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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

台風一過の快晴・・・とはならなかったが、

2022年08月14日 20時08分34秒 | 暮らしの記録

台風8号の進路上だった当地、
幸いなことに、風雨共、予想した程ではなく、
しかも、韋駄天のごとく、さっと通過していき、
昨夜、21時過ぎには、月夜になったのには、驚いたものだが、
今日は、「台風一過の快晴・・・」とはならず、やや雲の多い1日だった。
まとまった雨が降ったお陰で、早朝等は、肌寒い程だったが、
気温は、ぐんぐん上がり、日中、32℃前後になったようだ。

台風直撃に備えて、屋内に退避させていた鉢植えのサクララン、
また、ベランダに運び出したが、次々と開花している。

夕方の西の空、異様に焼けて・・・、


遠い記憶のお盆(再)

2022年08月14日 17時21分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男が、小学生中学生の頃、昭和20年代から30年代北陸の山村のお盆の話である。
お盆の過ごし方、習わしについては、地方により、宗派により、各種様々であり、時代と共に、随分と変化もしてきていると思われるが、M男にとっては、未だに幼少期のお盆の記憶が、原風景となって脳裏に焼き付いている。

毎年、8月13日の夕暮れ時、集落のそれぞれの家では、蝋燭に火を灯したカラフルな小さな手提げ提灯「盆提灯」をぶら下げて、三々五々、それぞれの家の墓に向かう習慣があった。もちろん、寺院や大型の墓地等ではなく、集落内に点在していた墓であったが、日中でなかったのは、猛暑を避ける意味も有ったのかも知れない。「お盆のお墓参り」である。

ネットから拝借画像 手提げ盆提灯


当時の農村では、家族そろって外出する等ということは滅多にないことであり、子供達は、興奮し 走り回りはしゃぐ声が、薄暗くなって、静かな山道や農道のあちこちから、聞こえてきた。外路灯等、全く無かった時代、遠く近く、「盆提灯」の灯が、行き来する風景は、子供ながらも幻想的に見えたような気がする。
墓や仏壇に供える花は決まっており、田の畦や水路で自生し、ちょうどお盆の頃に咲く、当時、「盆花(ぼんばな)」と呼んでいて花だった。つい最近になって、その花名が、「ミソハギ(禊萩)」であることを知り、「へー!、そうだったの」・・・・、目から鱗・・・になったものだ。

一般的に、「お盆」と言えば、13日に、玄関先等で「迎え火」を焚いて先祖の霊を迎え、14日、15日は、お供物を供えて供養し、16日には、「送り火」を焚いて、先祖の霊を送り出すという習わしが多いようだが、M男の暮らした北陸の山村では、浄土真宗の家が多く、後年になって知ったことであるが、浄土真宗では、お盆に先祖の霊が帰ってくると考えないことから、「迎え火」「送り火」等を行う習わしは無く、お盆に僧侶を迎えお経を読んでもらったり、飲食供養するという習わしも無かったようだった。
村落のほとんどの家が、年中無休のような農家だったが、お盆は特別で、お盆前に農作業等を一段落させ、村落全体が完全休日となり、大人達もゆっくり過ごしていたように思う。ただ、お盆だからといって、特別なイベント等もなく、来客が多いということもなく、全体的に静かだったような気がする。

成人してから知ったことであるが、「お盆」とは、もともと、梵語(サンスクリット語)の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の省略形「盆」からきているのだそうだ。「盂蘭盆会」は、先祖を供養するため、夏に行われる仏事で、日本では、平安時代から鎌倉時代に定着し、江戸時代に入ってから、庶民の間でも盛んになったのだという。「盆礼」と言って、親戚や知人に進物を贈答する習慣も 一般的となり、それが、今日の「お中元」に繋がっている等とも言われている。

お盆の由来等について、浄土真宗関係のサイトから、一部、引用させていただいた。
(1)お釈迦様の十大弟子の一人に、目連(もくれん)という人がいた。
(2)目連は、大変な神通力が有り、孝心の深い人だった。
(3)目連が、神通力をもって、三世を観ると、亡き母親が餓鬼道に堕ち、苦しんでいることが分かった。
(4)目連は、嘆き悲しみ、鉢で飯を母親に捧げたが、母親が食べようとすると、飯は燃え上がり どうしても食べることが出来なかった。
(5)目連は、どうしたら母親を救うことが出来るかお釈迦様に尋ねた。
(6)目連は、お釈迦様から、「7月15日に、飯、百味、五果等 珍味を、十方の大徳衆僧に供養すれば、布施の功徳が大きいので、母親は餓鬼の苦難から免れるであろう」と教導された。
(7)目連は、お釋迦様の教導に従ったところ、母親は、たちまち天上界に浮かぶことが出来た。
(8)目連は、喜びのあまり、踊った。それが、「盆踊り」の始まりだという説もある。

「盂蘭盆会」は、上記、目連の故事から、先祖供養の日となって、今日の「お盆」に続いていると言われている。

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(我が家の形ばかりのミニ仏壇)

今、墓守不在の墓が問題になっている。
他人事に非ず、我が家の場合も、どうする?、どうする?、・・・である。
戦後、50年、60年で、日本人の暮らし方、価値観が まるっきり変わってしまい、お盆の習わしの継承も難しくなっていると思われる。心のよりどころ、故郷を大切にしたいものではあるが・・・・。

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「千の風になって」

2022年08月14日 10時29分23秒 | 懐かしいあの曲

毎年、お盆の頃になると、ふっと浮かんでくる曲が有る。
「千の風になって」である。
すでに帰る家も無くなっている故郷、北陸の山村、
ここ数年、親戚の法事も無く、新型コロナウイルス感染拡大し始めた頃から、ずっと帰っておらず、気力体力減退の爺さん、今年も、墓参りはパス、
「千の風になって」の歌詞ではないが、遠く、千の風になって吹き渡ってくる、祖父母、父母、弟、妹に手を合わせているところだ。

今更になってネットで調べてみると
「千の風になって」は、アメリカで話題になった詩「Do not stand at my grave and weep」を、小説家の新井満氏が、日本語に訳し、自ら曲を付け、2003年に発表した楽曲だった。2006年に秋川雅史氏がシングルでリリース、その後数多の歌手にカヴァーされ、広く知られるようになったのだという。

                盆の夜千の風から母の声(再)

母親が、旅立ってからもすでに5年目になる。
母親は、大正12年に生まれてまもなく実母と死別、実父の都合、事情、いきさつは不詳だが、
全く他人だった、子供の無い東京の女性(祖母)の養女となった。
養母(祖母)に大切に育てられて成人し、縁有って北陸出身の父親と結婚し、19歳で私を生んだ。
太平洋戦争が勃発し、大変な時代ではあったが、母親にとっては、東京の片隅でちっぽけな家庭を持って、一番幸せを噛みしめていた時期だったのかも知れない。
東京空襲が激しくなり、一家は戦火を逃れて、父親の故郷、北陸の山村に疎開した。
詳しい事情、いきさつは不詳だが、一家は、その地に定住する道を選んだのだった。
そこからの母親の苦労は、計り知れないものだったと思う。
時々、泣いていた若い母親の姿が、子供だった私の脳裏にも焼き付いている。
知り合いも友達もいない土地で、しかも当時はまだ、疎開者呼ばわりする閉鎖的な農村、
鍬、鎌の使い方も知らない都会育ち、農作業についていけない20歳そこそこの身体、
養母(祖母)から、「全て、子供のためだ。頑張れ!」と、よく励まされていた姿が目に浮かんでくる。
10年、20年、30年・・・、次第に農業にも慣れ、いっぱしの農家の嫁になって行った母親、
娘時代の都市生活から比べれば、天と地程違う暮らしだったに違いないが、極貧の暮らしから、少しづつ安寧の暮らしになっていったのだと思う。
昭和最後の年、全てを頼っていた夫(父親)を亡くしたが、その後も、気丈に一人暮しを続け、子供(私や次男や妹)、そして孫達がお盆や正月にやってくるのを、唯一の楽しみにしながら生き続けた。
ところが、今からも十数年位前になるが、1年に何回か帰省する度、かなり認知症が進んでいることが分り、一人暮しの限界を悟った。かなりすったもんだはしたが、説得し、神奈川県在住の妹宅に移住、のちに介護施設に入所し、入退院を繰り返しながら、5年前に、94歳の生涯を閉じたのである。
母親が望んでいたかどうかは分らないことだが、長年暮した北陸の地に有る、夫(父親)や次男(弟)、長女(妹)、祖父母と同じお墓に入っている。

「千の風になって」 原作詞者 不詳、日本語訳 新井満、作曲 新井満

私のお墓の前で 泣かないで下さい。    
そこに私はいません。眠ってなんかいません。
千の風になって、千の風になって、     
あの大きな空を、吹きわたっています。   

ヘイリー・ウェステンラ(Hayjey Westenra)の 「千の風になって(! Am a Thousand Wind))

 

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