M男が、小学生中学生の頃、昭和20年代から30年代の北陸の山村のお盆の話である。
お盆の過ごし方、習わしについては、地方により、宗派により、各種様々であり、時代と共に、随分と変化もしてきていると思われるが、M男にとっては、未だに幼少期のお盆の記憶が、原風景となって脳裏に焼き付いている。
毎年、8月13日の夕暮れ時、集落のそれぞれの家では、蝋燭に火を灯したカラフルな小さな手提げ提灯「盆提灯」をぶら下げて、三々五々、それぞれの家の墓に向かう習慣があった。もちろん、寺院や大型の墓地等ではなく、集落内に点在していた墓であったが、日中でなかったのは、猛暑を避ける意味も有ったのかも知れない。「お盆のお墓参り」である。
ネットから拝借画像 手提げ盆提灯

当時の農村では、家族そろって外出する等ということは滅多にないことであり、子供達は、興奮し 走り回りはしゃぐ声が、薄暗くなって、静かな山道や農道のあちこちから、聞こえてきた。外路灯等、全く無かった時代、遠く近く、「盆提灯」の灯が、行き来する風景は、子供ながらも幻想的に見えたような気がする。
墓や仏壇に供える花は決まっており、田の畦や水路で自生し、ちょうどお盆の頃に咲く、当時、「盆花(ぼんばな)」と呼んでいて花だった。つい最近になって、その花名が、「ミソハギ(禊萩)」であることを知り、「へー!、そうだったの」・・・・、目から鱗・・・になったものだ。
一般的に、「お盆」と言えば、13日に、玄関先等で「迎え火」を焚いて先祖の霊を迎え、14日、15日は、お供物を供えて供養し、16日には、「送り火」を焚いて、先祖の霊を送り出すという習わしが多いようだが、M男の暮らした北陸の山村では、浄土真宗の家が多く、後年になって知ったことであるが、浄土真宗では、お盆に先祖の霊が帰ってくると考えないことから、「迎え火」「送り火」等を行う習わしは無く、お盆に僧侶を迎えお経を読んでもらったり、飲食供養するという習わしも無かったようだった。
村落のほとんどの家が、年中無休のような農家だったが、お盆は特別で、お盆前に農作業等を一段落させ、村落全体が完全休日となり、大人達もゆっくり過ごしていたように思う。ただ、お盆だからといって、特別なイベント等もなく、来客が多いということもなく、全体的に静かだったような気がする。
成人してから知ったことであるが、「お盆」とは、もともと、梵語(サンスクリット語)の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の省略形「盆」からきているのだそうだ。「盂蘭盆会」は、先祖を供養するため、夏に行われる仏事で、日本では、平安時代から鎌倉時代に定着し、江戸時代に入ってから、庶民の間でも盛んになったのだという。「盆礼」と言って、親戚や知人に進物を贈答する習慣も 一般的となり、それが、今日の「お中元」に繋がっている等とも言われている。
お盆の由来等について、浄土真宗関係のサイトから、一部、引用させていただいた。
(1)お釈迦様の十大弟子の一人に、目連(もくれん)という人がいた。
(2)目連は、大変な神通力が有り、孝心の深い人だった。
(3)目連が、神通力をもって、三世を観ると、亡き母親が餓鬼道に堕ち、苦しんでいることが分かった。
(4)目連は、嘆き悲しみ、鉢で飯を母親に捧げたが、母親が食べようとすると、飯は燃え上がり どうしても食べることが出来なかった。
(5)目連は、どうしたら母親を救うことが出来るかお釈迦様に尋ねた。
(6)目連は、お釈迦様から、「7月15日に、飯、百味、五果等 珍味を、十方の大徳衆僧に供養すれば、布施の功徳が大きいので、母親は餓鬼の苦難から免れるであろう」と教導された。
(7)目連は、お釋迦様の教導に従ったところ、母親は、たちまち天上界に浮かぶことが出来た。
(8)目連は、喜びのあまり、踊った。それが、「盆踊り」の始まりだという説もある。
「盂蘭盆会」は、上記、目連の故事から、先祖供養の日となって、今日の「お盆」に続いていると言われている。

(我が家の形ばかりのミニ仏壇)
今、墓守不在の墓が問題になっている。
他人事に非ず、我が家の場合も、どうする?、どうする?、・・・である。
戦後、50年、60年で、日本人の暮らし方、価値観が まるっきり変わってしまい、お盆の習わしの継承も難しくなっていると思われる。心のよりどころ、故郷を大切にしたいものではあるが・・・・。