておるのは、広島焼きのスジ入りであります。
そこそこの味で、ただ大きいだけ、それだけのことならば、こんなにも長くこの御店に通い続ける理由には、おおよそならなかったこととは思いますが、個人的にこの御店に惹かれる最も大きな理由というのは、実は、そのスジの味付けの絶妙さにあるのです、細かい話ではあるのですが。

甘くもなく辛くもない、その絶妙の風味が、この巨大なお好み焼きの中に、そこそこの数、宝石の原石のように隠されていると、そういう訳です。
勿論、この大きさですから、華奢なお店のお姉さんが、満遍なく攪拌し、ひっくり返し、焼き上げるというのは非常に困難で、各具材が、各箇所に固まって入っている、そのような場合も多々あり、一応ひとつの料理の体裁ではあるものの、結局は持ち帰り、食べながら分解しつつ、バランスの良い味わいになるよう心掛けながら、大概は2人掛かりで、2日掛かりで戴く訳です。
山盛りのキャベツを頬張りながら、その風味のバランスを取る為に、何処に在るのか見当も付かないスジを、必死になって掘り返す訳です。
一人が多く見つければ、それを二人で分け合い、しかしそれが小さな欠片であれば、見つからなかったフリをして、素知らぬ顔で他の具材と一緒に食べてしまい、また掘削作業を続ける訳です。

まぁ、実際のところ、スジ焼きというメニューもある訳で、それだけ買って帰ればいいようなものではありますが、やはり、それだけ食べても、何か違う、何処にあるのかわからない、そんな状態から探し出した末に戴くスジと、安易に手に入れ、しかもそれだけ単体で戴くスジとでは、その有難味に雲泥の差があるのは、当然のことなのです。


お好み焼きハウス さんすいお好み焼き / 桂駅上桂駅
夜総合点★★★★ 4.0昼総合点★★★★ 4.0