<和気神社 わけじんじゃ>
昨日、津山市・中山神社の末社
「猿神社」に伝わる「生け贄」の伝承から、
この地の鉄を巡る歴史について考えてみました。
そこで気になるのが、生け贄を要求する中山神に対し、
東方からやってきた猟師が放ったという
「たくさんの犬」という文言です。
恐らくこれまでの流れを考えれば、
この「犬」というのは単なる猟犬ではなく、
「タタラ族の配下にいた者」という意味なのでしょう。
もしかするとそれらの人々は、
東の播磨国にいた「別部の犬」ともつながる集団であり、
この地の鉄事情を詳しく知る
「山師」だったのかもしれません。
ちなみに、以前のブログで
「播磨国の鉄を管理していた別部の犬たちは、
出雲の砂鉄に目を付けた和気氏の配下となり、
(金屋子神とともに)奥出雲の里へと派遣された……」
と推測しましたが、仮に播磨から来たとされる金屋子神が、
「生け贄」の習俗を要するタタラ民だったとすれば、
中山神社の猿神を退治した「犬(生け贄部族の敵)」と、
出雲に派遣された「犬(生け贄部族の配下)」を、
「別部の犬」として一括することがためらわれます。
となると、東から来た「犬」たちとは、
いったいどんな出自の人々だったのでしょうか……。