わたしたちの脳は有害なものは受けつけないようにできています。有害な知識は忘れるようにできています。それは脳が示す破滅へのシールドにほかなりません。
わたしたちは難しい試験に挑むときほど完全な知識が必要だと思い込んで行動します。しかし、それが失敗の真因であったとはだれも考えない。人はだれも網羅されたもの、すなわち完全性に安心する。ここからすべての誤った行動が正当化されてしまう。網羅主義は完全主義であり、非妥協主義である。なにか1冊の参考書を手にしても網羅主義の人は決して満足するところがない。ためにその1冊を完全(?)にやることもなく、他の1冊を永久に求め続けることになる。完全主義はもともとが破綻主義であったということに一向に気づくこともない。
そういえば、人生なんてみんな思い違いと勘違いで一生を閉じるのであり、だれもそのことに気づくことはないし、本人などはそれを信念として譲ることもないのだから、人の忠告など聞くはずもない。江戸時代に自らの矜持で切腹して死んだ人たちというのはまず思い違いや勘違いということがわからないままに信ずるところに殉じたわけである。
宗教を信仰する人なども超主観の世界に身を置いているわけだから、人の言葉というか、思想などはまず受け入れられない。
いや科学を信仰する人だって、実際は思い込みと勘違いの世界にいたりするわけです。それまで真理とされていたものが、100年後に誤解であったとされるのはよくあることであり、科学といって思い違いの例外ではありえない。
わたしは人間というのは、もともと不完全、すなわち不足していてちょうどいいと思うのがいちばん合っていると思うのです。それが現実ではないかと思うのです。
1つに満足できないというのはやはりおかしいと思います。仮にその1つがいろいろ不備・不十分であっても、いったんその1つを手にしたら、もうその1つに満足するしかないと思うのです。自然の摂理というものが想定できるとしたら、その摂理とは「もともと不足しているのだから、そして当の人間だって不完全性の表現なのだから、そこで満足しなさい」というものではないかと思うのです。「物」に支配される人、「物」に心を奪われる人というのは、どうしても「物」を偏愛し、「物」の完全性を求めてしまうと思うのです。だから、1つの「物」では満足できない。マニアという人が年代物を集められるだけ集める習癖というのも、「物」を神にまで崇めた結果です。「物」は当の人間が死んでもあり続けるわけですから、哀れなものです。「物」崇拝は悲劇です。そもそも「物」は壊れる運命にあります。朽ちる運命にあります。それなのに「物」ごときに永久性、完璧性を求めて止まない人たちはある意味勘違いの病です。
子どもたちが勉強するについても、この基本的なところはふまえていてほしいと思うのです。
勉強に完全求めては行けないということです。「理解する」ということでさえ、実はかなりに相対的なものです。相対的だから、つまり自分の理解するところがどこまで客観的なものといえるのか不安だからこそいろいろ問題を解いてみて、共通の認識を確認する必要があるわけです。
わたしは塾の先生ですから、つねにそのことを念頭に置いています。子どもたちが完全性の罠にはまることのないように気をつけています。
世間的な親というものは、とにかく心配なわけです。それは心の中に完全性への肯定がありその琴線に大手のパンフが見事に触れるということなのではないかと思います。
わたしから言わせれば愚かな行動です。完全に基づく行動は勘違いです。思い違いです。
塾というのは、大手のようにこれだけやれば完全などという嘘をつくのではなくて、不完全なのだけれども、相対的に合格可能性に一歩近づくという本当のところを自覚しなければならないと思うのです。すべて人間のやることですから不完全が前提です。だから親の方もそこのところは当然わかっていなければならない。しかし、世の親というのはそうではない。大手に群がる親というのはやはり完全性の罠に見事にはまった人たちであろう。「ないものを求めて」彷徨うのが、人の親ということなのか。自分の子ができないことで塾を転々とする一群の人たちがいる。いい加減に自分の子の現実というものを受け入れて、そこは日本人の苦手なプラス思考でなんとか子どもの将来を考えてもらいたいとは思うが、そういうことには思いも至らず、子のできないことを嘆いてばかりいては、真っ直ぐ育つものも育たない。子こそ迷惑な話ではないか。
まじめなのにできない子たちというのがいて、親が人並み以上に教育熱心なために、能力の限界を感じながら、学校でもいい子を装い、塾にもとにかく通うというのはやはり普通ではない。そう難しくもない方程式の文章題になす術を知らずにただ問題を眺めるだけという子が現実にはたくさんいます。そういう子というのが、熱心に塾に通ったからといって、親の願うようなトップ都立でも駒場クラスでも行けるようになることは決してないということです。
わたしは子どもたちにほんとうに「1つだけ」、その1つにこだわっていく人生を送ってほしいと思っています。1つだめならすぐ捨てて、代わりがいつでも用意できるというのは、完全性の罠にはまることです。完全性というのは理想です。現実ではありません。
わたしはそういう気持ちでいつもレジュメを作っています。子どもたちを指導しています。
竹の会
わたしたちは難しい試験に挑むときほど完全な知識が必要だと思い込んで行動します。しかし、それが失敗の真因であったとはだれも考えない。人はだれも網羅されたもの、すなわち完全性に安心する。ここからすべての誤った行動が正当化されてしまう。網羅主義は完全主義であり、非妥協主義である。なにか1冊の参考書を手にしても網羅主義の人は決して満足するところがない。ためにその1冊を完全(?)にやることもなく、他の1冊を永久に求め続けることになる。完全主義はもともとが破綻主義であったということに一向に気づくこともない。
そういえば、人生なんてみんな思い違いと勘違いで一生を閉じるのであり、だれもそのことに気づくことはないし、本人などはそれを信念として譲ることもないのだから、人の忠告など聞くはずもない。江戸時代に自らの矜持で切腹して死んだ人たちというのはまず思い違いや勘違いということがわからないままに信ずるところに殉じたわけである。
宗教を信仰する人なども超主観の世界に身を置いているわけだから、人の言葉というか、思想などはまず受け入れられない。
いや科学を信仰する人だって、実際は思い込みと勘違いの世界にいたりするわけです。それまで真理とされていたものが、100年後に誤解であったとされるのはよくあることであり、科学といって思い違いの例外ではありえない。
わたしは人間というのは、もともと不完全、すなわち不足していてちょうどいいと思うのがいちばん合っていると思うのです。それが現実ではないかと思うのです。
1つに満足できないというのはやはりおかしいと思います。仮にその1つがいろいろ不備・不十分であっても、いったんその1つを手にしたら、もうその1つに満足するしかないと思うのです。自然の摂理というものが想定できるとしたら、その摂理とは「もともと不足しているのだから、そして当の人間だって不完全性の表現なのだから、そこで満足しなさい」というものではないかと思うのです。「物」に支配される人、「物」に心を奪われる人というのは、どうしても「物」を偏愛し、「物」の完全性を求めてしまうと思うのです。だから、1つの「物」では満足できない。マニアという人が年代物を集められるだけ集める習癖というのも、「物」を神にまで崇めた結果です。「物」は当の人間が死んでもあり続けるわけですから、哀れなものです。「物」崇拝は悲劇です。そもそも「物」は壊れる運命にあります。朽ちる運命にあります。それなのに「物」ごときに永久性、完璧性を求めて止まない人たちはある意味勘違いの病です。
子どもたちが勉強するについても、この基本的なところはふまえていてほしいと思うのです。
勉強に完全求めては行けないということです。「理解する」ということでさえ、実はかなりに相対的なものです。相対的だから、つまり自分の理解するところがどこまで客観的なものといえるのか不安だからこそいろいろ問題を解いてみて、共通の認識を確認する必要があるわけです。
わたしは塾の先生ですから、つねにそのことを念頭に置いています。子どもたちが完全性の罠にはまることのないように気をつけています。
世間的な親というものは、とにかく心配なわけです。それは心の中に完全性への肯定がありその琴線に大手のパンフが見事に触れるということなのではないかと思います。
わたしから言わせれば愚かな行動です。完全に基づく行動は勘違いです。思い違いです。
塾というのは、大手のようにこれだけやれば完全などという嘘をつくのではなくて、不完全なのだけれども、相対的に合格可能性に一歩近づくという本当のところを自覚しなければならないと思うのです。すべて人間のやることですから不完全が前提です。だから親の方もそこのところは当然わかっていなければならない。しかし、世の親というのはそうではない。大手に群がる親というのはやはり完全性の罠に見事にはまった人たちであろう。「ないものを求めて」彷徨うのが、人の親ということなのか。自分の子ができないことで塾を転々とする一群の人たちがいる。いい加減に自分の子の現実というものを受け入れて、そこは日本人の苦手なプラス思考でなんとか子どもの将来を考えてもらいたいとは思うが、そういうことには思いも至らず、子のできないことを嘆いてばかりいては、真っ直ぐ育つものも育たない。子こそ迷惑な話ではないか。
まじめなのにできない子たちというのがいて、親が人並み以上に教育熱心なために、能力の限界を感じながら、学校でもいい子を装い、塾にもとにかく通うというのはやはり普通ではない。そう難しくもない方程式の文章題になす術を知らずにただ問題を眺めるだけという子が現実にはたくさんいます。そういう子というのが、熱心に塾に通ったからといって、親の願うようなトップ都立でも駒場クラスでも行けるようになることは決してないということです。
わたしは子どもたちにほんとうに「1つだけ」、その1つにこだわっていく人生を送ってほしいと思っています。1つだめならすぐ捨てて、代わりがいつでも用意できるというのは、完全性の罠にはまることです。完全性というのは理想です。現実ではありません。
わたしはそういう気持ちでいつもレジュメを作っています。子どもたちを指導しています。
竹の会