Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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悪意のない、幸福なウソ

2024年01月08日 21時53分29秒 | 人生訓・人生論・人の生き様・年末年始賀正・正月祝・祝誕生日・記念日・祝祭日旗日
悪意のない、幸福なウソ
April 11, 2016, 2:32 am≫ Next: 衆院解散総選挙≪ Previous: 春のラジオ新番組
 日蓮系の宗派、創価学会などでは、お経で一番初めに「方便品」を読む。
 「うそも方便」と言うが、その方便である。
 しかし、方便イコールうそ、という意味ではない。「方便」とは仮の教え、とか、手段、方法、さまざまな方法、といった意味だ。
 法華経では、火宅のたとえで、火が燃え盛る家で、子供達が知らずにその家の中で遊んでいるのを見るに見かねた人が、あらゆる嘘、玩具を用いて子供に興味を持たせて、その家から脱出させることに成功した、それは嘘には違いないが、その嘘に助けられて命が助かることもあると世尊(仏陀、釈迦)は説き、「弟子よ、この嘘は悪意のある嘘か、そうではないのか?」と説くと、弟子も、「それは確かに嘘の一つには違いませんが、尊い嘘というよりも真実です」という風に語り、めでたく話は終わる。
 うそにも、幸せな嘘、幸せに導く嘘というものがある。
 医学の世界では、「偽薬」と呼ばれる、実際には効能がないが、実際以上に効きめを表すものがある。
 仮の話だが、ある自転車屋に自分の鍵のかかったまま別の場所で鍵を無くしてしまった自転車を直そうと思い立ったとする。その家にはその日に限りあいにくの所、自家用車がなかった。電話をすると、一軒目の自転車屋には、そこもあいにく営業車がなく、直しに来られない。近日中に必ず車を手配して伺うという。
 二軒目の自転車屋に電話をすると、丁度ここは営業車があり、すぐに伺うという。「それでは」と約束をし、「さて」と思う。一軒目の自転車屋には何と釈明し言おうか。正直に新たに次の自転車屋を無事見つけた、というのは余りに無粋であり失礼である。ここはその一軒目には「あのう、鍵が見つかりましたので、失礼致しますがキャンセル願えませんか」と言えば、先方も「あー、良かったですね、それでは承りました。」ということになり、無事に済む。
 一軒目の店には、うそをついた事になるが、心を傷つけない為の、良心からのうそである。そこには打算や抜け駆け、悪意は微塵もない。
 こういう面で、仏教はとても柔軟でフレキシブルだ。お経にも「方便品」だとか、一面、幸せな気分のうそを賞賛しているとさえ思えるきらいがある。
 今まで体験してきた宗教で、一番頭が固く、融通の利かないと思えた宗教が、特に日本のキリスト教だ。絶対に杓子定規に、「うそ」は赦されない。それははっきりと「罪」だとされ、徹底的に否定され、頭ごなしに頑なにそうしないように仕向け、監督され、訓練づけられる。端から見ても恐ろしいほどに徹底していた。そこには、人間性などはひとかけらも無いと言っても過言では無い。駄目なものはダメなのだ。誰も逆らえない。誰も異議を唱えない。宗教に、神に「恐怖」で圧倒され、ただ苦痛に耐え忍ばねばならない。
 だから、創価学会の自由さ、人間主義の大らかさには非常に助けられ、感謝に堪(た)えない気持ちで一杯だ。西洋では4月馬鹿、エープリルフールなどがあるが、一年に一度であるが、日本のキリスト教はそれすら赦さない程の窮屈さ頑固さが目に付く。
 わたしは、日本で創価学会が信者人口で実証を示して国内キリスト教徒のそれを遥かに凌駕し上回るのは、人間性を無視するキリスト教が落ちぶれているのは、火を見るよりも明らか、当然の結果だと思うのだ。 

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