創価のニセ本尊は、筆を太くしたり伸ばしたり、脇書を消したりと、やりたい放題の魔の本尊だが、ある一点、どう隠しても隠しようのない一筆がある。
それは、日寛上人が記名花押を書かれた後、「奉書写之」という文字がある。
「之を書き写し奉る」とあるように、明らかに、大御本尊様を書写なされた証拠なのだ。
それを今の創価は色々理屈を付けて言い訳するが、まごう事なき、大御本尊様が根底にある。
現在の創価は、大御本尊を否定しているが、自身が日蓮正宗を母体として、そこから抜け出して来た事実は、いくら否定しても否定する事が出来ない。
日蓮正宗なしでは、自前の教義も本尊も用意できないような、欠陥宗教が今の創価だ。
数年前、私のお寺寿海寺で、今をときめく妙観講との合同折伏戦が行われたが、あの時、妙観講の皆さんは、創価と聞くと、こちら、日蓮正宗が上であり、創価は下、創価は教導を受ける立場の宗教と、はっきりと理解なされていた。
あの時のあの活発な妙観講の手際鮮やかな折伏手法は、学ぶべき点がたくさんあった。
非常に有意義な時間を過ごさせて頂いたと感謝している。