「其れが何でも、かまわない。」
此れまでの人生において、パンナコッタというものについて、そう深く考えたことがあるという訳ではなかった、プリンとゼリーの間、其の程度の曖昧な認識に過ぎなかった、浅墓ながら其れが正直なところである。
だがしかし、此れこそが本当のパンナコッタなんですよ、そう諭されたかの如くに本格的な風情漂う其のデザートを眼の前にして、改めて、此れこそが本当のパンナコッタなのかと、素直に認識を改めんとしている己が其処に居る、其のくらいに説得力のある、カラフル、且つ、混沌とした、其のドルチェであった。
かといって、何を以って、其れがパンナコッタであると世間的に認定されるのか、そのようなことには、実はさらさら興味など抱いてはいないというのも、正直なところである。
所謂昭和世代などという時代遅れでしかない者にとって、パンナコッタやティラミスといったような、幼少の頃には聞いたことも見たこともない、そんな未知のスイーツというのは、実は幾つになっても未知のまま、此れこそが、まさにそうであるという認識すらも形成し得ない其のままに、ただ、微かな憧れと、小さな驚きとともに、おそらくは其の人生の終わりまで受け入れられることになる、其れでいいのだ。
其れが、此のパンナコッタように、奥深く、原初的で、不可解に興味深いものであるならば、其の喜びというのは、ひとしおのことである。
此れまでの人生において、パンナコッタというものについて、そう深く考えたことがあるという訳ではなかった、プリンとゼリーの間、其の程度の曖昧な認識に過ぎなかった、浅墓ながら其れが正直なところである。
だがしかし、此れこそが本当のパンナコッタなんですよ、そう諭されたかの如くに本格的な風情漂う其のデザートを眼の前にして、改めて、此れこそが本当のパンナコッタなのかと、素直に認識を改めんとしている己が其処に居る、其のくらいに説得力のある、カラフル、且つ、混沌とした、其のドルチェであった。
かといって、何を以って、其れがパンナコッタであると世間的に認定されるのか、そのようなことには、実はさらさら興味など抱いてはいないというのも、正直なところである。
所謂昭和世代などという時代遅れでしかない者にとって、パンナコッタやティラミスといったような、幼少の頃には聞いたことも見たこともない、そんな未知のスイーツというのは、実は幾つになっても未知のまま、此れこそが、まさにそうであるという認識すらも形成し得ない其のままに、ただ、微かな憧れと、小さな驚きとともに、おそらくは其の人生の終わりまで受け入れられることになる、其れでいいのだ。
其れが、此のパンナコッタように、奥深く、原初的で、不可解に興味深いものであるならば、其の喜びというのは、ひとしおのことである。
il luogo di TAKEUCHI (イタリアン / 福島駅、新福島駅、西梅田駅)
昼総合点★★★☆☆ 3.5
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