世の中人手不足で小売りや飲食界隈では時給もぐんと上がって・・・という状況の中で、高機能の人を薬漬けにして就労支援で飼い殺しているギョーカイはどうしようもないね、と思います。私はよくギョーカイを潰すという物騒な言葉を使いますが、別にそれは彼らを物理的に攻撃することではなく、ギョーカイメジャーたちが推奨してきた
高機能の子でも手厚い支援の教育の場→福祉就労
というコースの危うさに気づいて早めに手を打つ人を増やすという意味です。そして身体アプローチ=言葉以前のアプローチがその大きな武器になります。
この前「おらが村のギョーカメジャー」という記事を書きましたが、そこにあるとおり「おらが村のえらいセンセイ」がいて「○○県はうらやましい」なんて言われてきた県では高機能のお子たちも手厚い支援から就労支援のコースをたどりがち。相撲協会じゃないなんとか協会のギョーカイ活動をしてなんとかセンセイの取り巻きになっている有力お母さんたちのお子さんはとくにそう。そしてきっと、それで「うまくいった」と思っていると思います。なぜなら・・・そうですよ。そこに入ってくるのは二次障害回避原理主義。一般企業に勤めると初任給十数万もらえて福利厚生もついてて福祉就労だと福利厚生はないし工賃は一万なんぼだけど「二次障害にならなくてよかった」と唇かみしめて負け惜しみを言うのです。そしてそんな中でたまに普通高校に挑戦させるお母さんが出てくると「二次障害ガー」と二次障害をなまはげに仕立てて騒ぎ立てて抜け駆け許すまじ! となるわけです。
っていうか本当に作業所で働いていると二次障害は治るのですか?
っていうか一般企業で働いていても二次障害にならない人はいないのですか?
だれもそこまでつっこまない。
突っ込むと自分たちがたどってきた道を否定することになってしまうからね。
私が言う「ギョーカイを潰す」とはこういうコースの危うさに気づいてギョーカイメジャーになんと言われようとすでに子どもをギョーカイ推奨ルートにのっけてしまったギョーカイ母さんたちにどんなことを言われようとそれが負け惜しみだと見抜き毅然として子どもの可能性を引き出し日本の人手不足解消に貢献できるような親子を増やすことなんですよ。
『発達障害、治るが勝ち!』から引用しておきましょう。
=====
たとえどんな才能を秘めていても、自分のところに来て低賃金で軽作業をしてくれて、ずっと就職しない発達障害者が自立支援の人にとっては一番「おいしい」という冷徹な事実。
このような制度のもと、発達障害者は本当に自立への道を歩けるのだろうか?
発達障害者支援が始まって十数年経った今、自分のもって生まれた才能や性質(資質)を存分に発揮して活躍している発達障害の人はいるのだろうか?
結論としては、いるのである。たしかに自分の資質を発揮して活躍している人たちはいるのである。
けれども、その人たちがそこに至ったのは支援の力だけではない。むしろ、「支援に見切りをつける力」も発揮してこそ、自立があり、社会参加がある。
支援に支えられた時期を経てきた人もいる。けれども、最終的には支援の限界を認めて、そこから先は自分なりの工夫を重ねた人の方が結局は自分らしい生を生きている。
そしてそれは当たり前ではないか。支援者側にとっては、自立しない発達障害当事者ほどありがたいのだから。
養鶏所のめんどりのように、ケージの中にとらわれて卵を産み続けてくれる存在こそが、支援者にとっては安定につながるのだから。
耳触りのよい「生涯にわたる支援」という言葉。
けれども「(一通りの身辺自立を果たしている高機能の人にさえ)生涯にわたる支援が必要だ」と説く支援者のもとでこそ自立は難しい。
むしろ、いつかは当事者を手放す気のある支援者こそが、本当はいい支援をしている。
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高機能の子でも手厚い支援の教育の場→福祉就労
というコースの危うさに気づいて早めに手を打つ人を増やすという意味です。そして身体アプローチ=言葉以前のアプローチがその大きな武器になります。
この前「おらが村のギョーカメジャー」という記事を書きましたが、そこにあるとおり「おらが村のえらいセンセイ」がいて「○○県はうらやましい」なんて言われてきた県では高機能のお子たちも手厚い支援から就労支援のコースをたどりがち。相撲協会じゃないなんとか協会のギョーカイ活動をしてなんとかセンセイの取り巻きになっている有力お母さんたちのお子さんはとくにそう。そしてきっと、それで「うまくいった」と思っていると思います。なぜなら・・・そうですよ。そこに入ってくるのは二次障害回避原理主義。一般企業に勤めると初任給十数万もらえて福利厚生もついてて福祉就労だと福利厚生はないし工賃は一万なんぼだけど「二次障害にならなくてよかった」と唇かみしめて負け惜しみを言うのです。そしてそんな中でたまに普通高校に挑戦させるお母さんが出てくると「二次障害ガー」と二次障害をなまはげに仕立てて騒ぎ立てて抜け駆け許すまじ! となるわけです。
っていうか本当に作業所で働いていると二次障害は治るのですか?
っていうか一般企業で働いていても二次障害にならない人はいないのですか?
だれもそこまでつっこまない。
突っ込むと自分たちがたどってきた道を否定することになってしまうからね。
私が言う「ギョーカイを潰す」とはこういうコースの危うさに気づいてギョーカイメジャーになんと言われようとすでに子どもをギョーカイ推奨ルートにのっけてしまったギョーカイ母さんたちにどんなことを言われようとそれが負け惜しみだと見抜き毅然として子どもの可能性を引き出し日本の人手不足解消に貢献できるような親子を増やすことなんですよ。
『発達障害、治るが勝ち!』から引用しておきましょう。
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たとえどんな才能を秘めていても、自分のところに来て低賃金で軽作業をしてくれて、ずっと就職しない発達障害者が自立支援の人にとっては一番「おいしい」という冷徹な事実。
このような制度のもと、発達障害者は本当に自立への道を歩けるのだろうか?
発達障害者支援が始まって十数年経った今、自分のもって生まれた才能や性質(資質)を存分に発揮して活躍している発達障害の人はいるのだろうか?
結論としては、いるのである。たしかに自分の資質を発揮して活躍している人たちはいるのである。
けれども、その人たちがそこに至ったのは支援の力だけではない。むしろ、「支援に見切りをつける力」も発揮してこそ、自立があり、社会参加がある。
支援に支えられた時期を経てきた人もいる。けれども、最終的には支援の限界を認めて、そこから先は自分なりの工夫を重ねた人の方が結局は自分らしい生を生きている。
そしてそれは当たり前ではないか。支援者側にとっては、自立しない発達障害当事者ほどありがたいのだから。
養鶏所のめんどりのように、ケージの中にとらわれて卵を産み続けてくれる存在こそが、支援者にとっては安定につながるのだから。
耳触りのよい「生涯にわたる支援」という言葉。
けれども「(一通りの身辺自立を果たしている高機能の人にさえ)生涯にわたる支援が必要だ」と説く支援者のもとでこそ自立は難しい。
むしろ、いつかは当事者を手放す気のある支援者こそが、本当はいい支援をしている。
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