昨晩、キリスト教のラジオを聞いた。牧師と聞き手が語り合う。聖書のベルゼブル論争の一節からだった。
悪霊を追い出し、目も口もきけない者を治すイエスにファリサイ派が悪霊の親玉だから出来るんだ、と言うとイエスがムキになり、神性、聖霊がそうさせるのだから出来るんだとする。その二人の出演者達は、豪快というか、周りを気にしない軽妙でくだけた話しぶりで、型破りな牧師という設定に自ら成功していた。
私は、イエスのクレージーさに辟易しながらも、この二人の話に最初は興味深く聞いていた。しかし、教祖イエスを個人的にも持ち上げ、ヒーローのように盛り立てるやり口が、創価の池田大作を会員達が御本仏のように持ち上げる時の気色悪さと似たものを感じ取った。
キリスト教とは、イエスの人性と神性を見習い模倣する宗教だと何かの辞典で見た。イエスも三十代で十字架上で亡くなり、三十幾つの教祖の言説は、若々しさを感ずるものの、そこには人生の深みは無い。寧ろ深いと感じる場所があるとしたら、後世の文章の追加補ていした部分だろう。
若者受けし、人寄せするには聖書もキリスト教の教えも上手く人を騙せるが、その薄っぺらさが吾人の興味を失せさせる。仏教のような豊饒とした深みがそこにはなかった。
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