江戸の離婚・三くだり半
●これでも三くだり半 字の書けない夫は線だけ。名前も書けない夫は、爪印(爪あとだけ)これでも離縁状として扱われたというが、離婚証明書にはならないね。
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武家の離婚・頼山陽の場合
江戸時代も重婚は禁止されていたから、結婚を解消して再婚する場合は手続きが必要だった。武士は幕府や藩にとどけるという手続きがあった。双方の家の思惑もからんで、結婚解消はかなり大変だが、意外に再婚は煩雑に行われていた。大名100家、旗本100家を対象とした2300人の武家女性を対象とした調査では、離婚率11.2%、離婚した女性の58.65%が再婚している。「貞女二夫にまみえず」の儒教のイデオロギーは、実態とはかけはなれている。
●頼山陽(らいさんよう:1781~1832)
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頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人であるが、結婚歴をふりかえってみよう。
大坂生まれ。父は儒学者、母は儒学者の娘の静子(号は梅颸:ばいし)。山陽11歳の時に父が広島藩に儒者として就職してその江戸藩邸に勤務。山陽は少年時代から学問に優れ、詩作にも才能があった。18歳で1年間、江戸の昌平坂学問所で学んだあと、広島に帰り、広島藩主の娘の淳子(じゅんこ:15歳)と20歳で結婚。かかりつけの医者の娘でもあり、父が決めた。双方婚礼の日まで互いの家に出入りしたことはなく、代理人が家を代表して上司に結婚の手続きをしている。
結婚して1年経った1800年9月、祖父の弟が亡くなり、山陽は父の実家の竹原へ弔問にいく途中、行方をくらませ、京都に行き、脱藩してしまった。
青年時代は優等生でなく、やんちゃタイプだったみたいね。11月に連れ戻されて、屋敷の座敷牢に幽閉される。脱藩した頃には、淳子は妊娠しており、翌1801年の正月に淳子の実家が新年の挨拶に来て淳子を連れ帰った。2月に実家から家僕がきて、母の梅颸に離婚届を出したと伝える。江戸詰めの父からも藩に離婚届を出した。
離婚した淳子は、実家で2月に長男を出産した。お産の準備は頼家で整え、生まれた子どもはその日のうちに駕篭で届けられた。子どもは頼家で乳母に育てられることになった。結婚のときに持ってきた嫁入り道具は、妻の特有財産なので、実家が引き取った。それ以外の金銭や田畑は夫の所有物となり返却されない。妻に過失がないのに離婚されるときは、妻方に返還されるが、返却されなかったのは淳子に過失があると頼家が判断したのだろう。
淳子は結婚当初から病気がちで床についていることが多く、母の梅颸の日記には「お淳はわがままで、何か気に入らないことがあると家僕を呼び寄せて泣く。山陽が学問の妨げになると机や書物を部屋の外に運ぶと、お淳は病人を見捨ててそばにいてくれないと文句を言う。実家の父は、それは私の妻の気質を受け継いだものだろうと取り合ってくれない」。
そういう家庭の事情は、結婚まで当事者を知ることもなく、結婚後もコミュニケーション不在で「家同士の結婚」が生み出した結婚ではあるあるだろう。淳子本人が望んだ結婚ではなく、未成年の結婚で夫が脱藩、座敷牢では心身を壊すだろう。
家同士の結婚は人生の墓場になる可能性大、武家の離婚が頻繁だったのはよくわかる。
山陽は1809年まで5年間も幽閉された後、頼家を廃嫡となる。山陽の息子もまた、1820年に19歳で結婚し、10カ月で離婚している。原因は不明であるが、妻が頻繁に実家に帰っていたので頼家が離婚届を出した。まずは「家」があり、結婚は嫡男といえど家のイベントみたいなものだ。
●梅颸(ばいし)日記
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山陽の母の梅颸は深くは考えない大坂女。頼家に嫁いでから58年も日記を書き、儒家の家政をずっと支えた。嫁ぐときに儒学者の父より贈られた和歌。「世の中に道より外は何事もすっぽらぽんのぽん」。儒家の嫁として守るべき道は守り、それ以外のことは思いつめずに(すっからかんで)生きなさい。
●見延典子「すっぽらぽんのぽん」
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頼山陽は、厳格な父に反発、脱藩、廃嫡、勘当と札付き息子で、在野の学者として京都を拠点に活動し、「日本外史」(国史の史書)は幕末から明治にかけて歴史書としては最も読まれ、尊王攘夷運動に影響を与えた。梅颸は病弱な山陽を抱えながら、主婦としての一家の生活、儒家としての行事や交際。その合間に歌を詠み、旅行を楽しんだ。人生うまくいった部類。父から言われたとおり生きて、57歳の時に夫が、73歳の時に息子の山陽に先立たれる。自身は84歳まで生きた。
●小説「頼山陽」や「すっぽらぽんのぽん」の著者、見延典子さん
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動画で解説「頼山陽」
(編集部注:頼山陽は、習志野市谷津の住民で2年前に亡くなった 頼 和太郎さんの先祖にあたります)
頼和太郎さんの訃報、東京新聞全国版に載りました - 住みたい習志野
庶民の離婚・三くだり半
「三くだり半・みくだりはん」(三行半、見下り半)というのは離縁状のこと。武士以外の身分が離婚するときに、夫から妻あてに書く(婿入りの場合も夫から妻に)。
妻からの離婚は認めてられないので、書かない(夫の専権離婚)。離婚する旨と再婚を許可するという両方が書かれてなければならない。重婚は重罪なので、離縁状という離婚証明書がなければ再婚できない。離縁状を受けてたしかに受け取ったという「返し一礼」なるものを妻から提出。この手続きで、二人は一切関係ない他人、離婚成立したといういうわけだ。宗門人別帳※に記載される。
※宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)については、前回の投稿をご参照ください。
Narashino gender 38 日本女性史koki版㉚ 近世Ⅹ 江戸時代の結婚、離婚。不義密通 - 住みたい習志野
三くだり半というのはどういうものか?
離縁状が「三くだり半」と呼ばれたのは、文書を3行半に書くという様式から、呼びならされたもので、ホンモノを画像でみてみよう。(古書店やメルカリなどでも入手できる)
●埼玉県立文書館所蔵 離縁状
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「因縁薄によって今離別候 自今以後 再縁・改嫁随意するへきこと/和十郎印/天保五年甲午七月/たみ江印」
和十郎さんから妻のたみさんへの三くだり半だね。事書(表題)はないが、「一札之事」「離縁状(之事)」「去状(之事)」「暇状(之事)」(「事」は私文書を表す)などが最初の行に書いてあることが多いが、なくても「離縁状」として通用する。
離婚の理由は「因縁薄」のたった3文字。「因縁」というのは物事の生じる原因という仏教用語だが、江戸時代では転じて「定められた運命」という意味で使われた。別れる運命にあった。ではなんで別れたのかは?だが、正直に書くことはないし、書かなくてもいい。理由の記載がないものが多い。
江戸時代の「手紙の書き方」の本には、離縁状の用例が載っていて、「不縁ニ付」、「家内不和合二付」、「勝手ニ付」、「熟談の上」などの用例がある。それでOKなのだ。別れる本当の理由、「姑との不仲につき」、「家業を怠ける」「態度が悪い」と書きたいところだが、書かない(女性が書かせない)。せいぜい、「不熟ニ付」と「不叶有寄心」。これは責任の所在をあやふやにするためかもね。たった3行半でも自筆だし、筆遣いなど、私は鑑賞して面白かった。
現在でも、「三くだり半」は退職届に慣行として残っている?上司に退職の相談に行くときに隠して携えていったり、会社から書けと言われて書いたり、民法上は口頭でもOKなんだけどね。以前、勤めていた会社の書庫に、退職届が段ボールいっぱい残っていて、昼休みに総務の女性と全部読んだことがある。ほとんど理由は「一身上の都合」、しかし約1割が退職理由は自己都合ではなく会社への不満で、それだけ紐(ひも)で括(くく)られていた。在職中の私たちは読んで、すごく納得したのを覚えている。
三くだり半は妻の退職届
夫が一方的に三くだり半を「つきつける」、三くだり半を「たたきつける」で、それを持って妻は泣く泣く実家に帰るというイメージだけど、嫁取り婚なので、離縁により家を出るのは妻なのは当たり前。離婚の多いことを女性の立場が弱かったと簡単に片づけるわけにはいかない。
最初に、17世紀末から18世紀初めにかけての宗門人別帳に記録された、日本の真ん中あたりの農村部の木曽の結婚実態を詳細に調べたレポート(総合的にみて平均的な結婚実態)によると、初婚同士の結婚年齢は男27歳,女21歳で、結婚継続期間は平均23年。結婚は夫婦いずれかの死亡か、離婚によって終わる。結婚継続期間は結婚終了の理由別によりずいぶん違いがある。夫・妻が同じ年に死亡→結婚継続43年、夫の死亡で結婚終了の場合の継続期間31年、妻の死亡→20年、離婚→4年。妻より夫の方が長生きしているのは、江戸時代(明治も)の女性の死亡が、出産時や産後期にこぶ状に突出して多いせいかも知れない。わずか4年で、離婚で結婚が途切れるのは、農家の存続の大きなリスクとなるから、再婚で補充した。結婚カップルでどちらかが再婚というのは半数以上(男で4割、女で3割)ある。
7割を占める農民が労働力としての子どもを確保するためには再婚しかない。離婚が煩雑にあったことと、再婚もごくふつうであるというのは、女性の辛抱が足りないとか、性観念が緩いとかそんな問題でもなさそうだ。
結婚経験者を「キズモノ」扱いして女性を傷つけていたら、再婚も結婚願望もなくなり、日本国江戸幕府は続かないのよ。江戸時代、女性はそんなに弱くなかったし、夫の言うことにいつも従っていたわけではない。江戸時代後期に晩婚化が進むのは、女性が少しずつ自立できてきたことが上げられる。
離婚をタブーとしない社会は、人生やりなおしを肯定することでもあるし、いいこと。 離婚は他にやりたいことがあるということ。お上や家や夫が決めた人生ではなく、自分の人生を生きたい。封建時代の女性の地位が最も低いとされる時代だって、現在の女性と同じ。今は結婚リスクを見越して、結婚しない女性が増えている。共白髪(ともしらが)になっても熟年離婚増加。「共白髪 父は憧れ 母は拒否」(2023サロンドプロ白髪川柳受賞作品)。
●大石内蔵助の「離縁状」
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大石内蔵助は討ち入りを決心し妻りく(理玖)との離婚を決意する。討ち入りの決心がバレないように離縁状そのものは書かず、りくの父(石束源五兵衛)あての手紙のなかに、離縁のことばを記す。討ち入り後を想定し、武士の身分を離れた人間として、将来、りくが再婚できるための配慮である。落語や講談になっている。
離縁状授受に関する刑罰が緩くなった
●国立国会図書館 公事方御定書(くじかたおさだめがき)
これまで触書中心の法を、中国の「明律(みんりつ)」を参考に将軍吉宗が15年もかけて成文法として自ら編纂した。非公開であったが、評定所(現在の最高裁)が裁判で使用するために写本を作成し、広まった。
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江戸時代は憲法はなかったが、法律上、庶民の離婚は、文書に書かれた離縁状が夫から妻に交付され、受理されることが必要だった。離婚法に関しては、1742年の八代将軍吉宗の「公事方御定書」(下巻)に大きな転換がおきる。
それまで、妻が離縁状を授受しないで再婚すると、密通と同じ重婚として処罰(ほぼ死罪)された。しかし、夫が離縁状を渡さないで、他の女と一緒になっても、一定期間の「入牢」、または追放と軽い刑罰ですんだ。
この離縁状の授受に対する刑罰は、緩くなった。離縁状がないというだけで、死罪なんておかしなハナシ。吉宗は刑が「死刑」、「追放」だけでなく、罪の重さに応じて減刑を加えて、更生という方向を示した。賄賂は逆に厳罰化した。享保の改革の一環だった。
●徳川吉宗(1684~1751)第8代将軍。家康のひ孫。江戸幕府中興の祖。TVでも数々のドラマの主人公になったので、デコレーションしてみました。
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離縁に関する法令は以下のとおり。
①離縁状を出さず、再婚したものは所払(ところばらい:追放)、
➁離縁状を取らず、他へ嫁ぐ女は、髪を剃って親元に帰し、取持ちをしたものは過料(罰金)→髪が元通りになれば(約3年)、再婚禁止期間が過ぎたと認められた。
③離別状のない女を縁付けた親元、引き取った者(事実婚の相手)は過料。
夫が離縁状を渡さないで、他の女と一緒になると追放(①)というのは変わらないが、女性への刑は明らかに軽くなり、男女の刑罰に大きな差異はみられなくなった。
将軍、大名クラスが、自分が大奥や妾などの放縦な男女関係でも、庶民が妾をもつことはよしとしない。しかし、夫にとっては、三くだり半は取り扱いがむずかしい。二股かけて三くだり半で後妻を迎えるために今の妻を離縁することなどは「不実離縁」という不名誉なこととされたし、妻は不実離縁されるなら、自分から縁を切る気概をもっていた。
離縁状の発行証明に証人はいない(現在の婚姻届は証人が必要)。離縁状は発行されれば、現物は妻の手中にある。離縁状がないと妻が再婚できないことばかり強調されるが、一方、夫が再婚で異議を唱えられたときは、別れた妻に離縁状で証明してもらわなければならない。イニシアティブは妻や妻の両親が持っている場合も多かった。婿養子が離婚するときは婿が離縁状を書いた。川柳に「去状を書くと入婿おん出され」とあるように、婿の場合は実質的に離婚権はない。
離縁状は先渡しもあった。離縁もやむなしと思われる不埒者、酒浸りのダメ亭主などは、なお引き続き不埒をすれば離縁すると、夫に離縁状を書かせ、妻が預かる。離縁状は男の権利だったかも知れないが、女たちは策を弄し、夫に離縁状を書かせたことも多かった。 江戸時代の庶民の離婚は、実態はさまざま。「追い出し婚」より「飛び出し婚」が多かったというのは本当かもしれないね。
●明治時代 妾に書いた離縁状
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明治時代になり、1871年に「戸籍法」が成立し、「三くだり半」の授受ではなく、戸籍登録の離婚が可能になったが、昭和の時代まで離縁状慣行が残っていた。
その多くが妾や内縁の妻あてに書かれたもので、拇印が押してあったり、なぜか収入印紙が貼ってあるのもある。
昭和になっても離縁状を手書きして、役所の窓口に持参した人もいたらしい。妾や内縁への離縁状は戸籍とは関係ないし、書いて人に見せたいのはわかる
けど、こんな離婚届のほうが前向き。
●「桜散る離婚届」(上)「氷の離婚届」(下) 最近はこんなデザイン離婚届も受け付けてくれる。3枚1セット¥1122(いい夫婦)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/cf/37c29708213045f29e398cf22443c926.jpg)
次回は「縁切寺」です。駆け込み寺とも言われます。現在ではシェルター? 寺が離婚調停までやった。私は、「アジール」(自由領域)と日本歴史との関係から考えてみたい。ちょっとハードルが高いなぁ(koki)
「ジェンダー」のブログ記事一覧-住みたい習志野
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