正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

「「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」ー麦キャンペーン始まるー大阪国際見本市の成功

2013-03-01 | 食事教育

「「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」日本市場開拓計画の立案―農協には注意せよ!―2」(2010.10.11)の続きです。

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」はもとNHK職員高嶋光氏が「NHK特集 「食卓のかげの星条旗ー米と小麦の戦後史ー」を制作し、これが好評で、本にしたものです。家の光協会から出版されましたが今は絶版です。

絶版は残念だと鈴木猛夫氏が本を書いた。それが「「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活」です。その概要が幕内先生のHPで投稿されています。

1.    学校給食と子どもの健康を考える会 | 連載

www8.ocn.ne.jp/~f-and-h/kyusyoku/.../serial.html -

鈴木 猛夫 ○. 1943年、東京出身。 食生活史研究家。和光商会代表。 「学校給食と子どもの健康を考える会」会員。 食生活に関する雑誌記者を経て講演、執筆活動。 主な著書に『アメリカ小麦戦略と日本人の食生活』。 日本人の体質に合った日本型栄養学の ...

そのNO21を転記します。

21.戦後行われた料理指導の実態

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.16」 鈴木猛夫

現在、日本は小麦、大豆、トウモロコシの9割以上をアメリカをはじめとする諸外国からの輸入に頼っていて、自給率を押し下げる大きな要因になっている。それら三品は戦後アメリカが最も諸外国に輸出したかった農産物であり、その最大の市場となったのが日本であるアメリカは様々な手段で日本への売込みに成功したが、日本側栄養関係者も大きな手助けをしたのである
 ご飯に味噌汁、漬物、魚貝類、海藻類、おやつはサツマイモなどという日本で産出される食材ばかりが消費されるような食生活ではアメリカ小麦戦略は決して成功しないわけで、何が何でもアメリカ産農産物であるパン用小麦、家畜飼料のトウモロコシや大豆カスなどが大量に消費されるような食生活こそ望ましかったのである。栄養学校ではパンや牛乳、肉類などの畜産物の優位性が声高に語られ、その線に沿った欧米型栄養学が教育され、近代的で望ましい食生活として国民にも積極的に勧められた。欧米型栄養学こそ正にアメリカ側も日本側栄養関係者も等しく日本で普及するのに望ましい栄養学だと考えたのである。栄養学校は正にそんな欧米流栄養学啓蒙の場であり、戦後の食生活を根本からおかしくさせた出発点ともいえる。
 パンの原料は小麦であり、牛乳、肉類、乳製品の元になるのは大豆カス、トウモロコシ等の家畜飼料、さらに油の原料となるのは大豆、トウモロコシである。この三品を日本ですんなり消費してもらうにはパンや畜産物、油脂類がいかに優れた食品であるかの啓蒙活動が必要であった。
 昭和26年、香川綾先生は大変なご苦労をされて女子栄養短大を創立させたが、その苦しい時に裏で資金面、精神面で大きく支えたのが31の食品会社、個人24人からなる後援会組織であった。後援会長は豊年製油社長、副会長に味の素社長、理事に日清製粉社長など有力者が並んだ。綾先生の自伝「栄養学と私の半生記」によると栄養短大設立までの過程は困難を極め絶望的なまでの状況であったという。そんな時、物心両面で支えてくれた後援会メンバーの暖かい支援にはこの上なく感謝の念が生まれたことであろう。何とか恩返しをしたいという気持が生まれても不思議はない。

戦後アメリカは日本の食品業界育成の為に大変な努力をした。中でも製粉会社、油脂会社、加工食品メーカーの育成には熱心だった。いずれもアメリカ農産物消費に大きく貢献する業界だったからである。それらの業界が綾先生の栄養学校設立に尽力したということは当時の情勢からみてアメリカ側の意向も働いたとみるのが妥当だ。アメリカ農産物消費に大きく貢献する栄養学校の設立はこの上なく頼もしい存在に見えたことであろう
 戦前まで「胚芽米4、野菜4、魚1、豆1」の日本型栄養学普及に尽力していた綾先生はこうして戦後は一転してパン、牛乳、肉類、乳製品、油脂類などを積極的に勧める欧米型栄養学の普及に全力をあげることになった。
 アメリカでPL480法案(前出)が成立し日本に対する本格的な小麦戦略が始まった昭和32年に綾先生はアメリカから招待され食物、栄養の教育関係機関、行政、施設などを研究視察している。アメリカはこの時期、PL480法案で捻出された膨大な対日工作資金を使って日本の栄養関係者、畜産関係者、食品メーカーを数多くアメリカに招き、パンや畜産物、油脂類が栄養的にいかに優れているかをアピールしている。
 当然日本の栄養行政にも反映されることになり、栄養学校を管轄する厚生省の意向が強く働いた栄養教育が行われた。アメリカ産農産物を大量に消費するのに都合の良い栄養学が見事に日本で定着し栄養改善運動は成功した。しかし今その弊害が欧米型疾患の蔓延、深刻化という状況となって随所に現れている。さらに食糧自給率は先進国中最低の4割にまで落ち込んでしまった。農林省などが地産地消運動等によって自給率向上を目指しているが、それには欧米型栄養学に頼る今の食生活の見直しから始めるべきではないだろうか。」

(詳しくは「学校給食と子どもの健康を考える会」を参照してください。)

鈴木先生のも影響を与えた「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」には何が書かれているのでしょう。

古書がないか検索して見ました。古書を買ったと言う記事も有りました。

「アメリカ小麦戦略―日本侵攻 (1979年) [古書] [-] 高嶋 光雪

中古品の出品:4¥ 6,500より」 定価1000円ですが、安いのを探して買うことにします。
楽天を見たら無料と言うのもありましたが、会員登録が必要です。会員登録しようと思いましたが、規約を見ているうちにメールがジャンジャン送られてきそうで中断しました。

「「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」小麦キャンペーン始まるー大阪国際見本市の成功」

「小麦キャンペーン始まる(97p)

大阪国際見本市の成功

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」小麦キャンペーン始まるー大阪国際見本市の成功
 アメリカの小麦市場開拓事業は、「もうかりまっか」の商都・大阪ではなばなしく幕を開けた。昭和31年4月8日、大阪国際見本市が、世界21カ国の参加を得てオープンしたのである。これはパリの国際見本市連盟の公認を受けた東洋で初めての見本市で、総費用は3億5000万円にのぼるとも言われた。開会式には東京からアリソン駐日アメリカ大使も駆けつけている。
 この会場の一画に、パンやクッキー、ビスケットなどの小麦製品をうず高く積み上げ、「おいしい栄養食アラーとパンをお土産にお持ち帰り下さいーー無料」と書いた看板をかかげているオレゴン小麦栽培連盟の展示コーナーがあった。この前年に来日したバウム氏は、ちょうど東京に準備にきていたアメリカ商務省の担当官から、この世紀の大展示会の開催を知らされていた。

この時、バウム氏は、「この祭典こそ、対日キャンペーンのデビューを飾る舞台にふさわしい」と心に決めていたのである。
 この見本会場には、バウム氏に替わって、彼の後輩の市場アナリストである。ジョー・スピルータ氏が、開催の2か月前から派遣されていた。スピルータ氏はこの直後に、オレゴン小麦栽培者連盟東京事務所の初代駐日代表となる人物である。バウム氏もオレゴンの小作農民たちも、この見本市のなりゆきをかたずを飲んで見守っていた。
 取材先のオレゴン州ペンドルトンで見せてもらった当時の連盟機関紙「オレゴン農民新聞」はこう報じている。

ー大成功をおさめた大阪見本市ー
 
オレゴン
小麦栽培者連盟はここに遂に、全く新しい海外市場開拓に踏み入った。
 アメリカ小麦の展示は大変な人気を集め、当連盟が用意した小麦製品を試食した日本人の数は数万人に上った。特に4月15日の日曜日は、無料の試食品をもらおうと殺到する観客を整理するために、100人もの警官が出動する有様であった。展示場では、パン焼きの実演も行われ、白衣をまとった3人の日本人技術者が連日、観客の前でロールパンや菓子パン、そしてホットケーキを焼きあげて見せた。
 アラーの展示コーナーでは、5人の栄養士が朝から晩までつきっきりで、この新しい栄養食アラーを使った調理演習を行った。この反応からすれば、日本政府の制限さえなくなれば、アラーの市場拡大は確実にできると思わせるものであった。(だが、アラー7は前日の通りの結果に終わったー筆者)
 こうして当連盟の展示場には、我々が当初予想した数字の倍以上も観客が群がった。この手ごたえは、日本こそ我々の小麦の最も有望な新市場と確信させるに十分なものであった。
 大阪見本市が成功したと言う知らせを、バウム氏はオレゴン州でなく、ワシントンで聞いた。この時、彼は初期事業計画の最終承認を求めてアメリカ農務省を訪れていた。
 「第一弾として打ち上げた観測気球アドバルーンは、大阪の空に高々と舞い上がった」
 バウム氏の報告にアメリカ農務省の関係者も意を強くしたに違いない。こうして、国際見本市は閉幕の4日後の4月26日、オレゴン小麦栽培者連盟を代表を代表するリチャード・バウム氏はアメリカ農務省と事業契約の調印を行った。さし当たり初年度分として40万ドル(当時の1億4400万円)の使用が認められた。
 バウム氏は、即座に東京にとんだ。アタッシュケースには、農務省から委託された40万ドルのPL480資金が詰まっていた。
 5か月ぶりに訪れた東京にはもう何の障壁もなかった。各団体との事業契約が立て続けに結ばれてゆく。
 昭和31年5月18日、バウム氏は日本食生活協会(厚生省所管)と6,840万円でキッチンカーの第一事業契約に調印する。あの松谷女史が見せてくれた写真はこの時移されたものであった。いまあらためて見直すと、握手するバウム氏らの背後に両者の橋渡し役となった大磯敏雄栄養課長のにこやかな顔もある。そしてその隣には、大阪国債見本市を現場でとりしきったばかりのジョー・スピルター氏も立っていた。
つづけてその一週間後の5月25日には、全国食生活改善協会(農林省所管)との間に、3,882万円製パン技術者講習会、2,244万円で生活改良普及員研修を行う旨の事業契約が締結された。こうしてアメリカ余剰小麦の販売代金は、アメリカ小麦の売り込み活動費に化けて行くのである。
 すでに彼らの対日活動は、オレゴン州からの遠隔操作では御しきれない段階に達していた。オレゴン小麦栽培者連盟の初めての海外事務所は、こうして東京・新橋の貸しビルに誕生する。初代の駐日代表は先に述べたジョー・スピルータ氏で、彼は兼務の極東支配人として東南アジア全体にも目を配る任務を与えられたのである。」

以上転記終わり 

次は何時になるかわかりませんがタイトルは

 「「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」小麦キャンペーン始まる―キッチンカーの出陣式」です。









 

 

 

 

 


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