カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

カフェ ドジ

2011年09月29日 | 京都
「砦。」

御店は客が作るもの、確かにそういう一面は、真理としてある、そうではあるけれど、やはりその場を、大きなリスクを背負ってでも提供しよう、そういう覚悟を持った人物が最初に居たからこそ、それはその後に成り立つ話ではある。

そしてその最初の人、創造主というのは、言うまでもなく、オーナーであり、店主である。

儲けたいとか、目立ちたいとか、そういう俗な欲望に絡め取られた人生を送りたくない、そう思う人物から生まれ出でる創造物というのは、やはりそこはかとなく、それなりの雰囲気を醸し出していて、このカフェドジは、紛れもなく、そのひとつと言える、そんな風情で、大通りに面していながらも、ひっそりと、しかし、どっしりと、ある種の砦のような威容を以って、その地に根を下ろしている。

それはまるで、一見、何とはなしに現代美術館のように見えなくもない、そんな外観でもあり、まさかそこで商売が営まれているとは、ちょっと思えない、そういう雰囲気である。

ただ、おそらくは、不幸なことに、その駐車場完備の店舗、わりに広い器、そのためか、ファミリーレストランのように気軽に立ち入ること、それもまた可能な風情でもある、そこがある意味、悩ましい。

厚かましい訳でも、傲慢な訳でもなく、カフェにはカフェの意図があり、都合があり、来て欲しい客と、来て欲しくない客が、勿論あるだろう。
思い遣れば、長居はしてもいいけれど、騒がしくはして欲しくない、そんな御店の望みが窺い知れる店内の雰囲気、そして、考えさせられた、その料理の内容。

遅い時間のランチとして注文したそのカレーライスは、ひとくち食べて、これは旨いと感じ入る、そんな類の風味ではない。
だが、だからといって、お洒落なだけのカフェにありがちな、いい加減で適当な内容などでは勿論なく、この御店の本質を穢さない、地味ではあるが不足のない、むしろ、しっかりとした調理、盛り付けであると言える。

だが、例えば、このカレーを求めて、御店に行列が出来るようなこと、それは、まずないであろうし、求める客が溢れる程には美味し過ぎない、その微妙な線を、この御店は心得ている、そのような妄想さえ抱かせる、地味に好い出来なのが、このカレーの醸す雰囲気、その風味、そしてこの御店の本質なのだ。

盲目的にメディアに踊らされ、押し寄せて来る、店を作るはずの、当の客によって、その存続まで潰えさせられてしまった、もしくは、そうなってしまう恐れのある御店というのも、実際に、稀にある。
だが、そこまで行かなくとも、その当初の意図は、見る影もない、そういう意味で、同じく潰されてしまった御店というのは、世の中には、とてもとても、多いのだ、残念なことながら。

そう思うと、カフェとして、京都では指折りの旧さを誇る、このカフェドジは、その外観も然ることながら、真の意味での、本質的な、砦である、そう言い得るのかもしれない。

カフェ ドジ カフェ / 北大路駅北山駅
昼総合点★★★★ 4.0


つばめ

2011年09月24日 | 京都
「ちょっとした、秘密。」

此処、京都では、有名でありながらにして、秘密が多い、そんな印象を抱かせる存在のひとつ、オオヤコーヒ。
その焙煎所の珈琲が戴ける場所というのも、実際、限られていて、一乗寺にある、探している本が何でも見つかる本屋さん、恵文社の裏手にあるこのカフェは、その数少ないひとつであると、そういうワケなのです。

勿論、その焙煎所について、もう一段踏み込んで情報収集しようと思えば、して出来ないこともないのでしょう。
ですが、むしろ、これ以上は、知らないほうがいい、何処でも此処でも気軽に飲める、そんな珈琲にも、なって欲しくない、そんな心持ちを、きっと、多くの人が心の片隅で抱いている、それが故に、この小さな秘密は、その幾分かの神秘性を保ってもいるのでありましょう。

個人的に知り得る限り、その珈琲が戴けるのは、京都市内の4軒の御店で、訪れた此処は、その内の2軒目。
さぞ、その珈琲に特化した、そんな類の御店なのだろうと抱いていた先入観、それは、然も間の抜けたことに、どうやら的外れだったようで、この小さなカフェに訪れた人々は、皆、それなりに確りと、お食事を摂っておられます。

そうか、そういう御店なんだと気付かされたのは、どうやらあまり熱心には働いていない様子の換気装置のせいで、やたら、じゅうじゅうとフライパンで調理する、それはそれで美味しそうな、しかしかなり賑やかな音、そして、店内に充満した料理の匂いが、正直、珈琲の風味以上に、鼻腔をくすぐります。

なるほど、そもそも此処は、そういう御店なのであって、その特殊な珈琲の存在だけに頼っているという訳でもなく、本当の意味での常連さんが、日常的にふらりとランチを食べに来る、そんな類の御店なのだと合点がいきます。
もしかしたら、その中には、特にオオヤコーヒに関心のない人などもいて、その有難味、希少価値すら知ることもない、そんなことだって、この御店ではあるのかもしれません。

さり気なく食後に出される珈琲、ふと気が付くと、それが意外に美味しくて、そこそこに特別な珈琲だった。
そんな自然な成り行きが、この小さな秘密を、あるがままに守っている、きっと、そういうことなのでしょう。

つばめ カフェ / 一乗寺駅茶山駅修学院駅
昼総合点★★★☆☆ 3.5


洋食屋 fujiya

2011年09月21日 | 大阪
「地下で息づく、デミ・ソース。」

ビルの地下の小さな食堂街、驚く程に地味なそんな立地、そして、驚きがないことに驚く、それ程に実直な料理の風味、洋食店としてあまりにも有名なこの御店は、謙虚過ぎる程に謙虚な佇まいで、それが平日の夜ということもあるのだろう、当初、客の出入りも、とても慎ましやかだった。

狭い店内、少ない席数にもかかわらず、給仕がひとり、調理兼給仕がひとり、シェフがひとり。
だが結局、その3人が目一杯の仕事をこなすことになる程度、リザーブされていた様子の席も含め、つまり、店内は程なく満席になる。

しかしそこに慌しさはなく、皆がゆっくり、じっくりと料理を味わいに来ている、そんな空気がどことなく漂うのが、とても居心地が好い。
とりあえずといった様子で口中にかき込まれる、そんな慌しい食事は、思い遣ってみれば、食べられる料理それ自体が気の毒で、当然の事、作る人はそんな扱いに対し、誠意を込めて調理したことを後悔することだろう。
じっくり味わってもらえると思うから、じっくり作れるのであって、自分の立場にしか思い至れない、そんな人間に、会話のついでに口に放り込まれてしまうものなど、機械に量産させればそれで充分、そこには作る人の想いなど、全く無用なのだ。

カウンター越しの目前で、手間隙かて作られている料理、その一部、戴いてみると、あまりにも基本的過ぎるその風味は、ハンバーグにせよ、カレーにせよ、正直、今ひとつ、面白味には欠ける、そういうところはある。
感覚としては、まさにその場、その時に、何かグッと心を惹き付けられる、どこか興味深さが涌く、そういう訳ではない。
あるのは、間違いのない料理、そういう感覚、その程度の満足感、それのみではある。

だが、微妙なデミの苦味であるとか、得体の知れない隠し味を此処に来て求めるのは、例えば映画を観に来て、手品を見たいというようなもので、おそらくそれは、期待すべきものを間違っているのだろう。
料理によって曲芸的な驚きを感じてみたい、そう望むのであれば、何なら、同じ名前のモダン・スパニッシュにて、ムースだ、カプセルだというような、滑稽なまでにアトラクション的な、そんな類の食事を、大枚はたいて味わってみるのも一興かもしれない。

それは兎も角、この御店に限らず、その存在を知り、それ以来、長い間抱き、期待していたイメージ、そういうものは、おそらく、いつであっても過剰なのであって、まさに我が道、王道のみを行くこの洋食屋に対し、普通ではない何かを求めるのは、己の過ぎた欲求でしかない。
堅実が旨の、昔ながらの変わらぬ味を提供する料理店、そんな御店には、過剰な客の期待に応える義務がある訳でもなく、むしろ、そんな期待には踊らされない、その実直さこそが、この御店の評価されるところであり、その実力であるように、後になってみれば思える。

それが、伝統的であろうが革新的であろうが、とりあえず、個人的には目新しい、そんな料理に興味を惹かれ、日々振り回され、自分にとっての美味しさの基本、それが何なのかわからなくなった、そんな時にも、きっと、この御店は、その味わいの本質を見失わず、ビルの地下に、ひっそりと存在し続けていてくれることだろう。

洋食屋 fujiya 洋食 / 谷町四丁目駅堺筋本町駅天満橋駅
夜総合点★★★★ 4.0


はせがわ

2011年09月14日 | 京都
「思い出の、種子。」

それすらも、既に一年、それ以上も前のことなのだけれども、その日カゲロウは、里帰りした友人と昼間逢っていた妻を迎えに、夜のはせがわへ出かけてきたのだった。

随分と離れた場所、とある病院の隣にある、専用駐車場に車を停め、ふたりで話しながら少し長い道を歩いて、暗闇の中でほんのり輝く、はせがわのショーウィンドウの前に立つ。
並ぶ料理の模型の数々は、バリエーション豊かで、選ぶ楽しみに気持ちが踊る。

入った店内は、木の温もりのある、意図的に段差のある造りで、御店のメニュウと同様に、席の具合にもバリエーションがあるように見え、座る場所を選ぶこと、それもまた楽しみのひとつであるような、来る人を、そこはかとなくそんな気にさせるのだ。

開いたメニューには、優柔不断なタイプなら、ちょっと選ぶのに苦労するくらいのハンバーグの種類が記されていて、この御店の料理を味わい尽くすには、何度来店しなければならないのかと、必要のない覚悟まで試されている、そんな気にすらなってくる。

だが、カゲロウは知っている。
此処に来るのは、何年振りのことかわからない、それくらいのご無沙汰ではあるのだが、過去に何種類かのハンバーグを戴いた、その憶えはある。
メニュー的、組み合わせの多さ、ソースの風味の豊富さは、確かに群を抜いてはいるものの、実は、肝心の核となるハンバーグは、どのメニューであっても、おおよそ同じ。
そして、そのハンバーグ自体には、取り立てて、特徴らしい特徴はないのが実情で、だからこそ、どのソースにも合うのだろう、そのことは、それなりに評価されて然りである。

御店の努力、そしてアイデアは、勿論評価されるべきものではあるのだけれども、結局は、何度か来るたび、物足りなさが増していくというのも、切ないもので、何故自分が長い間、足を運ばなかったのか、少しでも変り種をと思い注文してみた、スパゲティが下に敷かれた、形だけ風変わりなハンバーグを食べながら、カゲロウは、その訳に思い至る。

そう、こんな感じだったねと、妻と納得し合い、じゃあ、どのハンバーグが美味しかったかな、そうふたりで思い返してみる。

そしてふたりが思い出すのは、学生の頃、もしかすると、その少し後だったかもしれない、そんな年頃だった、ある晴れた日、テイクアウトで買い求め、傍らの鴨川の土手で食べた、お弁当のハンバーグだった。

テイクアウト用のタッパに詰め込まれたハンバーグは、はみ出さんばかりのボリュームで、シンプルに、ケチャップ・ソースをかけただけのもの。
付け合せのキャベツが申し訳程度に少々と、確か、ご飯は別のタッパに、これも溢れんばかりに装われていたように思う。

まだ妻ではなかった彼女と、不安定な自由を内心抱きつつ、お互いを気遣いながら、麗らかな春の空の下、カゲロウはハンバーグを頬張る。
あまりの量に、ご飯はひとつにして、分けてもよかったねと言いながら、それでも、持って帰るわけにもいかず、笑いながら、無理してお腹に詰め込んだ、きっと、そうなのだろう。

実際のその場のことを思えば、おそらくは、ちょっと寒かったり、もしかすると、そろそろ暑かったり、北大路通りを走る車の音や、虫が煩かったりもしたのだろう、そんな現実は、容易に想像できる。
出来るのではあるけれど、現実のそんな部分は、思い出には必要ないし、そんなこともあるだろうから、もし、またそうする機会があったとしても、そんな面倒なことは止めておこう、そう思うようなことがあるとしたら、それ程までに人生を無駄にしている実際も、本当にない。

程々に煩わしい、瑣末な事情があったとしても、晴れた春の日に、鴨川の河原で一緒にハンバーグを頬張ってくれる人が、もし居るのであれば、それは万難を排してでも、実行する価値のある思い出の種であって、後々心に残るのは、そうやって食べたハンバーグが、いちばん美味しかった、その風景、それだけなのだから。

はせがわ 洋食 / 北大路駅鞍馬口駅北山駅
夜総合点★★★☆☆ 3.5昼総合点★★★☆☆ 3.5


ル・ヌー・パピヨン

2011年09月09日 | 大阪
「知性、滴る、野性。」

そもそも料理を戴くということは、生肉や活け魚に限らずとも、自分以外の生命体の命、まさにそれを丸ごと戴いているということと、完全にイコールである事実は、今さら改めて言うまでもない。

だが我々は、味覚的にも外見的にも、加工されてその本来の姿を失くし、食材という意味合いのみを付加されてしまった物体から、生々しい生命そのものを感じる破目になることは、日々、あまりない。

しかし、このル・ヌー・パピヨンの料理は、その現実、食事というものの根底を思い起こさせる、そのような生々しさのある面を、さり気なく、しかし斬新に表出している。
かといって、その調理の火加減が弱い、生肉に近い類の料理ばかりであるのかといえば、それとはちょっと、方向性が違う、そんな直截な、単細胞的な要素などでは、決してないのだ。

例えば戴いた一皿、白金豚のパン粉焼きと名付けられた、豚肉料理である。
これは、日本で育った人間にとって、馴染みのある料理でいえば、ちょうど、豚カツと、非常に似通った原材料、そして、調理法によって、提供されている。
豚肉に、パン粉で衣を付け、幾分かの油を用いて熱を通したこの料理、所謂、豚カツと、どこが大きく違うのかといえば、使われる肉の、その部位である。

当初、ナイフを入れて、口中に含み、咀嚼して、しかし、馴染みの食感とは決定的に何かが違う、そんな違和感を感じつつ、それでも、先入観的に予測していない事実には、人はなかなかに思い至らない、そういうものなのである。

これは、豚の皮だ。
そう気付いても、まだ何処かで理性が否定している。
当初、見るからに、あまりにも薄いその肉片に、言い得ぬ不思議を感じてはいたが、多少厚みのある箇所に至り、切り分けてみて、そのほとんどが脂身であるに至って、やっとその事実に、仕方なくといった風情で納得するしかない、そんな始末なのである。

勿論、それなりの調理が施してあり、旨いと言い得る風味ではあるのだが、意外と融通の利かない、凝り固まった常識に慣らされたヤワな理性が、心の何処かで、グロテスクという単語を囁くのを、容易く無視することは、なかなかに難しい。

その料理は、ただ黙々と、何も考えず、旨い旨いと胃に流し込んでおれば、それでいいというものでは、全くない。
今、自分の口中に、その生きて動いていた、命ある生物の、まさにどの部分が入っているのか、それを意識せずして、現実を認識しているとは、実際は言えない。
そしてその感覚を認識することこそが、生きる為に食べる、そのことの基本であるということを、意識せざるを得ない。
その料理を戴くということは、そういう意味での生々しさを実感することを、当然の如く食べる者に強要し、そしてそれは、実際、当然のことであるべき現実なのだ、本来は。

現代社会に飼い慣らされた我々は、その当然のことを、常には忘れ、時には見えないフリをし、そして場合によっては、忌諱する、己が他の命を犠牲にして生きている、そうしなければ、ただ生存する、それすら不可能である現実というのは、直視するに耐えないから。

そのことを、無闇に肯定し、受け入れるのも、社会生活的には困難な話ではあるが、それを断定的に否定するのは、人として、愚の骨頂である。
我々は、ただ現実を、在るがままに見詰め、受け入れるべきなのだ、戴いたその命に対し、時には感謝しつつ、時には自己嫌悪に陥りながら。

例えば、その知性によって、あえて根源的な場所に帰ろうとする人間像と聞いて、ふと連想するのは、最近改めて観た映画、「ファイト・クラブ」のタイラー・ダーデンであったりするワケであるが、実際に世の中が、そんな類の人間で溢れ返ってしまった暁には、社会そのものが崩壊する、それは間違いのないことである。
だから、おそらく、知性を内的に抱きつつ、しかし、ふとした時に湧き起こる、そういう粗暴な欲求のようなものを、ル・ヌー・パピヨンは、その料理で以って、ガス抜き的に昇華させる効用を持っている、そういうことなのだろう。

料理の内容に話を戻すと、豚の皮の下に敷かれた、深緑色をしたワイルド・ライス、これもなかなかお目にかかれない代物で、一見、海草の類を、短く切り分け、さっと炒めたものに思えるが、咀嚼すると、確かに穀物の風味が、口中にて感じられる。
だが、外見的な先入観が先に立ち、実際の風味に頭がついていかず、味覚が混乱しているのが、自分でもわかるのが、何だか面白い。

このル・ヌー・パピヨンで、短い休憩時間に、ビジネス街のランチとしてこの料理を戴く人々、その全てが、己と同じように味わい、感じている、そういう訳ではないだろう。
ただ漠然と、その根源的魅力に、訳もわからず陶酔している、そんな人も多々あろう。
流石に心得たもので、ワンプレート・ランチに関しては、充分に万人に受け入れられ易い、非常に当たり障りのない出来であるというのも、おそらくは意図的な実際である。

だが、いずれにせよ、これらの料理から受ける、少なからぬ特殊な印象というのは、意識しようとするまいと、その人の肉体は勿論のこと、精神にも、確実に影響を与え、内的に蓄積されて行き、在るべき根源的状態、そのような在り方へと、人を導いて行く、そのように思える。

それが喜ばしいことなのか、むしろ、悲劇的なことなのか、それは、本当のところ、わからないのでは、あるけれど。

ル・ヌー・パピヨン フレンチ / 堺筋本町駅本町駅北浜駅
昼総合点★★★★ 4.0


とんかつ ひろ喜

2011年09月04日 | 大阪
「看板に、異議、アリマス。」

素晴らしく美味しくて、かなり気に入った、そんな御店自身の意向に異議を唱えるというのも、妙なものではあるが、実際、この御店の掲げる看板が、単に豚カツ屋であるというのは、全く以って人々に誤解と戸惑いを与える、そんな、あやふやな現状を醸成してしまっているという見解は、この近所迷惑な程に繁盛している現実からして、全くの要らぬお節介なのであろうか。

勿論、その豚カツは、かなり美味しい。
ぱくぱく、サクサクと、外見で抱く印象、それ以上に、軽く、柔らかで、幾らでも食べれそうな、そんな出来である。
だがしかし、それ以上に特筆すべき料理が、この御店にはあって、それが、クリーム・コロッケである。
これもまた、食べてみないと外見からだけではわからない、絶妙の軽さとボリューム、そして風味が、その食感に内包されている。
おそらくその旨さは、誰しもにとって、想像の上を行くこと、請け合いである。

そして、揚げ物の外見など、その茶色い塊でしかない物体の大小以外は、似たり寄ったりで、余程に不味い代物は、一瞥しただけで判るにせよ、その美味しさというのは、実際自分で、口に入れ、咀嚼し、飲み下して、食後、暫く経ってみないと、結局のところわからない。

そういう意味で、尚更、豚カツ屋の看板が掲げてあれば、やはり豚カツを戴くべきであろうと、誰しもが思うのであろうが、美味しい豚カツに特化した御店というのは、実際、他にも、なくはない。

だから、いくら店主が、ウチは豚カツ屋だからと言い張っても、いかに世間的には、豚カツ屋として名が通っていようとも、個人的には、優れた洋食屋として、その記憶に留めつつ、近隣に所用のある際には、忘れず立ち寄り、コロッケだけでも持ち帰りたい、実際、そんな貴重な、豚カツ・・・ではなく、洋食屋さんである。

とんかつ ひろ喜 とんかつ / 徳庵駅
夜総合点★★★★ 4.5


山崎麺二郎

2011年09月01日 | 京都
「セックスと嘘とメン及びスープ。」

このラーメン屋のメンマは、繊維が短く切断されるように、横向けに切ってあるのだ。
食感にも好き好きあれど、とりあえずは、何と親切なことであろうか。

例えば、真面目で親切な人をつかまえて、そんなことでは面白くも何ともないなどと言うのは、実は自分の不真面目さを、あえて表に晒しているようなもので、同じく、真面目に作られた料理に対し、面白味が無いなどと言おうものならば、お前は黙れと心ある人々から非難されたとて、何ひとつ反論できる余地も無く、当然のこと、口答えなど、するべきでもない。

雰囲気、厳かに、店内に流れるBGMは、J-ポップとカテゴライズされる、ありきたりな音楽で、何ものをも邪魔するものではなく、ただ、その音量以上での会話を、この場所では禁じていますという、店主からの無言のプレッシャーである。

教会のミサでの一場面、司祭から直接口中に与えられるパンのように、そのラーメンは、客の目前に、厳粛に、提供される。
あくまで厳かに、静々と、集う老若男女は、ラーメンを啜る、音も無く、もしくは、微かな音を立てて。

最近のラーメン屋も、若い客も、一体どうしてしまったのだろうか、どうにも堅苦し過ぎる。
やたらに威勢のいい飲食店もイライラするが、これはこれで、まったく寛ぐこともできやしない。
いや、だが、そんなことは、決して言ってはならないことなのだ、その場に自分も居たい、そう思うのであれば、郷に入れば郷に従え・・・だがしかし、心中、何を思うか、それは、あくまで自分の自由な領域だ、何時どんな処であったとしても。

麺もスープも、それなりに見所はある、何処に出しても恥ずかしくはない。
面白味はないにせよ、誠実で朴訥な清潔感を漂わせ、その意志、その主張、その輪郭も、確りしている、共に何処をとっても良い出来だ、だが、お節介を言わせて貰えば、そのふたつのマリアージュは、残念ながら、上手く行っているとは言い難い。

それは、一緒に居るふたりの問題なのかもしれないが、ふたりに契りを交わさせる権限を持つ、その司祭の采配のせいでもある。
ふたりがひとつになることを、神の御前で約束させた、責任ある真面目な牧師は、立場上、決して離婚は許さない。

だがしかし、結婚とは、何かが足りない者同士が、お互いを補い合い、庇い合うものであって、独りでやって行ける者が、そのままの状態で、自分を主張し続ける為の場では、決してない。
そして、一緒になったお互いが、お互いの存在を無視しつつ、何とか毎日をやり過ごす、そんな状態に、いったい何の意味があるのだろうか。
経済が上手く行っておれば、それで充分、むしろ、もたれ合わない、そんな夫婦が潔くて気持ち良い、そういう風に思い、実行し、支持する、そういう人もあるだろう。

だがしかし、真実のところで、ウマが合わない、どうしても上手く行かない、一緒に居ても、思いは別々、そのような風情の、そんなふたりは、いっそパートナーなど必要ない、そういう在り方の方が、世の中、丸く収まるのではないか。

だがその別れは、結婚であろうと、ラーメンの器の中であろうと、様々なしがらみにより、おいそれと許されるものではない。

美しく照り輝く、潔癖で艶やかな麺の、流れるような白い渦、その曲線を眺めつつ、在るべき処に行き着くことも許されない、それもまた、世の不条理、そのひとつのように、カゲロウには感じられた。

山崎麺二郎 ラーメン / 円町駅西大路御池駅北野白梅町駅
夜総合点★★★☆☆ 3.5