「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」 赤坂のアメリカ小麦連合会(1)
元NHK職員高嶋光雪さん、NHKスペシャル「食卓の陰の星条旗」を作成され、それを本にされました。それが「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」です。家の光協会から発行されましたが絶版となっています。この本で戦後の日本の食がアメリカ利益追求戦略によって、日本の食がどの様に変えられたか勉強しています。
「食の歴史を学ぶ:「日本侵攻 アメリカ小麦戦略」ー(3)小麦が米を食う」の続きです。
「私たちの取材は、小麦輸入に関するすべての機関を訪ねて回ることから始まった。輸入小麦の買い付けを一手に握る農林水産省食糧庁。シカゴ相場をにらんで海外小麦を手当し食糧庁に入札方式で納める商社。食糧庁から払い下げを受けた原麦を小麦粉にして製パン・製めんなど二次加工業者に販売する製粉メーカー。そうしたさまざまな関係者と話しているうちに、一つの見知らぬ組織の存在が浮かび上がってきた。
アメリカ小麦連合会。ポートランドに本部を持つアメリカ西部小麦連合会が東京に設けた出先機関である。事務省は、駐日アメリカ大使館に近い東京・赤坂のビル8階にあった。入り口のパネルには「私達は日本の小麦産業に奉仕する全米小麦生産者の代表です」と書いてある。忙しそうに英文タイプを打つ日本女性が三人にて、その奥には駐日代表らしきアメリカ人の姿も見え隠れした。私達は、駐日次席代表の曽根康夫氏(63歳)のもとに案内された。
50年代の前半としか見えない精悍な紳士で、頭の回転も早そうである。この人物がアメリカ小麦を日本に売り込む立役者の一人であったとは知る由もない。あとで分かったことだが、曽根氏は戦後のGHQの公安畑で働き、のちには山梨県知事の直属通訳としてオネスとジョン事件の舞台でも活躍した経歴を持っていた。昭和35年に乞われてこの道に入って20年近い。この事務所の事実上の責任者であり、青嵐会議員の中尾栄一氏とも同郷の関係で親しいという。
「パネルにも書いてあるように、日米の小麦関係者の間をとりもつのが私達の役目です。今では商社や製粉業界などに小麦の情報サービスを提供するのが主な仕事になりましたが、以前は盛んな宣伝活動をやったものです。小麦市場を開拓するために、キッチン・カーをはじめ、全国パン祭りや学校給食の普及運動など数百の普及運動など数百のプロジェクトをここで進めてきました。活動資金ですか?それはアメリカ農務省から出たのです」
曽根氏は、意外なほどに淡々と語った。この年の6月、小麦産地のノース・ダコダ州で、「輸入大国・日本に感謝する夕べ」が開催された。曽根氏は食糧庁幹部や製粉・製パン業界の代表を引率してこれに参加し、帰国したばかりであった。1年に最低3回はアメリカに出向くという。「今回のパーティは、州知事が主催する盛大なものでした。州知事から食糧庁長官に、州旗がプレゼントされ、お返しに食糧庁からカブトが贈られました。私事ですが、日本の小麦貿易のかけ橋になったとして、私は感謝状を頂きました。大変名誉なことで、昨日も日清製粉の正田英三郎会長に報告してきました。製粉の社長さん方とはまた近いうちに会わねばなりません。麦価改定の米審がもう近いですからね」
私達と話す合間にも、曽根氏にはひっきりなしに電話が入る。氏はある時は日本語で、またある時は流暢な英語でこれをざばいていた。
「早いもので、連合会が活動を開始してもう20年以上もなりました。そう言えば、20周年を祝ったときのパンフレットがありますよ」
続く
元NHK職員高嶋光雪さん、NHKスペシャル「食卓の陰の星条旗」を作成され、それを本にされました。それが「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」です。家の光協会から発行されましたが絶版となっています。この本で戦後の日本の食がアメリカ利益追求戦略によって、日本の食がどの様に変えられたか勉強しています。
「食の歴史を学ぶ:「日本侵攻 アメリカ小麦戦略」ー(3)小麦が米を食う」の続きです。
「私たちの取材は、小麦輸入に関するすべての機関を訪ねて回ることから始まった。輸入小麦の買い付けを一手に握る農林水産省食糧庁。シカゴ相場をにらんで海外小麦を手当し食糧庁に入札方式で納める商社。食糧庁から払い下げを受けた原麦を小麦粉にして製パン・製めんなど二次加工業者に販売する製粉メーカー。そうしたさまざまな関係者と話しているうちに、一つの見知らぬ組織の存在が浮かび上がってきた。
アメリカ小麦連合会。ポートランドに本部を持つアメリカ西部小麦連合会が東京に設けた出先機関である。事務省は、駐日アメリカ大使館に近い東京・赤坂のビル8階にあった。入り口のパネルには「私達は日本の小麦産業に奉仕する全米小麦生産者の代表です」と書いてある。忙しそうに英文タイプを打つ日本女性が三人にて、その奥には駐日代表らしきアメリカ人の姿も見え隠れした。私達は、駐日次席代表の曽根康夫氏(63歳)のもとに案内された。
50年代の前半としか見えない精悍な紳士で、頭の回転も早そうである。この人物がアメリカ小麦を日本に売り込む立役者の一人であったとは知る由もない。あとで分かったことだが、曽根氏は戦後のGHQの公安畑で働き、のちには山梨県知事の直属通訳としてオネスとジョン事件の舞台でも活躍した経歴を持っていた。昭和35年に乞われてこの道に入って20年近い。この事務所の事実上の責任者であり、青嵐会議員の中尾栄一氏とも同郷の関係で親しいという。
「パネルにも書いてあるように、日米の小麦関係者の間をとりもつのが私達の役目です。今では商社や製粉業界などに小麦の情報サービスを提供するのが主な仕事になりましたが、以前は盛んな宣伝活動をやったものです。小麦市場を開拓するために、キッチン・カーをはじめ、全国パン祭りや学校給食の普及運動など数百の普及運動など数百のプロジェクトをここで進めてきました。活動資金ですか?それはアメリカ農務省から出たのです」
曽根氏は、意外なほどに淡々と語った。この年の6月、小麦産地のノース・ダコダ州で、「輸入大国・日本に感謝する夕べ」が開催された。曽根氏は食糧庁幹部や製粉・製パン業界の代表を引率してこれに参加し、帰国したばかりであった。1年に最低3回はアメリカに出向くという。「今回のパーティは、州知事が主催する盛大なものでした。州知事から食糧庁長官に、州旗がプレゼントされ、お返しに食糧庁からカブトが贈られました。私事ですが、日本の小麦貿易のかけ橋になったとして、私は感謝状を頂きました。大変名誉なことで、昨日も日清製粉の正田英三郎会長に報告してきました。製粉の社長さん方とはまた近いうちに会わねばなりません。麦価改定の米審がもう近いですからね」
私達と話す合間にも、曽根氏にはひっきりなしに電話が入る。氏はある時は日本語で、またある時は流暢な英語でこれをざばいていた。
「早いもので、連合会が活動を開始してもう20年以上もなりました。そう言えば、20周年を祝ったときのパンフレットがありますよ」
続く
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