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草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

このような小学生がいるものか

2013年12月17日 10時20分30秒 | 
 お早うございます。現在気温8℃です。今日も青空です。今日は午前中には外に出たいと思っています。もちろんウォーキングです。4時を過ぎると途端に暗くなりますので日の明るいうちにと思いながらいつも時を逸してしまいます。
 もう12月も17日なんですね。時がすごい勢いで進んでいるように感じます。指導のある日の竹の会の子どもたちというのはすごいですね。早い子だともう30分も前から教室にやってきてすぐに始めますから、わたしが指導開始の1時ぎりぎりまでやりかけの添削なんかをやらせてくれない、それで1時までにはほとんどやってくるわけです。ですから1時間も遅れてくる子というのはかなり目立つことになる。遅刻もきちんとした事情があれば問題ないのですが、やたら遅刻する子というのはやはり他の子と比べても勉強に対するスタンスを疑われてもしかたないと思います。やってくると子どもたちは今の小6はないのですけど、まず計算4題をやる、これはウォーミングアップです。これが終わって始めて実質的な指導開始です。すぐに算数のレジュメ集に取り組む子もいれば、進んだ子は適性レジュメ、さらには様々なその日の課題レジュメをやるように指示されてそれぞれが取り組むわけです。課題は1通やるごとに指導室に持ってきて診てもらうことになります。指導に時間を要することもあり、そうなるともう早い子たちが何人か待っていますね。
 こうして延々と指導は続き気がつけばもう後1時間、その1時間もあっという間に過ぎて指導終了という運びになります。
 子どもたちは教室に入ったときから終わって教室を出るまでほとんど休みなく勉強、いや訓練をしているわけです。その間子どもたちどうしでおしゃべりなんか一言もありませんからね。だからこういうときに集中が切れた子はかなりに目立つわけです。机の上に頭を預けて寝ているとかなり目立ちます。考えていて疲れたからなのか、わからなくてほとほと困ったからなのか、たまにそういう小4、小5を見ます。やはり人間ですから、これだけやれば疲れますよね。しかたないと思っています。別に周りに迷惑をかけることもないわけですから。ただ、これが中学生だとかなり目立ちます。
 今の中学生というのは、もともと「竹の会は中学生はとらない」としていたのを特に熱心な中学生に限って入会を認めた子たちです。小6は例年1月で竹の会卒業ですが、その前から早くに「中学になっても竹の会でやりたい」という強い意思の子そしてお母さんに「それほどの勉強への強い意思があるのなら」とかまわないと決断したものです。
 だから中学生というのは勉強に対する強い情熱がある限りが前提というか条件です。これが覚めてしまえば竹の会には「いる」理由はありません。
 わたしはよく思うのです。勉強しないのなら竹の会に「いる」理由は全くない、ただ「いる」だけというのは止めてほしい。
 竹の会というのは、「勉強が大好きな子たちの群れ」だと思うのです。わたしはわたしが先頭に立って大空を飛んでいる群れを想い描きます。群れの成員はそれはもうひとりひとりが夢中になって飛んでいると思うのです。群れからはぐれないように必死に飛んでいると思うのです。だから途中で飛ぶのが嫌になったり、飛ぶことに疑問を抱いたりすれば群れから脱落するしかないのです。この例えを想い描いていたら、そうだとすれば、いくら飛んでも群れについていくことのできない子もでてくるなと思いました。だから竹の会ではこの群れに加わるための試験を課しているのです。が、この試験もまだ完璧ではない、時としてはぐれ鳥が紛れ込むこともあります。勉強というのは「意思」、「熱意」があって始めてできることです。そしてさらには群れに残る、つまりは共に飛べるほどの能力も必要です。
 竹の会というのは目的を持った群れです。勉強する気がない子が行く塾というのは、それがいい塾かどうかは別として、巷には溢れています。大手ならカネさえ出せばだれでも受け入れてくれます。そういう大群に紛れることも別にかまわないと思います。大群というのは、核となる群れがあってそこさえ正常に機能していれば、大群の枝葉末節がいくら落ちこぼれても群れ全体には何の影響もありません。大群というのはもともと「寄らば大樹の陰」という意志薄弱な親子が寄せ集まるようにできています。そして末端の鳥が力尽きて脱落しても大勢には影響ないような大きな群れなのです。そういう逃げ場は今の世にはいくらでも用意されているということです。
 群れに残るというのはいくら飛ぼうという意思があってもそれぞれ本人の飛ぶ限界というものがある以上飛べない鳥も出てくるのは当然と思うのです。まず飛ぶ意思というものがある限りは最初はなんとか群れに残っていることもできるかもしれないけれどいずれは力尽きるときがくると思います。そういうときはもう飛ぶのは止めてしばらく群れから離れて休むのもまたひとつの選択だと思うのです。飛び続けなければならないと思い詰めることもないと思うのです。 
 わたしが竹の会をある意味気楽に退塾してもいいのではないかというのはそういう主旨なのですけれど・・・。
 だって時には「なんで飛んでいるの」と疑う子だって出てくるでしょ、飛ぶのが嫌いという鳥だっている、飛ぶのが嫌だ、ずっとお母さんの巣の中で過ごしたいという鳥もいるでしょ、群れと一緒には飛びたくないひとりで飛びたいという変わり者もいる、飛ばないで遊んでいたいという鳥もたくさんいる、だから、竹の会という「飛ぶ」群れに「いる」というのは「無理」することではないのです。勉強が辛い、きつい、面倒くさい、もっと楽しいことをやって過ごしたいという子は竹の会には無縁です。勉強するというのはもともと我慢のすることです。そういうがまんのいることを習慣として固定化していくのが教育なのです。飛ぶのは、飛び続けるのは、いろんなことを犠牲にして、そう、我慢して飛ぶことなのです。それは飛ぶという習慣を固定化してさまざまな人間の楽を求める心を封じ込めるということなのです。
 人間が自分にとってやりやすいこと、楽しいことばかりを我慢という心の装置を使わないでやってきたならば、そこには使いものにならない毀れた人間が1個できあがるだけです。わたしたちは「流される」人間には決してなってはいけないのです。それは物です。
 
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