カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

わすれな草

2011年10月13日 | 大阪
「オレンジの、水面。」

翌日、急遽、肥後橋に所用の出来たその日の夜、川沿いから、うつぼ公園までの範囲に点在する、おそろしく評判の好い千円前後のランチを提供する各店のメニューを差し置いて、独り仕事場のPCにて食事処を物色するカゲロウの関心を一際惹いたのが、まさにこのチキンカレーであった。
単純に、安価ゆえ、手軽であるから、それもその一因のひとつではある。
だがしかし、それが最大の要因であるということは決してなく、純粋に興味深い、おおよそ外食でカレーと名の付く一連の料理に対し、興味を抱くことの稀なカゲロウにして、無視することの出来ない何かを、そのカレーは秘めていた。
外観からしてそのカレーは、ありきたりではない印象を、独り画面に魅入るカゲロウに与える。

そして翌日、到着した店前にある、然したるデザイン性も感じさせない小汚い看板、そこには手書きでこう記されている。
「水を一滴もつかわないトマトとヨーグルトの本格インドカレー580円」
なるほど、旨いともお奨めとも書いてはいない、その素っ気なさに、逆に自信の程が窺える看板自体の風体、そして文体である。

果たしてそのカレーは、カレーと一概に定義してしまうには、イメージ色赤く、実際の色彩的には、黄色い要素もおおよそなく、オレンジ色といって間違いではない、謂わば、ハヤシライスのような色合いではある。
だが、よくよく見れば、あの物足りなく汁気の多い、ハヤシライスの水っぽさとはまた違う、そんな水面を、装われたルーは随所に顕している。

オイル、そしてスパイスの成分であろう、混ざり切ってしまわないそのムラが、ルーの表面に浮いている。
フルーティーでありながら、且つ、深みのある味わいと同じくして、その外観さえも、全く単純ではない。
ホロホロに煮込まれた鶏肉からしてもわかるように、煮込み切れず、成分が馴染んでいないという訳では勿論なく、あえて、この多岐に、微量に、形として残存させた成分が、このカレーの独特の深みを構成しているのだ。

例えば、珈琲を戴く場合であっても、滴らせたクリームを混ぜずに啜るのが無上の喜びであるカゲロウにとって、その異物感、違和感というのは、歓迎すべきもの以外の何ものでもない。
そのムラがあってこそ、様々の食感、そして味わいによって、飽きずに最後まで料理を楽しむことが出来るというものであり、きっちり均等に混ざり切っていない状態を、一概に非とする単細胞的風潮、それこそが、実は全てをつまらないものにし、遂にはスポイルしてしまう元凶であることに、所謂、グローバル・スタンダード的であることを、雰囲気として是とする世間というのは、いつになれば気付くことであろうか。

確かに、攪拌の足りない、混ざり切らない、そんな調理に、良くない意味で不完全な出来上がりの料理が多いのは、おおよそ実際ではある。
だがしかし、その混ざり切らない状態を、一概に非とするのは、あまりにも早計で、混ざり切らないものの中にも、好いものと、好くないものとが、厳然として存在する。
逆に言えば、混ざり切り、馴染み過ぎて、その持ち味を殺してしまっている個々の存在というのは、料理に限らず、世の中、少なくはない。

キッチリと混ざっていないから根本的に駄目で、混ざり、馴染んでさえいれば、それで良いというのではなく、しっかり混ざっていようといまいと、駄目なものはやはり駄目で、良いものは好いのである。
それを一概に、傾向だけでカテゴライズし、判断しようとする怠惰、怠慢からこそ、無理解による間違った認識が生まれるというものである。

立ち飲みは勿論のこと、立ち食いにすら馴染みのないカゲロウは、果たして、どう立っていればいいのか、それすらもわからない、そんな状況で、ボンヤリと、そんな愚にもつかないことを連想しつつ、急ぐ必要など何もないのにもかかわらず、なぜか急いで食べなければならないような気になって、出来得る限り素早く料理を貪ってはいたのだが、そのカレーのあまりの旨さに、そんな状況であってさえも、その全ては全く苦にはならなかった。

わすれな草 立ち飲み居酒屋・バー / 肥後橋駅渡辺橋駅大江橋駅
昼総合点★★★★ 4.0



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