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来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくや藻塩の 身もこがれつつ

2021年12月21日 13時49分09秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、昨年、一昨年、「春」「夏」「秋」「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログに書き留めたが、今回は、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、書き留めてみることにした。

(ネットから拝借画像)


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その12

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ

出典
新勅撰集(巻十三)

歌番号 
97 

作者
権中納言定家

歌意
いくら待っていても来ない恋人を待っている私は
松帆の浦の夕凪時に焼く藻塩が火にこがれるように
恋人を慕って身も恋いこがれてせつないことよ

注釈
「まつほの浦」は、「松」と「待つ」の掛詞。
「松帆の浦」は、淡路島の北端に有る海岸名。
「夕なぎ」は、夕方の無風状態のこと。
「焼く」は、昔の製塩法ことで、海水を何度もかけた海藻(藻塩草)を
天日で乾かし、それを焼いて水に混ぜ煮詰めていくこと。
「身もこがれつつ」は、私のこの身も、藻塩が焼け焦げるように、
恋いこがれているの意。

「万葉集」(巻六)の長歌に、
「・・・淡路島、松帆の浦に、朝凪に、玉藻刈りつつ、夕凪に
、藻塩焼きつつ、海少女(あまおとめ)、ありとは聞けど・・・」があり、
その歌を本歌にした「本歌取りの歌」
「本歌取りの歌」とは、元の歌の趣を利用して、一段と内容を深めた歌のこと。
序詞掛詞縁語を自在に使って、
来ぬ人を待ちこがれる女性の心情を、
藻塩を焼く松帆の浦という幻想的風景の中で表現している。
和歌史上最高の歌人と言われる藤原定家の面目躍如たる歌と言えるだ。


権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ)
新古今時代の代表的歌人、藤原定家(ふじわらていか)のこと。藤原俊成の子。
「小倉百人一首」の撰者「新古今集」「新勅撰集」の撰者
正三位・権中納言まで進み、和歌所寄人(わかどころよりうど)となった。
歌論書「近代秀歌」「毎月抄」、日記「名月記」、家集「拾遺愚草」等が有る


川柳

来ぬ人は花と風との間(あひ)に見え


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


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