草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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くだらない人たち

2011年05月28日 21時41分01秒 | 
 日本の政治家というのは、実にくだらない人たちだと思います。今政局は菅降ろしでもちきりですが、日本というのは、だれかが首相となるともう完璧な人間でなければならないということで、すこしのミスも許さないという態度をとってみせる。この態度も実は見せかけなのですが。どうでもいいことを鬼の首を取ったように誇らしげに取り上げて国民そっちのけで大騒ぎをする。震災や原発事故で政治が一致して国民のために全力を尽くすということにはならない。だいたいこれまで50年の長きに渡って日本を原発漬けにしたあの自民党が福島の事故で何一つ謝罪も反省もすることもなく、原発における菅の対応が悪いと攻撃している。自民党はこれまで様々な負の遺産を遺して国民に見捨てられた政党である。自民党政権ならまず浜岡の停止などありえなかったことであろう。
 私たち国民は、実にくだらない人たちに日本の行く末を託してきました。民主党政権になったからといって実体は自民党とそれほど変わらないということに国民はもう気がつかなければならないと思います。私たちの不幸はほんとうに国を思う、国家を憂う政治家を持ち合わせていないということです。自民党はよく「・・・降ろし」というのをやりましたが、利権を犠牲にして国民の利益を優先するような正義の政策には必ずといってこの「・・・降ろし」が起きたものです。今度の菅降ろしもだれかの利権が害されるという危機感が裏にあるのは間違いありません。反対派が大義名分で言っている「もう菅ではだめだ」という理由は決して本当の理由ではありません。彼らはいつもその腹の内に自分たちの利権を守るという意思しかはたらいていないはずです。私たち国民は、反対派の本当のねらいを冷静に見極めなければならないでしょう。
 憲法が想定した三権分立制の理想から遠く乖離した日本の現状は、官僚支配による組織の空洞化が顕著で、政党は利権政策により理想の政治決定は不可能になっています。国民の与り知らぬところで政治主導の重要決定がなされ、多数派が官僚や企業、政治家に都合のいい法律を作り、予算を通して、税金をいいように使います。一端選挙が終わればもうやりたい放題です。次の選挙まではとにかく国民見殺しの利権政策優先です。
 さて、今日は「くだらない人たち」と題して書き始めたのですが、本当は、「ICRP(国際放射線防護委員会)の基準が『内部被曝』を考慮しない教条的な基準である」ということを書きたかったのです。そして、今も原発を推進しようとする動きが原発議員や産業界にまた蠢きつつあることに憤りを感じつつ、これほどの事故が進行していても全く懲りずに反省の欠片もない人たちが原発建設、原発運転へと突き動かそうとしていることになんとも腹立たしい思いです。自分の手の届かないところで自分や自分の子どもたちの運命が勝手に決められてしまうことの腹立たしさです。官僚が陰に隠れてやりたい放題をやる今の政治制度が決していいものであるわけはありません。どんなに政府が、学者が、役人が声高に「安全」と叫んでも、『事故は必ず起きる』ものだったのです。福島の事故は保安院が全く監視の役目を果たさず、東電のでたらめな管理を認めてきたことや東電のコスト優先・安全軽視の経営がもたらした当然の結果だったのですが、しかし、『事故は必ず起きる』ものだったのです。そして、一度事故が起きれば、それはもう取り返しのつかない被害になるということはわかっていたことなのです。国も県も「絶対安全」を根拠に福島の県民、子どもたちに何の事前の準備もしていませんでした。放射能は浴びるに任せて、何もしなかったのです。経済産業省・保安院こそまず謝罪すべきであった。企業と一体となって原発事故を起こしたのは誰の目から見ても明らかなことです。東電や御用学者は「想定外」と言いますが、想定しようがしまいが、「事故はいつか必ず起きる」ことはわかっていたことです。そして一端封じ込めることに失敗した場合は、夥しい数の命が失われ、地球環境の被害は計り知れないものとなるのです。原子力発電は本質的な欠陥発電です。それはどんな予想外の事実であっても一度事故を起こし核の封じ込めに失敗したときは人類の死滅を結果するからです。安全神話は権力的な安全粉飾です。実は未熟なテクノロジーしか持ち合わせていないのに、高度な科学技術を装い、あまりにも未熟な実体のない保安体制を誇張してきたのです。
 国の教条的な対応は早晩国民を見殺しにするという形で顕在化してくると思われます。日本の政府が依拠するICRP基準というのは、放射能の影響において、「内部被曝」というものを全く「ない」と前提するものです。だからこそ、あの枝野やそれをオウム返しに伝えるマスコミが、「直ちには健康に影響はない」という「まやかし」のことばが出てくるのです。
 原子力発電の推進のためには、内部被曝というものはあってはならないものでした。広島・長崎の原爆投下(上空600㍍)の現場から、放射性物質の量を最小に操作した科学的粉飾を施し、内部被曝はなかったという基準が作り上げられました。原発障害調査委員会は、初期放射線のみを被害を与えた放射線と断定し、それは爆心地から2㌔としたのです。そしてそれ以外にいた人を放射線を浴びていない非被爆者と定義したのです。これによって内部被曝は完全に放射線の被害から排除されました。そして2㌔以内の被爆者の被害は過小評価されました(ただし、放出線量は比較的高いものとして評価しています)。この被爆者に対する放射線量とその後調査された障害者の数などの検証結果を元に例の20ミリシーベルトなどの数値が出てきたわけです。
 注 初期放射線とは、上空600㍍の核分裂が行われた場所から放射された中性子とガンマ線を言います。
 こうして、ICRPは、被曝評価において内部被曝は「ない」としたのです。これで枝野が言った「直ちには健康に影響はない」の趣旨が、「内部被曝はない」ということだとわかります。内部被曝は、晩発性障害を引き起こしますから、「ただちに障害はない」というようにもとれますが、それどころか「内部被曝そのものをない」として否定していたのです。枝野は、チェルノブイリで今でも起きている晩発性障害という事実を無視して、原発推進者たちの作った「教条」を優先させたのです。
 福島の3機ともメルトダウンという事態はチェルノブイリをはるかに超える被害を予想させるほどに深刻なものです。学者によると、福島1機の原子炉の燃料棒のウランの量は、広島の原子爆弾1000個分にあたると言われています。そのウランがどろどろに溶け出して大気中に溢れようとしているのです。3号機の燃料にはプルトニウムを再利用したものが使われています。このまま東電はほとんど為す術もなく、水を注入するだけで毎日さしたる進展もないのです。最悪の場合は、福島からやがてすべての県民が逃げる日が来るかもしれません。
 私は、これほどに国会議員たちが「くだらない人たち」であったのか、保安院のような官僚たちが「くだらない人たち」であったのか、東大などの学者たちが「くだらない人たち」であったのか、そして東電の社長、副社長などが「くだらない人たち」であったのか、と慨嘆するほかありません。
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