<南あわじ市>
「淡路島は日本の縮図」など申しますが、
古代淡路について妄想しておりますと、
阿波国の忌部氏のように、
突出したひとつの集団が、
この島を治めていたわけではなく、
たくさんの氏族が寄り集まって、
ひとつの国を造っていたのではないか、
というイメージが湧き上がってきます。
北は播磨、中央は紀伊・難波、
そして南は阿波と言った具合に、
各々の地域が近隣国と
綿密なつながりを持ちながら、
大和朝廷との緩衝材のような役目を
果たしていたのでしょう。
淡路島の古墳の形状や年代から見ても、
この地を支配していた有力な豪族は、
ほぼ存在しなかったとも言われております。
恐らく、淡路島という場所は、
天孫族が日本を治める過程の中で、
天皇に恭順した各地の部族や、
部族の代表らが集結した地であり、
それらの中には、多くの渡来系の
人々も混じっていたはずです。
そして、彼らが最終的に向かった国こそが、
お隣の「阿波」だったのでしょうか……。