治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

和解と別れ

2010-12-27 08:00:00 | 日記
で、まあ栗林先生は公教育の方なので
頑張らない人も見捨てない。

公教育の目的って?
ききましたよ。民間人として、納税者としてね。

私はね、一部の特別支援教育が
「二次障害回避原理主義」になっているのを見てこれでいいのかよ、と思っているから。
読者からそういう声も聞くしね。

栗林先生はちょっと違うみたいだ。

でも栗林先生だって、大地君みたいな頑張りやさんだけ教えているわけじゃないからね。

そのへんの会話は「自閉っ子と未来への希望」に書いてあるけど
さすがーと思った。

で、なんで私が教師の世界と和解した(しつつある)かというと
こういう先生たちがちらほら出てきているからですね。
まだまだ数は少ないのかもしれないけど
将来を見据えている先生。

「続自閉っ子、こういう風にできてます!」で岩永先生に布陣に加わっていただいたとき
読後、メールをくださった教師の方がいました。

「今後花風社はレベルの高い人たち対象の仕事をしていくんだと思う。
色々叩かれるでしょうが、踏ん張ってやってください」

正直、そのときには何を言われているかわからなかったんです。
読者にレベル低いも高いもあるのかな、って。

花風社の本は、最初親御さんたちが読者層でしたね。
親御さんたちが読んで、「目からウロコ」って言って、先生たちに勧めてくれた。

最初の数年間はそうでした。
そしてその頃、保護者と教育現場では温度差があったと思う。

講演会行っても歴然とわかるくらい。
何しろ教育委員会の主催だって親御さんでいっぱい。
教師ちらほら。来ても居眠り。

そういう様子を見ていると
「保護者向けに作ったほうが売れる」って思うのは当たり前ですよね。
第一単純に計算しても
一人の自閉っ子には一人ないし二人の親がいて
支援級に居たって先生は数人に一人しかいないんだから
保護者の方たちが喜んでくれる本のほうが売れるでしょ。

その前提となっていたのは
「親と教師の間に対立構造がある」っていうことですね。

それがなくなってきているでしょ、近年。
講演会にも先生たちがいっぱいやってくるし、居眠りしない。

でも、代わりに違う対立構造が明るみに出てきましたね。

「自閉症って恥ずかしいの?」
「自閉症は恥ずかしくないよ」
「大地、自閉症は恥ずかしくないよ。恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」

このフレーズに奮い立つ人(多いですよ)と怖気づいたり、被害者意識を持つ人(これもまた多いらしいね、周囲にはいないけど)。

保護者とか教師とか関係なく、今その違いが私の目に見えています。

そしてね、小さい頃から「社会に送り出す」という視点で教育してきた親御さんたちは
しばしば周りから心ない突っ込みを受けてきたんですね。

「そんなに頑張らせると壊すわよ」とかね。
「○○なんて無駄よ」とかね。
「どうせ福祉が面倒みてくれるんだから」とか。

そう言われながら、支援者の助けも得られるとは限られない状況の中
自分の子どもをじっと見つめ、アセスメントして、少しずつ少しずつやってきたんですね。
カスタムメイドの療育を。個別性の強い障害で、対処方法も個別性が強く、
しばしば「エビデンスもないのに」と非難されながらね。

「どうしてよそんちのことに口出しするんだろう。自分ちの子に専念すればいいのに」
そう思いながら、つまんないこと言われても、自分の信念に基づいて教育してきたんですね。

そうすると、小さい頃には差がつかなかった発達段階が、もう中学生くらいになると歴然と差が出たりする。
IQ測定不能だった子が50を越える。
医者が「一生字が読めません」と断言していた子が作文を書き始める。
すると「頑張らせたらかわいそう」と言っていた親たちは、口もきかなくなるんだそうです。
やったかやらないか、その違いがあるのに。
自然発達以外の促進をしないという方法を選んだのは、自分たちだったのに。

頑張る親は、案外孤独だったりします。

こういうことがわりと日本中あちこちで起きているから、
今年花風社(大地君)が受けたわけのわからない言いがかりにも
「負けないで!」という声が多かったんですね。
「そんなに頑張らせてどうするの?」って突っ込まれていやな思いをしてきた人が多いから。

「どこにでもああいう人たちはいます。
自分の子は自分のやり方で育てればいい。でも人のうちの方針にまで口を出すのはお節介。
結果は子どもが出すでしょう。親としてその責任を引き受ければいいだけのこと」

こういう意見をよくいただきました。

私と意見の合うこういう方たちが、全体として少数か多数かは知りません。

ただ私は、この人たちの希望に沿った仕事をしていきます。

「自分でご飯が~」というフレーズに、ひるむ人ではなく励まされる人を応援する本を出します。

ところで「自分でご飯が食べられない」云々と言ったって
私がちゅん平の現状に大変喜んでいるのを見ればわかるとおり
私は福祉就労は否定していません。
いい制度だと思う。
とにかく「何かやること」があることが心身の安定をもたらす。

だから障害の重い人が福祉就労+年金で暮らしていくのはいいことだと思うし
だからこそ、私たち健康な人間が頑張らなきゃいけないと思う。お金回していかないとね。

でも大地君の場合には。

あれだけの能力がある子が、早期介入を受けて
大きくなって一人前の賃金を得られる仕事につけなかったら恥ずかしいです。

誰が恥ずかしいの? 大地君親子? 先生たち? それもあるけど
国が恥ずかしいです。
私も含めた日本の国が恥ずかしいです。

そしてそういう子は、大地君だけじゃない。

その人たちに向けて、メッセージを打ち出した本です。「ぼく、アスペルガーかもしれない。」は。
努力の必要性だけじゃなく、支援の必要性も含めてね。

ふだん花風社の本を「エピソード主義」とけなしている人が
どうしてあそこだけpersonallyに受け取って大騒ぎしたのかフシギで仕方ないんですけど。
他人のエピソードに過ぎないのなら、自分には関係のない話だと思えばいいだけの話でしょ。よそんちの話を好みの本を最近出さない出版社が出した、それだけ。

でもね、白くま母さんも考えたみたい。色々言われて、家族とか、周囲のお友だちと話し合ったみたい。
色々な障害があるお子さんをお持ちの親御さんたちとね。
もちろん重い知的障害のあるお子さんの親御さんも含めてね。

そして出した結論。

「大人になっても一人前の賃金が得られないことは、挑戦した結果なら恥ずかしくない。
でも親が最初から施設に入れるつもりで育てるのは、やっぱり親として恥ずかしいこと」

これが白くま母さんたちの結論です。
そして花風社はそれに賛同します。
賛同しない人がいるのは知っている。賛同しなくてもいい。それぞれ信じる道を行けばいい。

親御さんでも教育者でも
「社会に送り出す」という視点がある人とない人がいる。
そして花風社は「社会に送り出す」という視点がある人に向けて本を出します。

今まで私は安易に「社会適応」という言葉を使っていたけれど
その言葉だと一部の人にミスリーディングなようですね。

だから私はこれからは「社会に送り出すという視点」という言葉を使おうかなと思っています。

また新刊から抜粋しますね。

=====

 だって、社会はそこにただあって、個人を支配するものではないでしょう。社会は私たちが、日々形作っていくものです。
 だからといって、思い通りに行くわけじゃない。
 でもそれは、「社会がひどいところだ」と決め付ける理由にはなりません。
 様々な希望のパワーバランスが働く。だから、必ずしも希望どおりにはならない。でも、自分がそこに入っていって変えることはできるはずです。
 私が望んでいたのは、障害がある人もそこに参加することだったのです。

=====

教師でも支援者でも保護者でも、社会に送り出すという視点を持つ人たち。
その人たちに寄与する本を作りたいと思っています。

もしその分野にじゅうぶんな需要がなかったら、生まれて初めて専業主婦にでもなろうかな。
別に専業主婦という生き方は恥ずかしくないからね。



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