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建国とは何か?(2・11読者投稿PART1)

2024-02-11 21:46:18 | 歴史

(読者投稿です)

今日は「建国記念の日」、でもなぜ2月11日?

今日は「建国記念の日」。ひと昔前は、“紀元節奉祝派”、“紀元節復活絶対阻止派”に分れて、ひと騒動起きたものですが、昨今ではそういう話も、定時ニュースの終りにちょっと、「歳時記」的に取り上げられる程度になったようです。昭和も遠くなりにけり、ですね。

戦前の「紀元節」は「旧正月の日」と思われていたし、日にちも最初は1月29日だった

 ところで、なぜ紀元節、すなわち神話の中で神武天皇が即位したとされる日が2月11日なのかは、あまりよく知られていないようです。そこでまず、その話を記しておきましょう。

 「日本書紀」は、神武天皇が大和の橿原で初代天皇に即位した日は「辛酉年春正月、庚辰朔」(辛酉(しんゆう。かのととり)の年の正月で、庚辰(かのえたつ)の日。また朔(さく。新月の日)だった、としています。

明治政府は、明治5年太政官布告第342号で神武天皇の即位をもって「紀元元年」と定め、同第344号は来る明治6年の元旦を神武即位の日に相当するものとして、これを祝日にすることと定めました。ところが明治5年12月に旧暦から太陽暦への改暦が行われ、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることになります。これによって、予定されていた祝日は、新暦で明治6年1月29日ということになりました。

 この初めての紀元節は、実際に祝日となりました。ところが国民の間には、1月29日は旧暦の元旦(旧正月)だから祝日なのだろうとの誤解が広まったといいます。また宮中からは、翌1月30日が孝明天皇祭(孝明天皇の命日)なので不都合だとの声があがったそうです。そこで政府は新たに、神武天皇即位日を2月11日と定め直し、これを紀元節とすることにしました(明治6年太政官布告第344号)。しかし、どうやってこの日付を導き出したのか、その具体的な計算方法は今も明らかにされていません。

神武天皇が即位した「紀元節」は、本当に「2月11日」なのか? 最初は別の日だったのに、1年で変更された謎の経緯。(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 こうして2月11日は、いわゆる「国家神道」を支える重要な祭日となりました。また神武元年は西暦で紀元前660年のことだとされたことから、昭和15年(1940)には「皇紀2600年」の奉祝行事が展開され、戦時体制を確立していきました。こうしたことから、建国記念日反対の声が今も続いているわけです。

  ちなみに1957年以来自民党は「建国記念日」を制定しようとし、当時の社会党はこれに反対していましたが、1966年「建国記念日(建国した日)」ではなく、「建国記念日(建国した日ではなく、『建国された、という事象そのものを記念する日』)」に名前を変えて、どうにかこうにか成立させた、とのことです。

昔の日本は中国のまねばかり。「日本書紀」の作者が中国の「辛酉革命説」によって逆算したのが、神話の中の神武天皇即位の年

 ところでなぜ、神話の中の神武天皇が即位したのは西暦紀元前660年の2月11日と特定できたのでしょうか。

十干・十二支を組み合わせた「干支」は60年で一巡します。「辛酉(しんゆう)」も60年に一回巡って来るわけですが、古代中国の思想では「辛酉」の年は大変革が起きるとされていました。これを「辛酉革命説」というのですが、特に1260年に一度、辛酉の年には大革命が起るとされていました。干支が一巡する60年を「1元」とし、21元(1260年)目の「辛酉」になると大革命が起るとされたのです。養老4年(720)に成立した「日本書紀」の編集者は、「辛酉」だった推古天皇9年(601)を起点に、その1260年前である紀元前660年を導き出したのだと推測されています。

ではなぜ、推古天皇9年を起点にしたのでしょう。その間、斉明天皇7年(661)にも「辛酉」の年があったのに、「日本書記」はなぜ、もう一巡古い推古天皇9年から遡っていくことにしたのか。推古天皇9年にはどんなことが起きていたのでしょうか? 年表を見ると、推古天皇9年にはさほどの大事件は起きていません。しかし、聖徳太子が冠位十二階を制定したのは推古天皇11年(603)、十七条の憲法を制定したのは翌12年(604)ですから、「日本書紀」の編集者から見れば、推古天皇9年はこれから大きな変革を迎える「辛酉」だったと見えたのでしょう。

こうして、紀元前660年が神武天皇元年ということになりました。また神武天皇の即位は春正月で「庚辰」の日、また「朔」(新月の日)であったといいます。そこで紀元前660年の正月前後で庚辰の日を探してみたら、前年12月20日、当年2月11日、4月19日が該当し、この中から2月11日が選定されたのだろうといいます。

古代の神話ではなく、今の「日本国」の誕生日はいつ?

 ところで、「建国」とは何なのでしょうか。現代の我々にとって、古代の神話よりも、我々が暮らしている「日本国」の誕生日を祝う方がふさわしいような気がしますが、「日本国」が生れたのはいつなのでしょうか。

戦後憲法ができた日?サンフランシスコ条約発効の日?それとも明治憲法ができた日?

 ある方は、現行の日本国憲法が公布された昭和21年(1946)11月3日、あるいは施行された昭和22年(1947)5月3日(憲法記念日)こそ「日本国」誕生の日だろうと言います(当時の社会党の提案)。ある方は、その後、サンフランシスコ講和条約が発効し、国際社会に復帰した昭和27年(1952)4月28日がふさわしいと言います(創価学会池田大作氏の提案)。しかし私は、明治憲法が公布されて、日本に初めて「国家」が生れた明治22年(1889)2月11日も、決して忘れるべきではないと思うのです。

「国家」は法人。「国家」には「憲法」が不可欠

 「国家」というものは、株式会社と同じような「法人」だとされます(国家法人説)。この意味では、邪馬台国だの徳川幕府などというものは「国家」ではありません。そして会社には必ず根本規則である「定款」があるのと同様、「国家」には「憲法」が不可欠だとされます。憲法を定め、初めて日本に「国家」が生れたのは明治22年2月11日だったのです。もちろん、明治政府がこの日を選んだのは神武神話があったからでしょうが、言ってみれば、創業の祖が神武天皇。しかしずっと個人商店であったところ、明治22年になって初めて「国家」を設立して法人になった、ということでしょうね(なお、明治憲法の施行は明治23年(1890)11月29日でしたが、明治憲法下ではこれを特に「憲法記念日」として祝うことはありませんでした)。

現行憲法は明治憲法を「改正」した形になっているので、今の日本は「大日本帝国改め日本国」。「ジャニーズ改めスマイルアップ」みたいなもの

 ある方は、それは明治国家の誕生日であろう。現代の日本国の誕生日にはならないのではないか、と反論されるかも知れません。しかし法的・形式的には、現在の日本国は大日本帝国を承継したものなのです。大日本帝国が滅亡した後、新国家が樹立されたというわけではありません。

現行憲法の「上諭」を見ると、「朕󠄂は、日本国民の総意に基いて、新日本建󠄁設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮󠄁詢及󠄁び帝国憲󠄁法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲󠄁法の改正を裁可し、ここにこれを公󠄁布せしめる。」と書かれています。つまり現行憲法は、明治憲法を廃止して、無憲法状態の中から新憲法を制定したわけではなく、明治憲法を全文改正し、その指導原理も天皇主権から国民主権に改め、国号も「大日本帝国」から「大」の字と「帝」の字を削ったのですが、しかしあくまでも明治憲法を改正したものなのです。

(「憲法改正」を報じた当時のニュース映像)

会社で言えば定款変更したものであって、法人格は一貫しているのです。「大日本帝国改め日本国」ということですね。下記の通り明治憲法を「改正」したのが現行憲法なので、第1章が「天皇」であることなど、全体の構成も同じです。

 これは例えば、株式会社ジャニーズ事務所が株式会社スマイルアップに商号変更したようなものです。商号変更だけでなく、所属タレントのマネージメントを新設の会社に移管し、創業者一族は経営から手を引き、性加害事件の賠償・清算に専念するという一大改造をしたものの、法人格としては「ジャニーズ事務所改めスマイルアップ」です。

ドイツは「ナチス・ドイツが滅亡して出来た新国家」だが、日本は「大日本帝国改め日本国」なので、大日本帝国時代の負の遺産について「我々の知ったことではない」とは言えない

 なお、現代の日本が「大日本帝国改め日本国」であることは、戦前への回帰を意味するものではありません。ドイツ連邦共和国は、ナチス・ドイツが滅亡した後に出来た新国家ですから、ナチスの蛮行についても「それは我々がやったことではない」と言い得るのに対して、日本は「大日本帝国改め日本国」ですから、大日本帝国時代の負の遺産について「我々の知ったことではない」とは言い得ないのです。株式会社スマイルアップが、ジャニーズ事務所の負債を背負っていかなければならないのと同じことです。

 このように、国家という法人の法人格に注目すれば、明治22年2月11日こそ日本国(旧称・大日本帝国)が生れた日だということになるのです。この国家はその後、指導原理を民主主義に改め、国号も日本国と変更して、今日に至っているわけです。

明治憲法の下でも大正デモクラシーがあった。明治憲法が軍国主義を招いた、と言うより、昭和の軍人・政治家が明治憲法すら踏みにじって暴走したことが問題

 明治憲法を批判する方は、明治憲法が必然的に軍国主義を招いたように考える方が多いようですが、明治憲法の下で大正デモクラシーの時期もありました。また、不戦条約(1928)に加盟・批准して、大日本帝国も侵略戦争を放棄していた事実は見落とすべきではありません。軍国主義は明治憲法体制の必然ではなく、むしろ、昭和の軍人・政治家が明治憲法すら踏みにじり、不戦条約を無視していったからこそ、あの大戦争になったのではないか。国民がこうした憲法無視に無関心だったからこそ、その流れを防げなかったのではないかと私には思われるのです。「国家は法人なり」「天皇はその最高機関なり」という美濃部学説を「国賊の妄説」と糾弾した時、その暴走が始まったのでしょう。

現行憲法を法として守る覚悟がなければ明治憲法と同じ結果になるかも知れない

 こうした歴史にかんがみれば、戦争放棄・軍隊不保持を掲げる日本国憲法であっても、これを守ろうという意識がなければ不戦条約と同じことになってしまいます。憲法はお守りでも呪文でもありません。法として守る国民の覚悟がなければ、明治憲法と同じ結果になるかも知れない。これは日本国の誕生日を明治22年2月11日と考えたとき、初めて得られる視点なのではないでしょうか。

 

 日本国という「国家」の誕生日はいつなのか。これこそ2月11日が発している問いかけでしょう。

(追記)

辛酉革命説を紹介した古代中国の占い本に「廿一元爲一蔀 合千三百廿年」(21元をもって1蔀となし、合せて1320年)と、おかしなことが書いてあるのだそうです。干支が一巡する60年が「1元」なので、21元は1260年。ところが21元は1320年だという。そこで、1260年で計算するならば推古天皇9年の辛酉から、1320年で計算するならば斉明天皇7年の辛酉から遡って、紀元前660年が神武即位だ、ということになるのだそうです。

 

 

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