わたしにはこれからの竹の会の指導というものがしだいに見えてきたと思うのです。5月6日渋谷教室がスタートはしましたが元代々木教室とかけ持ちの状態がしばらく続きました。夏休みを終えて9月から渋谷に一本化してしだいに指導のありかたというものがかたちになってきつつあるのがわかりました。わたしは元代々木教室時代とはまるで違う指導の姿というものを思い描いていることに気づきました。平成17年あたりからだったでしょうか。竹の会の指導の形態が変わり始めたのは。それまで使用してきたオリジナル・テキストのレジュメ化の作業がスタートしましたのもこの頃でした。ただ英語だけは竹の会にはわたしが二十年以上かけて作り上げてきた珠玉の英語テキストがあり、これは不滅不朽の名作としてあり続けるでしょう。受験ではやはり過去問合格法が中心でした。これは過去問をコピーしたものを年度単位で虱潰しに潰してゆくというものです。都立一貫校指導でもこの方法がずっととられてきました。レジュメ化が進んだ平成23年の受検ではようやくレジュメがこれまでのコピー過去問に取って替わりつつありました。平成17年あたりから高校受験生が2~3人という時代が続きました。変わって小学生が増えていきました。都立中高一貫校対策の研究が進むにつれて竹の会はさらに小学生指導へと特化していったのです。平成23年には小学生指導のための様々な指導技術が完成してゆきました。渋谷教室に変わって、元代々木教室時代のように過去問分析に時間がとれないことで、わたしはかなりストレスを感じてきました。渋谷教室では子どもたちの時間の都合でどうしても2コースにしなければならなかったのはかなり効率の悪いことでした。しかし、今年度の指導が終わった時点でわたしにもっとも指導しやすいかたちに一新することとしました。
わたしはこれからの竹の会の指導は徹底してレジュメ指導中心であることは当然としてもこれまでとガラリとちがったものとなることを構想してきました。レジュメ指導といっても小学生相手にいつも「説明」しているのが指導の実際です。子どもたちはわたしの書斎でいつも説明を聞いています。子どもたちに説明するのもわたしの重要な仕事のひとつです。
わたしの考えている竹の会は次のようになるでしょう。
◎現在の渋谷Aはこれからも竹の会の基本の指導モデルとなること。
◎レジュメ制作のための十分な時間をとること。
具体的には、現在の渋谷Bは来年1月までとし、新たな構想でAと全く別の指導コンセプトの新Bとすること。
◎わたしの「説明」が子どもたちには欠かせないということ、そこでさらに進化したかたち、つまり寺子屋形式を取り入れるということ。
その具体的イメージは、現在の書斎に座卓を設置してじっくりと説明できる空間を整えるということ。
昨日今日と過去問と真剣勝負をしています。朝から暗くなるまで没頭しています。過去問ならなんでもいいということではない。「良質の過去問」というものがある。これまで都立の過去問を分析してきたおかげで、都立の過去問の背後にある出題者の意志というものが手に取るように見えてくる。過去問とは真剣勝負である。子どもたちの泣き所というか、理解の曖昧なところを見事に突いてくる。たいていの子どもたちはたとえば単位当たり量というものがわかったと言っていても、この適性過去問の密度の濃い問題設定にはやられるのではなかろうか。適性問題を解ける子というのは、それこそ強靱な知能の持ち主でなければならない、そんな思いに駆られる。
それなりに知能の高い、優秀と言われる子でも、「良質の過去問」の犠牲にいとも簡単になりそうな気がする。
生半可な覚悟では合格はできまい。
「作文」のできる子よりも、「適性検査」点のいい子のほうが、将来的に「伸びている」というのも示唆的であった。そういえば、平成22年の都立小石川では、作文点18点の子が合格していた。作文対策よりもより強靱な適性検査の解答力をこそ鍛えなければなるまい。
都立適性問題の背後に隠れた意志が見え隠れする。わたしは都立過去問と真剣勝負をする中から、ある何かを確実に感じとっている。子どもたちにはもっともあいまいに「わかった」として突き詰めることをしてこなかった、そこのところが、そこばかりが突かれている。算数で難問が解けるようになるというのと「ちがう」のである。問題はより基本のところにある。その基本のあいまいな理解のところを突いてくる。「単位当たり」の考え方の徹底、「単位」というものの真の理解が試されている、そういう気がしてならない。
わたしのレジュメ制作技術は高度化した。精緻にして絶妙な芸術品の域にある。願わくば子どもたちがわたしのレジュメとわたしの「説明」を両輪として、突き詰めていってほしい。
竹の会はこれまでとちがう。指導日はやたら多くなくてもいい。適度でいい。長時間の日もあっていい。ときには寺子屋で顔を付き合わせて学ぶのもいい。
指導する者が何をどう伝えるかがいい加減では子どもたちに伝わるはずもない。指導のない日はそれこそ真剣勝負で子どもたちに真に伝えなければならないことを探らなければなるまい。これを伝えるというものを伝えなければなるまい。
竹の会
わたしはこれからの竹の会の指導は徹底してレジュメ指導中心であることは当然としてもこれまでとガラリとちがったものとなることを構想してきました。レジュメ指導といっても小学生相手にいつも「説明」しているのが指導の実際です。子どもたちはわたしの書斎でいつも説明を聞いています。子どもたちに説明するのもわたしの重要な仕事のひとつです。
わたしの考えている竹の会は次のようになるでしょう。
◎現在の渋谷Aはこれからも竹の会の基本の指導モデルとなること。
◎レジュメ制作のための十分な時間をとること。
具体的には、現在の渋谷Bは来年1月までとし、新たな構想でAと全く別の指導コンセプトの新Bとすること。
◎わたしの「説明」が子どもたちには欠かせないということ、そこでさらに進化したかたち、つまり寺子屋形式を取り入れるということ。
その具体的イメージは、現在の書斎に座卓を設置してじっくりと説明できる空間を整えるということ。
昨日今日と過去問と真剣勝負をしています。朝から暗くなるまで没頭しています。過去問ならなんでもいいということではない。「良質の過去問」というものがある。これまで都立の過去問を分析してきたおかげで、都立の過去問の背後にある出題者の意志というものが手に取るように見えてくる。過去問とは真剣勝負である。子どもたちの泣き所というか、理解の曖昧なところを見事に突いてくる。たいていの子どもたちはたとえば単位当たり量というものがわかったと言っていても、この適性過去問の密度の濃い問題設定にはやられるのではなかろうか。適性問題を解ける子というのは、それこそ強靱な知能の持ち主でなければならない、そんな思いに駆られる。
それなりに知能の高い、優秀と言われる子でも、「良質の過去問」の犠牲にいとも簡単になりそうな気がする。
生半可な覚悟では合格はできまい。
「作文」のできる子よりも、「適性検査」点のいい子のほうが、将来的に「伸びている」というのも示唆的であった。そういえば、平成22年の都立小石川では、作文点18点の子が合格していた。作文対策よりもより強靱な適性検査の解答力をこそ鍛えなければなるまい。
都立適性問題の背後に隠れた意志が見え隠れする。わたしは都立過去問と真剣勝負をする中から、ある何かを確実に感じとっている。子どもたちにはもっともあいまいに「わかった」として突き詰めることをしてこなかった、そこのところが、そこばかりが突かれている。算数で難問が解けるようになるというのと「ちがう」のである。問題はより基本のところにある。その基本のあいまいな理解のところを突いてくる。「単位当たり」の考え方の徹底、「単位」というものの真の理解が試されている、そういう気がしてならない。
わたしのレジュメ制作技術は高度化した。精緻にして絶妙な芸術品の域にある。願わくば子どもたちがわたしのレジュメとわたしの「説明」を両輪として、突き詰めていってほしい。
竹の会はこれまでとちがう。指導日はやたら多くなくてもいい。適度でいい。長時間の日もあっていい。ときには寺子屋で顔を付き合わせて学ぶのもいい。
指導する者が何をどう伝えるかがいい加減では子どもたちに伝わるはずもない。指導のない日はそれこそ真剣勝負で子どもたちに真に伝えなければならないことを探らなければなるまい。これを伝えるというものを伝えなければなるまい。
竹の会