ボクシングレヴュー

「TM」はタイトルマッチ、階級名につく「S」はスーパー、「L」はライトの略です。

WBA世界Sミドル級TM アンソニー・マンディンvs西澤ヨシノリ

2004年01月19日 | 海外試合(世界タイトル)
オーストラリアのウロンゴングという街で、
WBA世界スーパー・ミドル級タイトルマッチが行われた。
王者は地元オーストラリア出身でアボリジニーのアンソニー・マンディン。
そして挑戦者は同級15位、日本の西澤ヨシノリ。

38歳、42戦24勝(12KO)14敗5分。こんなボクサーが世界タイトルに
挑むこと自体、常識外れだ。しかし、そもそもこの男のボクサー人生そのものが、
実に波乱に満ちた「常識外れ」なものなのである。

ジムに入門してから18年という歳月を経ての世界初挑戦。体格的に日本人選手の
層が薄く、逆に欧米選手の層は厚いという中重量級では、世界挑戦のチャンスすら
そう簡単には巡ってこない。待つことに疲れ、志半ばで去っていったボクサーも
多いだろう。だが西澤は待ち続けた。東洋王座を獲ってからは、待つだけでなく
なりふり構わず自分から挑戦をアピールした。それでも周囲の目は冷たかった。
「この階級では、いや西澤では挑戦は難しい」それがほとんどのボクシングファンの
共通した認識だったはずだ。


実際のところ、ボクシングファンは年齢や戦績よりも、「今の実力」に注目する。
一時期負けが込んでいても、その敗戦をバネとして伸びていく選手もいるからだ。
遅咲きという点では25歳でボクシングを始めた輪島功一、負けが多いという点では
世界王座獲得までに11敗もしているガッツ石松という例もある。
ちなみに輪島は世界王座6度防衛に加え2度の返り咲き、石松は強豪揃いの
ライト級で5度の防衛と、いずれも名王者と呼んで差し支えない実績を作った。

西澤にはその実力面で、常に疑問符が付けられていた。層の薄いミドル級とはいえ
無敗のまま全日本新人王に輝いたところまでは良かったが、その後の8年間の戦績は
19戦して実に9敗3分(うち日本ミドル級タイトル挑戦に3度失敗)。
普通の選手ならこの時点で辞めていてもおかしくないが、その後キャリア11年目
にして悲願の日本王座を獲得。3度の防衛に成功するが、東洋王座挑戦は拙戦の末
判定負け。次戦では日本王座も奪われてしまう。

しぶとい西澤もさすがにここまでかと思われた。ここからのしぶとさは恐らく
誰も予想していなかったはずだ。何と日本王座を奪われた次の試合で、日本人と
しては初となる東洋太平洋スーパー・ミドル級王座を奪取。そのベルトを守ったり、
奪われてはまた獲り返したり、途中では1階級上の東洋太平洋ライト・ヘビー級王座に
挑んだり(判定負け)しながら、地道に世界ランクを上げていった。

しかし、世界ランクを上げることと、世界挑戦するにふさわしい実力者となると
いうことは、残念ながらボクシングの世界ではイコールではない。
試合終盤になると決まってスタミナ切れでクリンチを繰り返したり、ランク上は
明らかに格下の選手にもやっとのことで勝利を収める西澤の姿には、誰も
「世界挑戦者」のイメージを持てなかったし、「目標を世界に絞る」と言って
東洋王座を返上した時も、実際はタイトル戦で負けて世界ランクを落とすのが
怖いんだろう、などという声も聞かれた。

長らく「37歳定年制」を敷いてきた日本ボクシング界だが、最近になって
一部の特例を認めつつある。何らかの王座を保持していたことのある選手や、
近くタイトル戦を視野に入れている選手に対しては、年齢制限を緩和しているのだ。
西澤もそういった緩和対象に加えられていたわけだが、仮に東洋タイトル戦で
敗れて無冠となってしまった場合、その特例が失われて強制的に引退に追い込まれる
可能性もないとは言えない。それを恐れての返上とも考えられた。

とにもかくにも、こういった紆余曲折を経て決まった世界挑戦。かねてより
世界戦では惨敗続きの日本ボクシング界にとって、その挑戦は期待どころかむしろ
多くの非難を浴びた。結果が出る前から「日本の恥」とまで言われたのである。
そのことからも、これがいかに無謀な挑戦と映ったかは想像できるだろう。


圧倒的と言っても足りないぐらいの不利な予想の中では、敵地オーストラリアでの
挑戦ということさえ、今さら不安材料に挙げる人は皆無だった。その豪州人王者
マンディンにとっては母国での初防衛戦。世界王者としては決して一流とは
言えない彼だが、元ラグビー界の花形プレイヤーという知名度のためか、あるいは
彼の父親も世界挑戦したほどのボクサーだったという「血筋」のせいか、
オーストラリアではなかなかの人気を誇っているようだ。

なおこの試合は当然のように日本での地上波放送はなく、僕はスポーツ番組の
ダイジェストを見ただけだということを先に断っておきたい。

開始早々、実力差は明らかになる。何よりスピードが段違いだ。マンディンの
ジャブを易々ともらってしまう西澤。後にこれは「作戦」だったと分かるのだが・・・。
しかし西澤の集中力も凄まじい。さすがに長年の夢の舞台に立っているだけあって、
近年では最高の仕上がりを予感させる。打たれながらも前に出続け、ガードの
上からではあるが王者にパンチをいくつか見舞った。

もしこの試合を結果を知らずに見た人がいたとしたら、この時点で「あれ、
西澤結構やるな」と思ったかもしれない。そして続く第2ラウンド、間違いなく
誰もが予想しなかったであろう劇的な場面が訪れることになる。

マンディンをロープに追い詰めた次の瞬間、何と西澤がダウンを奪ったのである。
騒然とする場内。オーストラリアのマンディンファンも、西澤の戦績や年齢、
15位というランクの低さからして、チャンピオンは重圧のかかる初防衛戦の
相手に楽な挑戦者を選んだのだと思っていただろう。それがこの不安げな会場の
ムードにも表れていた。このダウンはレフェリーの裁定により「スリップ」扱いと
されてしまったが、今度はラウンド終了間際、スピードのある右ストレートを
後退する王者にヒットさせ、正真正銘のダウン!

これには逆に会場が沸いた。38歳のロートル挑戦者の予想以上の戦い振りに、
自然発生的に賞賛と驚きの感情が爆発したのだろう。敵地で極端に弱いと言われる
日本のボクサーが、その敵地のファンをここまで沸かせたことが近年あっただろうか。
いやそれ以前に、日本人挑戦者が敵地でダウンを奪った例がどれほどあっただろう。
しかもそのシーンを作ったのは、「日本の恥」とまで呼ばれた男なのだ。

序盤からマンディンのジャブを受けたことについて、西澤は「わざとおでこで
ジャブを受け、相手を油断させた」と試合後に語った。恐らく我々は忘れていた。
さしてパワーもスピードもスタミナもない、およそ欠点だらけだとさえ言える
西澤の数少ない武器の一つ、それがこの「戦略」の巧みさなのだ、ということを。
やはり過去の敗戦、苦戦は無駄ではなかったのだ。試合中に両方の拳を骨折した
こともある。スタミナが切れてバテバテになったこともある。その度に西澤は
必死に策を弄し、時には休むためにわざとスリップダウンしたことさえあるのだ。

考えてみれば、西澤にとって「楽な試合」などというのはこれまで一つもなかった
のかもしれない。そういった中でも自分に見切りをつけず、どんなに周りから罵声を
浴びようとも決して諦めることなく辿り着いた夢の世界戦。その大舞台で西澤が
演じた、一世一代の駆け引き。これまで西澤が積み重ねてきたものが、いかんなく
発揮された場面だったと言ってもいいだろう。

ただ、残念ながら西澤の見せ場はここまでだった。多分に油断もあったであろう
マンディンはここから奮起し、猛り狂ったような怒涛の攻めに転じた。ある意味では、
まるで王者らしからぬ強引で必死な攻撃だった。西澤も果敢に応戦するが、やはり
本来の実力差は埋めようがなく、5ラウンドに2度のダウンを奪われた時点で
レフェリーストップ、TKO負けとなった。

振り返ってみれば、スピード、パワー共に王者がはっきりと上回っての実力勝ちである。
しかし日本人が敗れた試合で、これほどまでに爽快感、痛快感を覚えたことはなかった。
負けは確定的と思われた年老いた挑戦者が王者からダウンを奪って見せた一瞬の夢、
そして痛烈にノックアウトされてリングを降りていく非情な現実とのコントラスト。
これはまさに映画の世界ではないか・・・。


西澤が、いつからかよく口にするようになった「Never Say Can’t
(出来ないと言うな)」という言葉。これまでのボクシング人生、とりわけ今回の
世界戦で西澤は、そのことを多くの人に体現してみせた。その意味では彼は勝者と言える。
そしてまた一方で、「予想通り」世界には手が届かなかったという厳しい現実もある。
その点においては、西澤は言うまでもなく敗者である。

しかしこの試合、結果だけを見て西澤を愚かだと笑う権利のある人間が、果たして
どれほどいるのだろうか。少なくとも僕は笑えない。僕自身、つい最近まで西澤を
軽んじてきた人間である。多くのボクシングファン同様、西澤が世界戦なんて
冗談じゃない、と思っていた。その人間の心までをも揺さぶったのである。

夢を口にするのはたやすく、また夢を見るのは楽しい。しかし実際に夢を叶えるために
前進すること、またそれ以上に、夢を見続けることがいかに困難であるか。そのことは、
少しでも真剣に「夢を見た」人間なら分かると思う。ましてや西澤は38歳のいい
大人である。いくら愚直な男でも、自分にいくらかの才能もないことは痛いほど
理解していたはずだ。それでもなお自分を信じ、前に進む努力を怠らないこと。
これは並大抵の人間に出来ることではない。言うまでもなく、このひたむきさこそが
西澤ヨシノリというボクサーの最大の武器だったのだ。


話はまだ終わらない。西澤は驚くべきことに(いや、もはや予想の範囲内であった
かもしれない)試合後すぐに再起を表明した。世間では大善戦と見られたあの
世界戦も、西澤にしてみれば「不完全燃焼だった」というのだ。こうなったらもう、
体に異常がない限りはとことんやってもらいたい。僕も今までのような斜に構えた
態度ではなく、心から彼を応援しようと思う。