ボクシングレヴュー

「TM」はタイトルマッチ、階級名につく「S」はスーパー、「L」はライトの略です。

「勇気」ということ

2001年07月04日 | その他
今から200年前、ボクサーがグローブをつけず素手で殴り合っていた時代。
ダニエル・メンドサという選手が、相手と真正面から打ち合わず、自分の
パンチを当てては離れるという戦法を見せた時、人々は彼を「卑怯者」と呼んだ。
しかし現在ではそれは、「アウトボクシング」という立派なファイトスタイル
として認められている。

「勇気」とは何だろうか。「何も恐れないこと」、そうかもしれない。
少し付け加えさせてもらうなら、僕はそれを「何者をも恐れず、己の信ずる
やり方を貫き通す強い精神力」と定義したい。

日本のボクシング界では未だに、戦争中の「特攻精神」が賛美される傾向にある。
力の差がありすぎる相手と闘った時、真正面からぶつかって玉砕すれば、
とりあえず「根性は見せた」と慰めてもらえる。しかし、それは本当に「勇気」
と呼べるものなのだろうか。

戦地においては、生き延びるために生き恥をさらすことも勇気なのではないか、
と想像することがある。愛する家族が祖国で待っている。それに、仮に戦争に
敗れた場合、戦後の復興に身を捧げることこそ「お国のため」なのではないか。

昨年の6月、WBC世界バンタム級王者、ウィラポンに挑んだ西岡利晃。
12ラウンドほとんど足を使って逃げていたように見えた彼に対して、
批判の声が多く上がった。確かに彼は、強い王者に対し何も出来なかった。
本人も試合中、どうにも埋められない力の差を感じていたに違いない。
そこで、KO負けを覚悟で打ち合いを挑んでいれば、彼に対する批判も
それほどなかったかもしれない。「勇敢に散った挑戦者」として。

しかし西岡はそれをしなかった。あえて恥をさらしてまで、12ラウンド
リングに立ち続ける道を選んだのだ。もちろん試合後の批判も覚悟した上で。
今日は勝てないが、次は勝ちたい。だからこそ、一分一秒でも長くリングに
立って、ウィラポンの強さの秘密を知りたい。同時に生き恥をさらすことで
自分の不甲斐なさを自分自身に刻み付け、「次」へのモチベーションにしたい。
そして次があるなら、ダメージは少ない方がいいに決まっている。

先日畑山隆則からベルトを奪って王座に返り咲いた、ジュリアン・ロルシー。
彼の試合ぶりにも僕は、「勇気」を感じた。ロープに詰まってガードを固めて、
あんなの挑戦者のボクシングではない、と言う人もいたが、あれは強打の畑山に
確実に勝つために、彼の陣営が考えに考えた戦術である。むしろあの一見消極的な
スタイルを、王者への声援ばかりの敵地で最後まで冷静さを失わずに遂行できた
ロルシーの強い精神力に、僕は拍手を贈りたい。

あのナジーム・ハメドに初めて黒星を与えた、マルコ・アントニオ・バレラ
もそうだ。あのディフェンシブなスタイルは、対ハメド用に相当前から準備して
いた作戦である。それをラスベガスという大舞台で、「打ち合いたい」という
ボクサーの本能を抑えながら実行することは、並大抵の精神力では出来ない。

恐らくボクサーにとっては、打ち合うよりも、打ち合うことを我慢することの
方が難しいだろう。しかし勝負というのは大抵、冷静さを失った方が負けるのだ。
結局ホリフィールドとの2戦に一度も勝てなかった、タイソンのように・・・。

「玉砕」とはすなわち、圧倒的な力の差を前に、自分の弱さを見るのに耐えら
れなくなった人間のすることである。それは勇気とは呼べない。
勇気のある人間はそんな時、それでも諦めずにわずかな勝機を信じて闘い続ける
か、次に力をつけて雪辱するために今回は五体満足な内に退くか、そのどちらか
の方法を選択するはずである。

誰に何を言われても、最後に勝てばいい。そしてその勝敗というのは、
実は戦った本人の心の中でしか決められないものなのだ。


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