一昨日から今日まで、東京・立川で日本集団災害医学会が開催中。
早いもので、今回で20回という記念の大会を迎えた。
JICA専門家として中米に派遣中の1回を除いて皆勤という、「旅の坊主」が軸足の一つを置いている学会。
阪神淡路大震災の記憶も鮮明だった1996年1月、神戸で産声をあげた。
当時は日本集団災害医療研究会という名称だった。
この機会に、ネット上に残っている記録を確認したのだが、
第1回総会は招待講演1題のほか演題数18。生まれたばかりの小さな学会だった。
ちなみに「旅の坊主」、第1回総会では「自衛隊の災害派遣の展望」の演題で報告している。
アブストラクトが残っているが、今読み返しても、
我が事ながら、まともなことを言っているではないか、と思える出来。
(今日でもまったく遜色なく通用するというのは、良いのか悪いのか、ではあるが……。)
(ご関心ある方、以下をご参照下さいませ)
http://square.umin.ac.jp/jadm/kaisi/abst1.htm#AB1_11
15年前、同じ立川で開催されたこともあった。
その時点で学会員約500名、総会参加者は約200名だったとのこと。
会員相互の顔が見え、活発な議論が展開されていた学会だった。
東日本大震災から4年が経過しようとしている今日、再び立川で学会が開催されたのだが、
学会員3000名超、参加者2000名超という、大きな学会に育っていた。
20年が経ち、若い会員も増えれば、オールドメンバーが相対的に少なくなくなるのも道理なのだろうが、
知らない顔ばかりになったなぁ、というのが偽らざるところ。
まぁ、若い世代が増えていること、世代交代が進んでいることは歓迎すべきこと。
当方にも「昔話をするようになっては終わりだ」とのプライドもある。
次世代が育っていることを素直に喜ぶようでなければならないのだろう。
それはそれとしても、どこかに違和感があった。その原因を考えている。
(これだ!という答えは、しばらく見つからないのでは、との予感はあるが……。)
東日本大震災があり、DMATの活躍に触発された方々も多いだろう。
訓練、研修、新しいデバイスの開発、南海トラフ巨大地震・首都直下地震等々、
新しい発表ネタは幾つもある。
隣接学会とのコラボという新しい取り組みも行われるようになった。
数年経てば、落ち着くところに落ち着いていくもの、なのかもしれない。しれないが……。
ただ……。
相変わらず医療人が中心であり、相変わらず災害対応が中心である。
どうやれば被害を減らせるのかという観点からの議論は少ない。
災害医療の世界だけでなく、周辺世界へと目線が広がりつつはあるのだろうが、
20年前以上からそれを実践してきた身としては、
複数の学会の者を集めれば「事足れり」「素晴らしい取り組みでした」とは言えない。
通訳者の不足というべきか、共通の話題を立て損なったというべきか、
お互い相手の世界を知らないがゆえに的外れな議論も出てくるのも当初はやむを得ないとしても、
ともかく「話が噛み合っていない」となる。
「○○と△△を組み合わせれば、こういう面白い結果が出るだろうに……」というのが、
見えているだけに、もどかしい。
で、考える。50歳を超えた者が果たすべき役割は何だろうか。
やはり、災害医療の世界が目指すべき方向性はなにかを、
具体的なものとして見せること、ということになるのだろう。
医療機関の立地の再検討、危険な場所にある施設の長期的計画立案による移転、
私人としての自分と医療人としての自分との社会的衝突をさけるための自宅の安全性確保、
医療人による耐震性確保のキャンペーン、
「災害時に医療機関に助けてもらいたかったら、災害時は医療機関を助けなさい」という
コンセプトの具体化、
等々。
やるべき課題はすでに幾つも見えている。
とすれば、それらをうまくまとめて、一つの物語として提示するようにすること、
それが50代を迎えた、業界23年目の者に求められること。
学会での議論を聞いていながら、そんなふうに思ったところ。
早いもので、今回で20回という記念の大会を迎えた。
JICA専門家として中米に派遣中の1回を除いて皆勤という、「旅の坊主」が軸足の一つを置いている学会。
阪神淡路大震災の記憶も鮮明だった1996年1月、神戸で産声をあげた。
当時は日本集団災害医療研究会という名称だった。
この機会に、ネット上に残っている記録を確認したのだが、
第1回総会は招待講演1題のほか演題数18。生まれたばかりの小さな学会だった。
ちなみに「旅の坊主」、第1回総会では「自衛隊の災害派遣の展望」の演題で報告している。
アブストラクトが残っているが、今読み返しても、
我が事ながら、まともなことを言っているではないか、と思える出来。
(今日でもまったく遜色なく通用するというのは、良いのか悪いのか、ではあるが……。)
(ご関心ある方、以下をご参照下さいませ)
http://square.umin.ac.jp/jadm/kaisi/abst1.htm#AB1_11
15年前、同じ立川で開催されたこともあった。
その時点で学会員約500名、総会参加者は約200名だったとのこと。
会員相互の顔が見え、活発な議論が展開されていた学会だった。
東日本大震災から4年が経過しようとしている今日、再び立川で学会が開催されたのだが、
学会員3000名超、参加者2000名超という、大きな学会に育っていた。
20年が経ち、若い会員も増えれば、オールドメンバーが相対的に少なくなくなるのも道理なのだろうが、
知らない顔ばかりになったなぁ、というのが偽らざるところ。
まぁ、若い世代が増えていること、世代交代が進んでいることは歓迎すべきこと。
当方にも「昔話をするようになっては終わりだ」とのプライドもある。
次世代が育っていることを素直に喜ぶようでなければならないのだろう。
それはそれとしても、どこかに違和感があった。その原因を考えている。
(これだ!という答えは、しばらく見つからないのでは、との予感はあるが……。)
東日本大震災があり、DMATの活躍に触発された方々も多いだろう。
訓練、研修、新しいデバイスの開発、南海トラフ巨大地震・首都直下地震等々、
新しい発表ネタは幾つもある。
隣接学会とのコラボという新しい取り組みも行われるようになった。
数年経てば、落ち着くところに落ち着いていくもの、なのかもしれない。しれないが……。
ただ……。
相変わらず医療人が中心であり、相変わらず災害対応が中心である。
どうやれば被害を減らせるのかという観点からの議論は少ない。
災害医療の世界だけでなく、周辺世界へと目線が広がりつつはあるのだろうが、
20年前以上からそれを実践してきた身としては、
複数の学会の者を集めれば「事足れり」「素晴らしい取り組みでした」とは言えない。
通訳者の不足というべきか、共通の話題を立て損なったというべきか、
お互い相手の世界を知らないがゆえに的外れな議論も出てくるのも当初はやむを得ないとしても、
ともかく「話が噛み合っていない」となる。
「○○と△△を組み合わせれば、こういう面白い結果が出るだろうに……」というのが、
見えているだけに、もどかしい。
で、考える。50歳を超えた者が果たすべき役割は何だろうか。
やはり、災害医療の世界が目指すべき方向性はなにかを、
具体的なものとして見せること、ということになるのだろう。
医療機関の立地の再検討、危険な場所にある施設の長期的計画立案による移転、
私人としての自分と医療人としての自分との社会的衝突をさけるための自宅の安全性確保、
医療人による耐震性確保のキャンペーン、
「災害時に医療機関に助けてもらいたかったら、災害時は医療機関を助けなさい」という
コンセプトの具体化、
等々。
やるべき課題はすでに幾つも見えている。
とすれば、それらをうまくまとめて、一つの物語として提示するようにすること、
それが50代を迎えた、業界23年目の者に求められること。
学会での議論を聞いていながら、そんなふうに思ったところ。