昨日、モミの木クリニックへ本当に久し振りに行き、コロナの検査を受けた。
すると、陽性、コロナです、と先生からは言われた。
私は、高熱が今の所も出ていて、これは、三十八度台の高熱のままなのだが、私は、コロナなんて、この世には敢えて、無いものだとも思い至っている。
いわゆる、達観、という奴である。
しかし、人にはうつし兼ねないので、本当に医師から勧められた通りに、五日間は外出を控える。確か、マスクは、自分が相手からウイルスを受け取るのは避けられないが、自分のウイルスはまき散らさなくて済む、というのは本当だかどうだか、判らないが、その関係で、五日目から十日目までは、マスク姿、となるのか。非常に情けなく、カッコ悪いなあ、とも自身忸怩たる思いである。
私のお寺の人にも、その事を私の事情を話すと、私はずっと、マスクはつけてなかったし、付けても、使いまわしの、カッコだけのマスク姿であり、それじゃあダメ、とは言われたが、あのマスクの、繊維の網の目のどこに、それら本当にウイルスを防げようというのだろうか。 その根本を私は問いたい。
だから、私は、これは、コロナという名の、悪い夏風邪なんだと思う事に今決めた!誰に何と言われようとも。
私も思い出してみて、高校を休学中の、1990年代、高二の時にも、私は駅前の映画館に入り、空気が十分換気がされずに、汚い空気だな、と判っていたのだが、その場に一時間余りいて、たまらずに出て来た。
その後に、私は今、と同じように、その時は四十度を超す高熱を出した。しかも、当時の我が家の体温計は、今は電子式が主流だが、その当時は水銀式の体温計で計ってもその温度だから大したものだと思う。
その時、母が手配してくれた、タクシーに乗り込み、当時、コスモス通りにあった、本宮医院という、主治医の所まで、母と運転手さんが私を抱えて、やっとの思いで担ぎ込まれた。
母は、思い切って、私が入院する事も覚悟したようだったが、現代のような熱下げ止め等は確か出さずに、茶色のあれは何て言う名前だろう、これも確か「ルゴール」のようなものをのどに塗って、ハイ、一丁上がりとばかりに、薬も極めて少なく出した。おそらく、せき止めすら出されなかった気がする。
母は、熱を出すのは、体が病気と戦っている証拠なので、冒頭の入院を望んだ話とは矛盾するが、熱下げ、せき止めの類いは要らない主義だったので、この医院を選んだ。しかし、今の時代は(その当時は)どこもパパみたいな交通事故の重傷にでもならないと、助けてはくれないのね、といつも私が入院出来ないのを悔やんでいた。(まあ、この時代の古い世代の母にとっては、熱冷ましせき止め薬すら認めない、現代だったら虐待で訴えられかねない、古風な人間だったと言うことだ)。
しっかりと、私の異常が見つかれば、親心から、何でもしてやりたい、そんな気丈で優しい母でもあった。
あの時は、私は自転車の旅に出ていて、北の南福島、松川などの、福島市方面へと、自転車旅行をして、その帰りに、疲れている、抵抗力がない所での、その悪い空気に触れてしまったのだった。
それだから、今とは違って、原因ははっきりとしている。しかし、私の今現代の様なそれを、「コロナ」などと大声で叫んでマスゴミ等が発表などは決してしてはいなかった。
あの頃のマスコミと、今のマスゴミとの、両者の間には乖離があるのだろう。
そういえば、私が初めて高二の留年が決まり、詰まりはその翌年にも、今度は、星ヶ丘病院に入院が初めて決まった時にも、私は高熱を出し、大病をした事がある。(やっと母の望んだ入院という形とはいえ悲しい話だが。余り今日の所は自分を責めたくはないので皆様許して欲しい)。
私はその頃は、男子校特有の手の付けられないヤンチャ坊主のようであり、少し暴力的でもあった。
それが、打って変わって、トイレに行くのも、壁伝いで、やっとこさ行く状況であり、私が、おむつは出来ないのか、と訴えると、そんな若い人で、おむつする人はいない、と看護婦さんに即、却下された。
とにかく、この時も、似たような、夏の高熱が出た、これを今でいえば、「コロナ」となり得るであろう。この時の私も、四十度近くの高熱だったのであるからして。
そして、私の他害の気分もやっと収まり、私は、その風邪によって、気分も収まり、性格も温和となり、その病室の仲間たちとも、非常にフレンドリーで仲良しになれたのである。
これを、私が同じ作業所で知り合った、J保さんは記憶力が非常に良くて、あの時wainai君は高熱出していたばい。僕らは皆で心配してたんだよ、と仰ってくれた。彼とはその後、日蓮正宗の件で話したい事が沢山あるから、今日はこの位にする。
本来ならば弱り目に祟り目であり、私の普段から人を見下した態度をなじられて、いじめられてもしょうがないのに皆さん何て良い方ばかりなんだろう、という御話しだ。
しばらく、私との面会謝絶が続き、うちの母は非常に心配していたようである。やっと母に会えるようになったのは、私の誕生日が過ぎた、九月間近かそれ以降の、今頃であった。
これなども、二年連続で私は、夏風邪の、高熱を四十度を超えて出していたのだ。これは、これすらも、その当時、悪い風邪が流行っている、とマスコミが報じれば、それがその時のマスコミは、まだかしこかったから、ちょうどバブル景気の時でもあり、日本が最も盛り上がっていた時であり、コロナなどとは、呼ばれなかった。
とにかく、私はどんなに高熱が続こうと、結果が出て、貴方はコロナ、の烙印を押されようが、私は正々堂々としたい。
ただ、うつしたらまずいので、訪看さんその他には、我が家に寄らないように、との打診だけは出している。
とにかく、私は、今は苦しいが、いつかは治るもの、そんなに騒ぎなさんな、と、気分も大きくおっぴろげて、他の人にはうつさないように、気を付けたいと思う。
以上。よしなに。wainai、長文失礼。