おはようございます。 秋晴れの青空が広がっています。 10月も早下旬に差しかからんとしております。もう10日もすれば11月、実質的に力をつけられるのは11月までです。
12月からはそれまで、特に、8月までにみっちりと勉強した子が確実に伸びていきます。 12月以降の勉強はすでに完成した力を不動のものとするために確かめる、そういう月です。
竹の会では、課題レジュメは、11月までで終わります。以後は、それまでにやったレジュメをひたすら解き直すことに専念します。
課題をやらない、出さないという不作為、つまり先送り、回避は、結局自分の首をしめていくことになる、もう今更、やる時間はないということです。 やらないままに本番を迎える、やらなければ当然そうなることはわかっていた、しかし、本人にはそこまでの認識はなかった、いやあってもなぜかやろうとしなかったということでしょうか。
今年、桜修館に合格を期待されながらも、本番で点がとれなかった、つまりは解けなかった女子がいました。 おそらく彼女は今頃はどこかの公立中でトップクラスにあるのではないか。それほどに能力を伸ばした、天才でした。 だからわたしも合格を期待した。しかし、期待は飽くまで期待でしかなかった。 実は、わたしはその能力を認めながらも、一抹の懸念を、深く持たざるを得なかった。 それはレジュメの大半をやらないままに本番を迎えることになってしまった、というこの一点につきる。実は、他の受検者については、期待は淡い期待でしかなかった。なぜなら、レジュメの達成率は、20%もなかったからである。中には、作文を一度も書かなかったという猛者もいた。レジュメをやらなかった子が合格することはほとんどない。このとき富士に合格した子も実はレジュメ達成率はそれほどでもなかった。が、他の子よりはよく出したかもしれない。レジュメ達成率では、桜修館合格の女子は完璧であった。
レジュメ達成率は、課題レジュメだけで言うのではない。「推論」シリーズなどの難解なレジュメもふくめてのことだ。先の桜修館失敗の女子は、課題レジュメの達成率は、結局20%ほどであったが、難解推論シリーズはほとんどを「合格はんこ」でこなしてきた子であった。だからわたしは天才と言っている。
だからわたしは合格もありうると期待もした。しかし、期待は必ず裏切られる。 期待は飽くまで期待である。
26年には、3名受検したけれど、3名とも落ちた。このうち2名は早稲田進学会の模試の上位常連組であった。だからわたしは合格を期待した。しかし、試験直前にわたしの胸にどうしても消え去らない、不安があった。どうしても信用しきれない、何かがわたしの中にざわめいていたのだ。 わたしが今年桜修館に合格した女子に抱いた、揺るぎない信頼感がなかったのである。それは、普段の指導に表れていた。難解な推論シリーズではコンスタントに「合格はんこ」をとることなく終わってしまったこと、時間をかけて、つまりは書き出して答えを出すという姿勢から閃き、工夫ということに関心が薄かったこと、わたしの心の中にいろいろなわたしの思ったように進められなかった、なにか失望に近いものが渦巻いていたこと、そういうことなのかなと思う。
ずばり「合格する」と確信できない、何か、が渦巻いていた。 だから「期待」することしかできなかった。しかし、期待というのは、見事に裏切られるものだ、ということをわたしは知らしめられることとなった。
今年、富士に合格した子は、レジュメ達成率はそれほど高くはなかったけれど、秋にはとにかく出そうという姿勢は強く見られた。この子にわたしは実は「もしかしたら合格するかも」という閃きを感じた。それは、問題を解くのが、速いこと、だから問題をよく読まないで失敗することもよくあったけれど、とにかく速いこと、それから、問題の核心に答える、天性の勘というか、センスの良さを感じたからである。
こつこつまじめに勉強するのに、なかなか模試で結果を出せないという子がいるけれど、これは問題の核心を読み取るセンスに欠けるからではないかと思う。
まじめに考えただけでは点はとれない。閃きというか、センスが必要である。
正直、「推論」シリーズで、合格はんこをとりながら進められない子たちには、信頼をもつことはない。また、期待さえもできない。
ただ竹の会で足腰を徹底して鍛えられた子たちがどこまで通用するのか、という視点から、やってみる価値はあるのかと思う。「推論」で合格はんこがとれない子たちは、逆に、「単位あたりを鍛える」などの基本レジュメを何回も解き直しさせて、挑戦させてみたい気持ちは強い。どこまで通用するのか、である。大手に通う子たちが、基本を疎かにした、それほどでもないという実態を勘案すれば、合格も夢ではない、という気持ちにもなる。
12月からはそれまで、特に、8月までにみっちりと勉強した子が確実に伸びていきます。 12月以降の勉強はすでに完成した力を不動のものとするために確かめる、そういう月です。
竹の会では、課題レジュメは、11月までで終わります。以後は、それまでにやったレジュメをひたすら解き直すことに専念します。
課題をやらない、出さないという不作為、つまり先送り、回避は、結局自分の首をしめていくことになる、もう今更、やる時間はないということです。 やらないままに本番を迎える、やらなければ当然そうなることはわかっていた、しかし、本人にはそこまでの認識はなかった、いやあってもなぜかやろうとしなかったということでしょうか。
今年、桜修館に合格を期待されながらも、本番で点がとれなかった、つまりは解けなかった女子がいました。 おそらく彼女は今頃はどこかの公立中でトップクラスにあるのではないか。それほどに能力を伸ばした、天才でした。 だからわたしも合格を期待した。しかし、期待は飽くまで期待でしかなかった。 実は、わたしはその能力を認めながらも、一抹の懸念を、深く持たざるを得なかった。 それはレジュメの大半をやらないままに本番を迎えることになってしまった、というこの一点につきる。実は、他の受検者については、期待は淡い期待でしかなかった。なぜなら、レジュメの達成率は、20%もなかったからである。中には、作文を一度も書かなかったという猛者もいた。レジュメをやらなかった子が合格することはほとんどない。このとき富士に合格した子も実はレジュメ達成率はそれほどでもなかった。が、他の子よりはよく出したかもしれない。レジュメ達成率では、桜修館合格の女子は完璧であった。
レジュメ達成率は、課題レジュメだけで言うのではない。「推論」シリーズなどの難解なレジュメもふくめてのことだ。先の桜修館失敗の女子は、課題レジュメの達成率は、結局20%ほどであったが、難解推論シリーズはほとんどを「合格はんこ」でこなしてきた子であった。だからわたしは天才と言っている。
だからわたしは合格もありうると期待もした。しかし、期待は必ず裏切られる。 期待は飽くまで期待である。
26年には、3名受検したけれど、3名とも落ちた。このうち2名は早稲田進学会の模試の上位常連組であった。だからわたしは合格を期待した。しかし、試験直前にわたしの胸にどうしても消え去らない、不安があった。どうしても信用しきれない、何かがわたしの中にざわめいていたのだ。 わたしが今年桜修館に合格した女子に抱いた、揺るぎない信頼感がなかったのである。それは、普段の指導に表れていた。難解な推論シリーズではコンスタントに「合格はんこ」をとることなく終わってしまったこと、時間をかけて、つまりは書き出して答えを出すという姿勢から閃き、工夫ということに関心が薄かったこと、わたしの心の中にいろいろなわたしの思ったように進められなかった、なにか失望に近いものが渦巻いていたこと、そういうことなのかなと思う。
ずばり「合格する」と確信できない、何か、が渦巻いていた。 だから「期待」することしかできなかった。しかし、期待というのは、見事に裏切られるものだ、ということをわたしは知らしめられることとなった。
今年、富士に合格した子は、レジュメ達成率はそれほど高くはなかったけれど、秋にはとにかく出そうという姿勢は強く見られた。この子にわたしは実は「もしかしたら合格するかも」という閃きを感じた。それは、問題を解くのが、速いこと、だから問題をよく読まないで失敗することもよくあったけれど、とにかく速いこと、それから、問題の核心に答える、天性の勘というか、センスの良さを感じたからである。
こつこつまじめに勉強するのに、なかなか模試で結果を出せないという子がいるけれど、これは問題の核心を読み取るセンスに欠けるからではないかと思う。
まじめに考えただけでは点はとれない。閃きというか、センスが必要である。
正直、「推論」シリーズで、合格はんこをとりながら進められない子たちには、信頼をもつことはない。また、期待さえもできない。
ただ竹の会で足腰を徹底して鍛えられた子たちがどこまで通用するのか、という視点から、やってみる価値はあるのかと思う。「推論」で合格はんこがとれない子たちは、逆に、「単位あたりを鍛える」などの基本レジュメを何回も解き直しさせて、挑戦させてみたい気持ちは強い。どこまで通用するのか、である。大手に通う子たちが、基本を疎かにした、それほどでもないという実態を勘案すれば、合格も夢ではない、という気持ちにもなる。