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草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

思考の深さを測る指導の技術

2013年12月14日 21時20分06秒 | 
 適性試験問題というのは、思考の深さが問われる特質をもつ。かつてなんの訓練も経てない、ただ都立を受けたいという気持ちだけで、適性に挑んだ子たちが全くといっていいほど解けなかったことを思い出す。そもそも割合のベタな問題も理解できない子たちが無謀にも適性問題に挑んでいったこと自体が考えられないことであった。初期の受検者たちは、まさにこれまで受験など無縁な子たちであった層が「わたしも、わたしも」とまさに猫も杓子も受検へと向かったのであった。「突然、この子が受検したい」と言い出したので、よく母親が小6になってやってきたものである。なにしろ割合どころか通分さえもできない子たちなのであった。思考というものがまるでない子たちが受検を賑わせた時代であった。
 今や難関私立の併願先として都立中が注目され始めて久しい。都立中の実績が次から次に出るに及んで都立中受検はこれまでにない厳しさを増しつつある。まさに思考力が問われる試験となったのである。
 今年白鴎に合格した女子に「わたしは合格すると思います」と言ったことを覚えている。もうひとり小石川に合格した女子にも「合格すると思います」と言いました。
 わたしをして何がそう言わしめたのか。
 それは普段の指導において思考の深さを確信したからです。指導していてストレスがなかったといってもいいでしょう。
 わたしは普段の指導で使うレジュメでその子の思考の深さを測っているのです。
 わたしが制作しているレジュメシリーズは多かれ少なかれ「思考の深さ」を測るのにすぐれた問題構成になっています。
 最近作っているものに「推論を鍛える」というシリーズがあるのですけども、あれは主として規則性の問題を扱っているのですけど、小問が1~3ほどあって、次第に難しい思考を要するように作られているわけです。そこで子どもたちがどの小問が「できない」かということで思考の深さを測ることができるわけです。件の女子、つまり今年合格した女子というのはわたしのこの思考力の深さをチェックするというテストを見事にクリアーしていたということです。それも何度となく繰り返されるこのテストに合格してきたとうことです。わたしが「この子は合格する」という確信をいだかせるほどに合格を重ねてきたということです。
 わたしは子どもたちができなくても何も言いませんけど、実はわたしの頭の中ではめまぐるしく思考の深さを推し量っているのです。そしてその子の思考の程度を推し量り、指導の戦略を立て直しているのです。
 よく思考訓練を始めたばかりの子にわたしは厳しく注意することがあります。「式を書かないで答えだけ書く」という子には厳しく注意します。計算に単位をつけない子も同様です。意味のわからない式を書く子がいます。思考云々のレベルではない段階の子たちです。かつてこの程度の子たちが平気で「都立に受かる」と思って疑わなかった時代がありました。親も「都立なら受かるかも」と漠然と考えていた節があります。素朴な時代でした。
 わたしは算数で思考をまず鍛え上げます。割合の概念を徹底して子どもの頭の中に組み上げていきます。ところがここのところで意外と手間取る子がいます。正直ここで手間取るのは先の見通しがないと言えます。将来思考の深さを測る段階にきたときにそこそこの思考の深さしか達しないという子がいますが、そういう見通しが見えてしまうのです。適性問題には思考の妙というか、思考の綾といったものが見事にカモフラージュされているものが多い。そういう問題を騙されずに思考の力で読み解き切り抜けるにはかなりに高度な思考訓練を重ねること、その思考訓練で幾度となく成功体験を重ねていくしかないと思います。
 わたしが危惧しているのはこうした成功体験というものを持たないままに受検することになってしまった子たちのことです。これは落ちる可能性を秘めた子たちです。よくわたしは「合格するかもしれないけど、落ちる可能性もある」と言ったいい方をすることがありますが、こういう子というのは、たいていマーフィーの法則にいうところの「失敗する可能性のあることは失敗する」という法則どおりの結果を出します。つまり必ず失敗するほうの結果を出してしまうのです。
 24年に富士に合格した小6女子のことを思い出します。彼女は一度も早稲田進学会の模試でいい成績を取っていません。が、彼女が24年の竹の会の「合格するならこの3人の中から」という1人に入っており、しかし、3番手であったという事実です。直前のわたしのチェックでは「合格する可能性」のほうを感じていました。他の2人が失敗する可能性を感じていたのとは対照的でした。可能性が、合格する可能性なのか、失敗する可能性なのか、はわたしには大きな違いがあります。
 合格する可能性というのは、「失敗するかもしれない。しかし、合格する可能性がある。」です。他方、失敗する可能性というのは、「合格するかもしれない。しかし、失敗する可能性がある。」です。この微妙な判断の違いです。
 現代文の読解では、「しかし、・・・」というときは、「しかし」の後に重要な主張がくるというのはご存知ですよね。そういうわけです。22年両国合格者も「しかし、合格する可能性がある」でした。
 この時期のわたしは常に「思考力の深浅」を「推し量っています」。わたしは思考の妙を、綾を見事に切り抜けるほどの思考を期待しながら、レジュメを提供し、チェックしているのです。
 小5には「竹の会入会テスト1類」で「できない」→「解説を読んでわかった」を繰り返していた子について、わたしは戦略を変えました。いや「1類」が解けなくなった小4についてはただストップをしただけです。
 指導というのは、子どもたに「成功体験」を与えて、所期の目標へと導いていく技術の総体といってもいいと思います。わたしは子どもたちが「わからない」という失敗体験を重ねるとき、成功体験をさせるために、戦略的に角度を変えて、全く別の次元のレジュメで成功体験を実現させるといったことをやることが多いのです。
 指導というのは、子どもに成功体験をさせながら、より高次の思考ステージへと導いていく技術のことです。子どもが失敗体験を繰り返すとき、指導は新たな成功体験を構築することによって、再度導くことが求められています。
 が、成功体験をどのような指導を尽くしても積み重ねることができない子なら、それは指導そのものが成り立ち得ないということです。
 わたしは見学にきた親によく言われます。端的に言えば、「プリントを自習するのですか」、「公文と同じですか」という親たちです。
 竹の会の指導ということの意味を知らない親たちにわたしには返す言葉もありません。


 
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