カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

カフェ・ド・ランブル

2012年04月28日 | 東京
「胸に沁む。」

その店の歴史を学ぶ必要はない、その人物を知らなくともよい。
珈琲の薀蓄さえも、そのためにはむしろ邪魔になるのかも知れない。

ただ飲めば、それだけで、他にはないと思い知らされるその珈琲。

すべてを安易にカテゴライズしてしまい、酸味を内包した珈琲は好みではないと放言してしまう人物にこそ、この珈琲は飲まれるべきなのかも知れない。

何事であれ本質というものは、そのクオリティにこそ存在する。
愚かな差別意識、その土壌である分類という方法によってのみ、何事かを判断してしまう所業、それは浅はかな愚行であること、この上ない。

安定した質の高さゆえ、その珈琲は必ずしもブラックである必要もなく、丁寧に攪拌された生卵を滴らせた、ウフカフェと名付けられたその甘い珈琲は、誰しもに飲む前の慄きと、飲んでからの驚きを与えること、必至である。

あまりにも深い印象を旅人に与えるこの店の風情、そしてその珈琲を淹れる人物の、一見してそれとわかる真剣さが、音もなく、じわりと心に沁み込んで、もしかするとその風味には、物質的成分以外の計り知れない何かが加味されているのかも知れない。
しかし、だからといって、それが何なのであろうか。

真実は、それを感じる人の数だけ存在する。
その人にとってそれが事実でしかないのであれば、それは他人に言い訳する必要のない真実なのであり、そこに誰の意見も、歴史も、薀蓄も、必要ではない。

その夜に観たモリッシーのライブでも、やはり心に迫るのは、幾らか思い入れのある昔の曲ばかりで、耳に馴染みのない曲は酷く凡庸に思えたものだ。

それがどういうことなのか、わからないではないけれど、だからそれがどうしたというのだ。

カフェ・ド・ランブルコーヒー専門店 / 新橋駅銀座駅東銀座駅
昼総合点★★★★ 4.5


ameen’s oven

2012年04月16日 | 兵庫
「小さく咲けば、それでいい。」

後にして思えば、唯一にして絶好だったその日和、カゲロウとその妻が花見の場処に選んだのは、これまでは訪れたことのなかった夙川の河原だった。

苦楽園の駅から夙川まで、日中にゆっくりと歩いて、陽が落ちてからまた同じ道程を辿り、その河原を往復する。
平日だったからだろう、程好い人出で騒がし過ぎるということもなく、平穏なはずの街中で、思いがけず暴走するような自動車も運良くない。

せっかく初めての土地に降り立つのだから、満開の桜以外にも何か目ぼしいものはないものかと、訪問する前に少し探ってみたところ、この夙川の駅の近辺には、その筋では非常に評価の高いパン屋が何軒も密集しているような、そんな様子である。
そう広くはないこの街に、それ程までに出来の良いパン屋ばかりが軒を連ねているということは、この街の住人というのは、それ程までにパンを欲し、一日三食、常にパンを食べているかのごとき印象を受けないでもないのではあるが、勿論そのような極端なことがあるわけはない。

そして実際に訪れてみたそれらのパン屋というのは、申し訳なさそうに思えるくらいに目立たない店舗で、しかし、譲らぬ自己をきっちりと主張する、毅然とした印象を与える小さなパン屋だった。
色んな意味で欲張り過ぎないその奥床しさというのは、とても感じが良い。

その一軒は、陽の当たらない駅の裏側に、別の一軒は、駅の横手の急な階段を下りたその地下に、さらにもう一軒は、大通りを挟んだ向こう側、不便な段差のある地所に、そして駅からは少し離れた処に普通に建っているこのパン屋も、おそらくは複合住宅であろうその建物の一角で、人知れず地味に営業している、規模としてはそんな程度なのである。

どの店舗も然程品数が多いとは言い難く、数を捌くというよりは、そのひとつひとつを丁寧に焼き上げ、大切に並べ、そうやって作られたパンの好さをわかってくれる、そんな人にだけ食べて欲しい、そういう気持ちが伝わってくるかのような、謙虚でありながらも、ある面譲らぬ、やはり毅然とした態度が窺えるような、そんな気がする。

桜が満開の時にだけ訪れるような人々は、所詮、行きずりでしかないのが事実であり、それはそれで仕方のないことではある。
だがきっと、この街に住む多くの人々、その中のほんの一握りの人たちは、積極的に、こういう類の丁寧なパンの価値を理解し、熱烈に愛してくれている、そして、そのパンを必要としてくれている人たちというのが、身近に幾らかいてくれるということ、心を込めて何かを作る人たちにとっては、おそらくそれで充分なのだ。


ameen’s ovenパン / 夙川駅さくら夙川駅苦楽園口駅


上島珈琲店 寺町店

2012年04月08日 | 京都
「ラム・・・ボゥル。」

この上島珈琲店のコーヒーカップ、カトラリー、そしてその椅子の多くは、あの柳宗理の作であるということらしい。
確かに、当たり障りなく非常に落ち着いた雰囲気の、それでいて気取り過ぎない程好い居心地の良さがそこにはある。
文句なくそのような心持ちになれる空間であり、眺めの好い坪庭までそこにはあるのだ。

流石、缶コーヒーの販売まで手掛けるUCCの展開する店舗だけあって、その辺りのイメージ戦略、プロデュースに関して抜かりはない。

例えばその完成度という点において言えば、注文したミルク紅茶には、当然のようにミルクと糖分が予めブレンドされており、それを客が自分の裁量よって適当に注ぎ足したのでは、在るかなしかのこのあまりにも控えめな甘さというのは、決して出すことができないであろう、そこはかとなくそう納得させられる雰囲気がある。

しかしである、3月24日(土)に新発売したとアナウンスされている、この「ジャマイカンラムボール」という称する商品は、果たしてどうなのであろうか。
あまりにもこれに似た商品というのが、ごく近くの老舗で根強い人気であるからといって、ここまで過度に似せ過ぎた、このような商品を開発するということに関し、あらゆる面において問題意識というものはないのであろうか。

あえてそれを比較するならば、おそらくは食べ切りやすいようにと小さくなったその球体の印象というのは、決してロック(岩)ではなくボール(球)であり、そのラムを滲み込ませた生地というのは、既にスポンジ状であるともいえない、それ程に、ひたすら粘り気ばかりの物体と化している。
おそらくは、食べ易く、より密度が濃い、つまり、他店における先発よりも、多少の改良がなされている、そういう意識ではあるのだろう。

そしてそれを、いかにも世間を知った、したり顔で、企業努力とのたまう、そんな人物もいるのだろう。
だが、問題は、そんなところにあるのでは、決してない。
そこには、矜持というものがない、敬意というものもない。

良識だの良心だのと言うつもりなど、まったくない。
ただそれは、プライド、つまりは自己存在、その意義に関しての問題でしかない。

それがどういうことなのか重々わかっていながらにして、素知らぬ顔で近隣の先人を蹴落とす、そんな類の行為でしかないこの仕業、決してこのような志を褒めてはいけない。

上島珈琲店 寺町店喫茶店 / 京都市役所前駅三条駅三条京阪駅