釜山最大の遊郭と言われた玩月洞(완월동・ワノルドン)です。
日本人租界のあちこちにあった「特別料理店(料亭)」が集まった「遊郭」が出来たのは1902年(明治35年)、釜山が初めてだったようです。
当時の遊郭は日本人居住地から離れた今の富平洞の富平市場の近くにあったと言います。
しかし、日本人の人口が増えるにつれ民家が建つようになり、風紀上の問題も生じました。
遊郭もますます繁盛したため、別の場所に移転する必要が出てきました。
そこで、1911年(明治44年)、当時の玩月洞(완월동)に遊郭が移されました。
当時、玩月洞(완월동)周辺は人家などない険しい山岸だったが、遊郭ができて「緑町」と呼ばれ町ができあがりました。
「緑町」と聞いて、当時を懐かしむ年配の方も多いのではないでしょうか・・・。
解放(終戦)後、緑町は玩月洞(완월동)となり、引き続き売春が行われる「集娼村」のある町になりました。
1980年代には2,000人を超す娼婦がいたようです。
最盛期には、昼間から賑わっていたようだが、現在は人気がまったくなくて、静まり返っています。
置屋街特有のガラス戸の飾り窓の中を覗いてみても、人の気配はない。
無理もない、2004年に売買春を禁ずる性売買禁止特別法が施行され、客も罰せられるようになり取り締まりも強化され、かっての緑町、玩月洞(완월동)の面影は消えてしまっています。
日本人が始めた遊郭が、性の売買の場所として現在まで根強く残っている。
かって、漢字の看板も多かったのは、日本人客が少なくなかったという事実を物語っている。
釜山は、関東よりも九州や関西からの訪問者も多い土地柄です。当然のように玩月洞(완월동)訪れる客も九州や関西の客が多い。
玩月洞(완월동)のアガシの中には、誰もが知ってる某有名企業の管理職の名刺とか、某組織暴力団の組長クラスの名刺とかを束のように持っているアガシもいたようです。
ところで、玩月洞(완월동・ワノルドン)というのは正式な地名ではありません。
玩月洞(완월동)=売春の町というイメージが定着してしまったため、1982年に地元の住民たちが地名を変更するように求め、忠武洞3街となりました。
それでも今なお、玩月洞(완월동)= 集娼村というイメージは根強いようです。
2004年施行の性売買禁止特別法以来、徐々に看板は撤去されていったようです。
置屋の看板の屋号は消されています。
玩月洞(완월동・ワノルドン)の置屋は、(例)A11 金成館 と置屋番号と屋号の看板が出ていました。
19歳未満出入雇用禁止業所の貼紙がされています。
置屋番号・置屋名の看板は消されています・・・・
看板は消されていますが、透けて見えます。