「砦。」
御店は客が作るもの、確かにそういう一面は、真理としてある、そうではあるけれど、やはりその場を、大きなリスクを背負ってでも提供しよう、そういう覚悟を持った人物が最初に居たからこそ、それはその後に成り立つ話ではある。
そしてその最初の人、創造主というのは、言うまでもなく、オーナーであり、店主である。
儲けたいとか、目立ちたいとか、そういう俗な欲望に絡め取られた人生を送りたくない、そう思う人物から生まれ出でる創造物というのは、やはりそこはかとなく、それなりの雰囲気を醸し出していて、このカフェドジは、紛れもなく、そのひとつと言える、そんな風情で、大通りに面していながらも、ひっそりと、しかし、どっしりと、ある種の砦のような威容を以って、その地に根を下ろしている。
それはまるで、一見、何とはなしに現代美術館のように見えなくもない、そんな外観でもあり、まさかそこで商売が営まれているとは、ちょっと思えない、そういう雰囲気である。
ただ、おそらくは、不幸なことに、その駐車場完備の店舗、わりに広い器、そのためか、ファミリーレストランのように気軽に立ち入ること、それもまた可能な風情でもある、そこがある意味、悩ましい。
厚かましい訳でも、傲慢な訳でもなく、カフェにはカフェの意図があり、都合があり、来て欲しい客と、来て欲しくない客が、勿論あるだろう。
思い遣れば、長居はしてもいいけれど、騒がしくはして欲しくない、そんな御店の望みが窺い知れる店内の雰囲気、そして、考えさせられた、その料理の内容。
遅い時間のランチとして注文したそのカレーライスは、ひとくち食べて、これは旨いと感じ入る、そんな類の風味ではない。
だが、だからといって、お洒落なだけのカフェにありがちな、いい加減で適当な内容などでは勿論なく、この御店の本質を穢さない、地味ではあるが不足のない、むしろ、しっかりとした調理、盛り付けであると言える。
だが、例えば、このカレーを求めて、御店に行列が出来るようなこと、それは、まずないであろうし、求める客が溢れる程には美味し過ぎない、その微妙な線を、この御店は心得ている、そのような妄想さえ抱かせる、地味に好い出来なのが、このカレーの醸す雰囲気、その風味、そしてこの御店の本質なのだ。
盲目的にメディアに踊らされ、押し寄せて来る、店を作るはずの、当の客によって、その存続まで潰えさせられてしまった、もしくは、そうなってしまう恐れのある御店というのも、実際に、稀にある。
だが、そこまで行かなくとも、その当初の意図は、見る影もない、そういう意味で、同じく潰されてしまった御店というのは、世の中には、とてもとても、多いのだ、残念なことながら。
そう思うと、カフェとして、京都では指折りの旧さを誇る、このカフェドジは、その外観も然ることながら、真の意味での、本質的な、砦である、そう言い得るのかもしれない。
御店は客が作るもの、確かにそういう一面は、真理としてある、そうではあるけれど、やはりその場を、大きなリスクを背負ってでも提供しよう、そういう覚悟を持った人物が最初に居たからこそ、それはその後に成り立つ話ではある。
そしてその最初の人、創造主というのは、言うまでもなく、オーナーであり、店主である。
儲けたいとか、目立ちたいとか、そういう俗な欲望に絡め取られた人生を送りたくない、そう思う人物から生まれ出でる創造物というのは、やはりそこはかとなく、それなりの雰囲気を醸し出していて、このカフェドジは、紛れもなく、そのひとつと言える、そんな風情で、大通りに面していながらも、ひっそりと、しかし、どっしりと、ある種の砦のような威容を以って、その地に根を下ろしている。
それはまるで、一見、何とはなしに現代美術館のように見えなくもない、そんな外観でもあり、まさかそこで商売が営まれているとは、ちょっと思えない、そういう雰囲気である。
ただ、おそらくは、不幸なことに、その駐車場完備の店舗、わりに広い器、そのためか、ファミリーレストランのように気軽に立ち入ること、それもまた可能な風情でもある、そこがある意味、悩ましい。
厚かましい訳でも、傲慢な訳でもなく、カフェにはカフェの意図があり、都合があり、来て欲しい客と、来て欲しくない客が、勿論あるだろう。
思い遣れば、長居はしてもいいけれど、騒がしくはして欲しくない、そんな御店の望みが窺い知れる店内の雰囲気、そして、考えさせられた、その料理の内容。
遅い時間のランチとして注文したそのカレーライスは、ひとくち食べて、これは旨いと感じ入る、そんな類の風味ではない。
だが、だからといって、お洒落なだけのカフェにありがちな、いい加減で適当な内容などでは勿論なく、この御店の本質を穢さない、地味ではあるが不足のない、むしろ、しっかりとした調理、盛り付けであると言える。
だが、例えば、このカレーを求めて、御店に行列が出来るようなこと、それは、まずないであろうし、求める客が溢れる程には美味し過ぎない、その微妙な線を、この御店は心得ている、そのような妄想さえ抱かせる、地味に好い出来なのが、このカレーの醸す雰囲気、その風味、そしてこの御店の本質なのだ。
盲目的にメディアに踊らされ、押し寄せて来る、店を作るはずの、当の客によって、その存続まで潰えさせられてしまった、もしくは、そうなってしまう恐れのある御店というのも、実際に、稀にある。
だが、そこまで行かなくとも、その当初の意図は、見る影もない、そういう意味で、同じく潰されてしまった御店というのは、世の中には、とてもとても、多いのだ、残念なことながら。
そう思うと、カフェとして、京都では指折りの旧さを誇る、このカフェドジは、その外観も然ることながら、真の意味での、本質的な、砦である、そう言い得るのかもしれない。