という題で議論提起のメールをいただきました。
個人情報を落として貼ります。
=====
創立22周年、おめでとうございます。
いつもすばらしい本をありがとうございます。
読む度に発見があり、勉強になることばかりです。
電子書籍『合理的配慮と発達保障』ありがとうございました。
『元刑事が見た発達障害』同様、大変勉強になる本でした。
ただ、私の中でどうしてもわからないことがあり、もしおかまいなかったら、何かの折にブログや書籍の中で話題として取り上げて頂けたらと思い、メール申し上げます(突然、申し訳ありません)
「HSP」等が話題になりましたが、近年保護者が自分の自己愛を満たすために、子どもを過剰に繊細であると主張したり、どう考えても、子どものためにならない配慮を要求したりするケースが増えているように思います。
(修学旅行で、家の子は繊細なので、他の子どもと同じホテルではなく、親と一緒に別のホテルに泊まらせてくれ等。
それって、修学旅行なんでしょうか?集団の中で、子どもの立ち位置が悪くなるって考えられないんでしょうか?
→私の勤務校は、保護者の主張を受け入れ、修学旅行中、別のホテルに親子が泊まることを許可しました。これは、浅見社長が仰る「支援者による接待」のように、私には思えます)
子ども達が(将来に向かって)良くなるための合理的配慮なら、いくらでも受け容れたいし、現場として行いたいと思います。
でもどう考えても、保護者(当事者)の自己満足でしかない(自己愛を満たすための)要求(行うことが、かえって子どもを辛い立場に追いやっていくもの)も、現実にはあると思います。
その二つは、どこで見分けていけば、よいのでしょうか。
合理的配慮を達成するための過渡期として、最大限の配慮(に対する主張)を受け容れ、合理的配慮が達成・精選されていくのを見守る方がいいのでしょうか。
一生懸命考えましたが、どうしてもわからず、もしおかまいなかったらヒントや示唆を頂けましたら、幸いです。
これからも、花風社の書籍や浅見社長のブログ・Twitter等を、楽しみにさせて頂いております。
ますますのご活躍、お祈り申し上げます。
お身体お気をつけください。
=====
私が瞬間的に思ったのは「それじゃあいかなきゃいいじゃん」でした。
修学旅行を欠席する人なんて世の中いっぱいいると思います。
実は私も、中学校の時修学旅行に行きたくありませんでした。
それは、HSPとかそういう理由じゃありません。当時私は一途に打ち込んでいたことがあり(アスリート方面)その練習を一週間も(私立で豪華な東北一周の旅でした)休むのがいやだったのです。
でも行くべきだ、となんとなく教師に言われ(この先生は小学校のときの先生と違って嫌いではありませんでした)、行くことにしました。
結果として、練習を一週間休んでも後悔しない思い出ができました。
行ってよかったと心から思います。
その後も東北には何度も行きましたけど、あのときの経験がベースになっているような気がします。
でも、自分が迷った経験から言って、たとえばアスリートの人とかその他打ち込んでいるものがある人とか、そういう人は行かないことも想像できるのです。
その間は欠席扱いになるのでしょう。それでも行かないことを選ぶ人はいると思います。
だから行きたくない人は行かなければいい、と単純に思ったのです。
でも独断は危険なので、いろいろな人の意見をきいたら勉強になりました。読者の方も著者の方もいます。
まずは読者の方。法令遵守でお仕事されている方。そういうお立場ですから、「そもそも修学旅行とはどういう取り決めか」を調べたそうです。そうすると「日常場面を離れた経験を積む」ためにあると定めがあるということ。ということは、親御さんがくっついていって、宿泊は親御さんと一緒に、というのはそもそもそれを遵守しないことになるというご指摘でした。
それからちゅん平さんの体験が興味深かったです。
ちゅん平さんは『合理的配慮と発達保障』にも書いたとおり、自分で合理的配慮を求めて玉砕してきた経験を持ちますが、そのときに親に学校と交渉してくれと頼んだことは一度もないそうです。すべて、自分にどういう合理的配慮(当時の名前は特別扱いでしたが)が必要かを割り出し、自分で交渉したとのこと。そして、頼んだのはもっぱら器質的な不具合への配慮(これがのちに生得的なものだと判明することになるわけですが)であり、「自分が悲しいから」等、心理的な配慮は一切求めなかったということでした。
そして読者の方(支援者の立場)から、合理的配慮は「他のあらゆる手段が使えないとわかったとき」に持ち出すものではないかというご指摘もありました。たしかに「宿泊は親御さんと」という極端な手段を使う前に過敏性に配慮しながらみんなと一緒に宿泊する方法を探ることはできそうです。
そして栗本さんから「本人不在である」という指摘がありました。これはつまり「本人の発達段階への目配りが不在である」ということです。私としてはこの指摘を受けて、「そもそも修学旅行で親と泊まりたい、そういうかたちで参加したいと言い出す子どもがいるだろうか?」という疑問が沸いてきました。
そして愛甲さんにききました。
愛甲さんは「親御さんの気持ちはきちんときいてあげないといけない」と言いました。けれどもそれは、えんえんと時間をかけて傾聴することではないそうです。よく学校の先生は何か要求してくる親に何時間も時間を割いてそれが誠実に対応したことの証であるかのように思いがちですが、きちんと時間を決めないといけないそうです。話を聴く時間の長さと専門職としての誠実さは別物だということでした。たしかに。
そしてその気持ちは受け止めた上で、でもできないことはできないと言わなくてはならないそうです。この場合だと、子どもの必要とする「合理的配慮」と親の心理的な要求は別物で、学校が応じなければいけないのは子どもへの合理的配慮だけである、ということははっきりさせないといけないそうです。
親の会の一部等にも感じますが、「社会にわかってもらいたい」という気持ちは時として親側の「無体な要求かもしれないけど、とにかく私の言うことを誰かにきいてほしい」という焦燥感の表れでありあまり合理的かそうじゃないかは検討されていないことがあります。そこを聞き入れてしまうと接待方面に行きがちですね。そして学校にとってはとりあえず目の前のベルトコンベアに載せることが優先事項であるように、親の人生も消化試合でいいのかもしれませんね。
『合理的配慮と発達保障』に書いたとおり、私は今の段階で自分「が」合理的配慮を定義するつもりはありません。それはこれからみんなで話し合って決めていくことだからです。
けれども電子書籍第一弾として出した書き下ろしがこういう議論を生んだことをよかったなと思っています。
合理的配慮と発達保障
絶賛発売中です!
*kindleアプリを無料でダウンロードすれば電子書籍はスマホでもタブレットでも読めます。
どこでも読めて、文字を好きな大きさにできて、検索も簡単。引用も簡単ですから人を説得するときにも便利です。
どうぞ読んでみてください!
個人情報を落として貼ります。
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創立22周年、おめでとうございます。
いつもすばらしい本をありがとうございます。
読む度に発見があり、勉強になることばかりです。
電子書籍『合理的配慮と発達保障』ありがとうございました。
『元刑事が見た発達障害』同様、大変勉強になる本でした。
ただ、私の中でどうしてもわからないことがあり、もしおかまいなかったら、何かの折にブログや書籍の中で話題として取り上げて頂けたらと思い、メール申し上げます(突然、申し訳ありません)
「HSP」等が話題になりましたが、近年保護者が自分の自己愛を満たすために、子どもを過剰に繊細であると主張したり、どう考えても、子どものためにならない配慮を要求したりするケースが増えているように思います。
(修学旅行で、家の子は繊細なので、他の子どもと同じホテルではなく、親と一緒に別のホテルに泊まらせてくれ等。
それって、修学旅行なんでしょうか?集団の中で、子どもの立ち位置が悪くなるって考えられないんでしょうか?
→私の勤務校は、保護者の主張を受け入れ、修学旅行中、別のホテルに親子が泊まることを許可しました。これは、浅見社長が仰る「支援者による接待」のように、私には思えます)
子ども達が(将来に向かって)良くなるための合理的配慮なら、いくらでも受け容れたいし、現場として行いたいと思います。
でもどう考えても、保護者(当事者)の自己満足でしかない(自己愛を満たすための)要求(行うことが、かえって子どもを辛い立場に追いやっていくもの)も、現実にはあると思います。
その二つは、どこで見分けていけば、よいのでしょうか。
合理的配慮を達成するための過渡期として、最大限の配慮(に対する主張)を受け容れ、合理的配慮が達成・精選されていくのを見守る方がいいのでしょうか。
一生懸命考えましたが、どうしてもわからず、もしおかまいなかったらヒントや示唆を頂けましたら、幸いです。
これからも、花風社の書籍や浅見社長のブログ・Twitter等を、楽しみにさせて頂いております。
ますますのご活躍、お祈り申し上げます。
お身体お気をつけください。
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私が瞬間的に思ったのは「それじゃあいかなきゃいいじゃん」でした。
修学旅行を欠席する人なんて世の中いっぱいいると思います。
実は私も、中学校の時修学旅行に行きたくありませんでした。
それは、HSPとかそういう理由じゃありません。当時私は一途に打ち込んでいたことがあり(アスリート方面)その練習を一週間も(私立で豪華な東北一周の旅でした)休むのがいやだったのです。
でも行くべきだ、となんとなく教師に言われ(この先生は小学校のときの先生と違って嫌いではありませんでした)、行くことにしました。
結果として、練習を一週間休んでも後悔しない思い出ができました。
行ってよかったと心から思います。
その後も東北には何度も行きましたけど、あのときの経験がベースになっているような気がします。
でも、自分が迷った経験から言って、たとえばアスリートの人とかその他打ち込んでいるものがある人とか、そういう人は行かないことも想像できるのです。
その間は欠席扱いになるのでしょう。それでも行かないことを選ぶ人はいると思います。
だから行きたくない人は行かなければいい、と単純に思ったのです。
でも独断は危険なので、いろいろな人の意見をきいたら勉強になりました。読者の方も著者の方もいます。
まずは読者の方。法令遵守でお仕事されている方。そういうお立場ですから、「そもそも修学旅行とはどういう取り決めか」を調べたそうです。そうすると「日常場面を離れた経験を積む」ためにあると定めがあるということ。ということは、親御さんがくっついていって、宿泊は親御さんと一緒に、というのはそもそもそれを遵守しないことになるというご指摘でした。
それからちゅん平さんの体験が興味深かったです。
ちゅん平さんは『合理的配慮と発達保障』にも書いたとおり、自分で合理的配慮を求めて玉砕してきた経験を持ちますが、そのときに親に学校と交渉してくれと頼んだことは一度もないそうです。すべて、自分にどういう合理的配慮(当時の名前は特別扱いでしたが)が必要かを割り出し、自分で交渉したとのこと。そして、頼んだのはもっぱら器質的な不具合への配慮(これがのちに生得的なものだと判明することになるわけですが)であり、「自分が悲しいから」等、心理的な配慮は一切求めなかったということでした。
そして読者の方(支援者の立場)から、合理的配慮は「他のあらゆる手段が使えないとわかったとき」に持ち出すものではないかというご指摘もありました。たしかに「宿泊は親御さんと」という極端な手段を使う前に過敏性に配慮しながらみんなと一緒に宿泊する方法を探ることはできそうです。
そして栗本さんから「本人不在である」という指摘がありました。これはつまり「本人の発達段階への目配りが不在である」ということです。私としてはこの指摘を受けて、「そもそも修学旅行で親と泊まりたい、そういうかたちで参加したいと言い出す子どもがいるだろうか?」という疑問が沸いてきました。
そして愛甲さんにききました。
愛甲さんは「親御さんの気持ちはきちんときいてあげないといけない」と言いました。けれどもそれは、えんえんと時間をかけて傾聴することではないそうです。よく学校の先生は何か要求してくる親に何時間も時間を割いてそれが誠実に対応したことの証であるかのように思いがちですが、きちんと時間を決めないといけないそうです。話を聴く時間の長さと専門職としての誠実さは別物だということでした。たしかに。
そしてその気持ちは受け止めた上で、でもできないことはできないと言わなくてはならないそうです。この場合だと、子どもの必要とする「合理的配慮」と親の心理的な要求は別物で、学校が応じなければいけないのは子どもへの合理的配慮だけである、ということははっきりさせないといけないそうです。
親の会の一部等にも感じますが、「社会にわかってもらいたい」という気持ちは時として親側の「無体な要求かもしれないけど、とにかく私の言うことを誰かにきいてほしい」という焦燥感の表れでありあまり合理的かそうじゃないかは検討されていないことがあります。そこを聞き入れてしまうと接待方面に行きがちですね。そして学校にとってはとりあえず目の前のベルトコンベアに載せることが優先事項であるように、親の人生も消化試合でいいのかもしれませんね。
『合理的配慮と発達保障』に書いたとおり、私は今の段階で自分「が」合理的配慮を定義するつもりはありません。それはこれからみんなで話し合って決めていくことだからです。
けれども電子書籍第一弾として出した書き下ろしがこういう議論を生んだことをよかったなと思っています。
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どうぞ読んでみてください!