治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

謎がちょっと解けた

2011-11-17 09:55:21 | 日記
さて、当事者を過小評価すると言えば
医療も教育もそうですよね。

学校現場に構造化が受け入れられないとか
絵カード等の代替コミュニケーションが受け入れられないとか
支援学校の高等部が学びの場ではなくデイケアみたいになってるとか
そういう嘆きはよく耳にしますが

それは「こうやればできる」っていうのを信じていない人が多くて
だから、私たちと同じようなやり方のちょっとレベルを落としたもので甘んじてて
「できない、できない」って信じているからっていう気がします。

医療が発達障害者を過小評価する。
これはしばしば感じます。
大地君自身もそういう目にあったし、それに対する反論は、新刊の中でしてますが

「もう一度自閉っ子に生まれたい」ニキさんでも、「残存能力で勝負する」と言っているのに
そもそも医療は残存能力させ使わせようとしない。
あくまでもあくまでも何もできない存在でいてほしいの? って思うことがあります。

その人の一生の面倒をみられるわけでもないのに不思議。
このブログでも繰り返し、そういう話が出ていますが
今や医療のそういう態度に不満を感じている人も結構多いんですよ。
よくなっていく人の中にはね。

そういう話を最近、ちゃんと治療意欲のあるドクターにしたら

「浅見さん、それは精神医療の歴史を知ると経緯がわかるよ」って教えてもらいました。

精神医療の歴史、知らないなあ、と思ってたんですが
先日ふと入った書店の新書コーナーにこの本を見つけました。



「精神医療に葬られた人々 ルポ 社会的入院」

著者は織田淳太郎氏。
この方の書いた「ある精神科医の試み」っていう本は感銘を受けながら読んだことがあります。
早速買って読んでみました。

ああ、なるほど、と思いましたよ。

この本は「ルポ」と銘打っているけれども
ルポ部分より説明部分のほうが長いです。

私のような素人にとっては、長い精神医療の歴史をコンパクトに教えてくれる本です。
これを手がかりに、色々資料に当たれそうです。

そして精神医療の(日本の、そして欧米の)を垣間見て見ると
なぜ医学が発達障害者に対し「残存能力を活かす」方向に向かわないのか

そして教育や福祉の現場もそれに巻き込まれているのか

わかったような気がします。

でもそれで、当人たちは幸せになってこなかったんですよね、精神医療の場では。
帯にあるように、入院40年とかね。
少しの支援で地域生活できて、自由な人間的な生活を送れる人たちが、家畜のように集団管理されてきた。
そしてそのままあの世に旅立っていく。

精神医療にこういうDNAがあるのなら
それに巻き込まれない方策を採る必要があるのでしょうね。
そういう生き方を、選ばない人にとっては。
残存能力で勝負したい人にとっては。

なぜ山岸の横暴に対して医療が無力だったのか

なぜ名大吉川は大地君にネット上でつまんない突っ込みをするのか(これに対しても大地君は新刊の中できっちり反論していますが)

要するにconventionalな医療の中で
彼らに悪気はなかったのかもしれませんね。
ただただ、ひたすらconventionalだっただけ。
従来の枠組みの中にいただけ。

そんなことをふと思いました。

☆☆☆☆

強いんですけど。

で、落ち着いているんですけど。

とは言っても
一筋縄ではいかないとは思いますが、信じて見守りましょう。

サッカーとか野球とかバレーボールとかやっているらしいですが
まったく興味ないですね、今は。

ひたすら次の新刊と、お相撲に専念する日々です。

次の新刊については、もう少し発表を控えます。
でもまあ、楽しみにしていただいて間違いはありません。
そういう内容であり、そういう著者です。