(NHK国際ニュースナビより)
アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ
アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ | NHK
両親がアウシュビッツの生き残りだという77歳のユダヤ人男性。50年以上パレスチナの人たちのために声を上げ続けています。その理由とは?
NHK NEWS WEB
両親がナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」を生き抜いたという、77歳のユダヤ人男性は、50年以上にわたってパレスチナの人たちのために声を上げ続けています。
その原点は建国まもないイスラエルで10歳の時に経験した、ある出来事にありました。
アウシュビッツから生還した両親
イスラエル出身のユダヤ人、ハイム・ブレシートさん(77)。
イギリスでパレスチナ人との連帯を掲げるユダヤ人団体の共同代表を務めています。
ブレシートさん
「1945年に入って戦況が不利になってくるとドイツ軍は父がいた収容所を閉鎖し、男性たちはオーストリアに連れて行かれました。それは『死の行進』と呼ばれ、約半数がその途中で亡くなったそうです。
オーストリアに到着した人たちは、ドイツ人自身が『地獄の中の地獄』と呼んでいた、恐ろしい場所に送られました。
そこで父たちは、馬よりも安く、馬よりも食べる量が少ないという理由で、裸のまま台車に縛り付けられ、その台車を押したり引いたりしていました。
仕事は過酷で食べ物も少なかったので、生き延びることは不可能でした。父は2月の初めに到着し、5月8日にアメリカ軍によって解放されましたが、解放されたときの体重は32キロでした。
骨と皮だけの、生きた屍のようになっていました。あと1、2週間続いていたら、父は亡くなっていたでしょう」
イスラエルでは「よそ者だと感じた」
1948年、イスラエルが建国。それに伴って、アラブ系の住民、パレスチナ人の多くがイスラエルによって住まいを追われました。
一方、ブレシートさん一家はこの年、イスラエルに渡り、テルアビブの南にある海沿いの町で新たな生活を始めたのです。
ブレシートさん
「そこに住んでいたユダヤ人は、強制収容所から来た人たちだけで、町全体が収容所からの難民、いわば“生存者”でした。あとは、イスラエルに土地を追われ難民となった『ナクバ(大惨事)』を生き延びたパレスチナ人たち。
そこは“生存者”の町だったのです。どちらも、大きなトラウマを抱えながら生き残った人たちでした」
ただ、ホロコーストを生き延びた人たちの多くは、ナチスと戦わなかった「弱者だ」とみなされることを恐れ、イスラエルではほとんど、過去の経験を語らなかったといいます。
「イスラエル人は生存者の話にとても鈍感で、耳を傾けようとしませんでした。それは私たち家族をイスラエルで孤立させることになりました。
私たちはヘブライ語を話し、イスラエル人でありたいと思いましたが、よそ者であると感じました。私たちは基本的に必要とされていない少数派でした」
忘れられない10歳の時の出来事
そんなブレシートさんにとって、今も忘れられない出来事があります。
当時一家が住んでいたのは、もともと、パレスチナ人が暮らしていた家でした。母親からは、いつもこう聞かされていたといいます。
ブレシートさん
「私が5歳か6歳の頃から『ここは私たちの家じゃない。あなたが赤ん坊の時に追い出されたパレスチナ人の家なの。いつか彼らは戻ってくるから、私たちは彼らにこの場所を返すのよ』と母は言っていました。
そして彼らが残していった荷物を全部まとめて、きれいに保管していました。
私はイタリアで生まれましたが、自分が住んでいたローマの家を覚えておらず、イスラエルの家が私が知っていた唯一の家だったので、非常にショックを受けたのを覚えています。
母の言っていることが理解できず、自分の家がなくなってしまうのではないかと心配していました」
ブレシートさんが10歳になったある日、明らかにアラブ人だとわかる女性2人と3人の子どもが路上から家の方を見ているのに気付き、母親に「彼らが帰ってきた」と伝えました。
ブレシートさん
「彼らに家の中を見てもらった後、母が『あなたたちが戻ってきた時のために全部取っておきました。荷物は全部ここにあります』と言って保管していた荷物を見せると、彼らは泣き始めました。
母親たちが泣いていたので、私と妹、3人のパレスチナ人の子どもたちもみんな泣いてしまいました。
年配の女性が私の母に『あなたはとても特別な女性です。私たちのものを守ってくれて、とても感動しています』と言いました。
私が10歳だったこの日は、おそらく私の人生で最も重要な日でした。
なぜなら、『この人たちは敵ではない、私や妹や父を殺したいわけではない』とわかったからです。
私たちイスラエル人が、この2人の女性と3人の子どもたちにしたこと、それこそがひどいことだということを理解したのです」
このとき、パレスチナ人の親子はガザ地区から数時間だけ出る許可がおりて、自分たちの家に戻ってきていました。
その日、一緒に食卓を囲んだ親子は「また戻ってくる」と言ってガザ地区に戻りました。しかし、再び家を訪ねてくることはありませんでした。
ブレシートさん
「ホロコーストは人道に対する恐ろしい犯罪です。私はそのことを一番よく知っていますが、誰かを傷つけることを正当化する目的では、決して使うべきではありません。
イスラエルは長年、ホロコーストという単語を、ガザで人々を殺すことを正当化するために利用しているのです」
広がるパレスチナ支持の声
ブレシートさんは通信兵として兵役に就いたものの、人を殺す可能性のある国にはいたくないとイギリスに渡りました。
その後、大学で教鞭をとりながら、50年以上、パレスチナの人たちを支援する活動を続けています。
ブレシートさんは10月7日以降、停戦を求める多くのデモにユダヤ人のメンバーと参加しています。
ブレシートさんは、パレスチナとイスラエルが共存できる未来への理解を、少しでも広げていきたいと考えています。
イスラエル情報機関元トップが語る「ハマスを怪物にしたのは?」
イスラエル情報機関元トップが語る「ハマスを怪物にしたのは?」 | NHK
ハマスせん滅を掲げるイスラエル。双方の犠牲者が増え続ける事態をどう収束させるのか。イスラエルの情報機関で長官を務めたアミ・アヤロン氏に話を聞いた。
NHK NEWS WEB
「ハマスとは軍事部門だけではなく、イデオロギーそのものでもある。イデオロギーは軍事力では破壊できない」
そう語るのは、イスラエルの情報機関で長官を務めたアミ・アヤロン氏です。
アヤロン氏から聞いたのは「現在の状況を招いたのは他ならぬイスラエル自身だ」という、意外な言葉でした。
話を聞いたのは
モサドと並ぶイスラエルの情報機関の1つで、国内情報を担当する「シンベト」の長官を務めたアミ・アヤロン氏です。
アヤロン氏はイスラエル海軍で指揮官などを歴任。その後、占領下においてきたパレスチナの抵抗運動に関する情報を一手に握るシンベトの長官を1996年から4年間、務めました。
2000年に退任した後は一転して、イスラエルとパレスチナの2国家共存による中東和平の必要性を強く訴えてきました。
これまでのガザ政策は間違いだった?
私は20年以上前にシンベトを去りましたが、多くの軍司令官、特にシンベトの長官はみな「ガザに対する政策は間違っている」と言い続けました。
間違った前提に基づいた政策であり、そもそもハマスの理論と戦略を理解していない人たちによる政策だったのです。
選挙で選ばれたのだから何をやってもいい、という考えに基づくもので、そうした政策は15年続きました。
「中東和平交渉の基本方針となってきた2国家共存の実現の阻止、イスラエルの隣にパレスチナ国家が誕生するのを阻止するためなら何でもする」という考え。
そのためには、パレスチナの人々を分断しなければなりませんでした。
この15年間、ネタニヤフ首相率いるイスラエル政府にとって、ハマスが支配するガザとパレスチナ自治政府のヨルダン川西岸を分断することは、非常に都合のいいことでした。
「パレスチナ人には統一した政府、指導部がない。だから、私たちは交渉することができない」
国際社会に対しても、国内向けにも「交渉したいのはやまやまだが、どうすればいいのか。話し合う相手がいない。話すことは何もない」と簡単に言うことができたのです。
しかし、これは完全に間違っています。
パレスチナの人々は自分たちを1つの民族とみなしています。よりよい経済やよりよい教育だけを求めているのではありません。自由を勝ち取り、占領が終わることを求めているのです。
ハマスとファタハをどんなに分断させようとも、少なくとも占領を終わらせるということに関して、彼らが分断されることはないのです。
首相はハマスを“怪物”と言ったが?
ハマスは怪物になりましたが、それはネタニヤフ首相の“助け”があったからです。
その意味で、ネタニヤフ首相に責任があります。そのことは、イスラエルの誰もが理解しています。
「ガザからハマスを一掃」できるのか?
ハマスとは軍事部門だけではなく、イデオロギーそのものでもあります。イデオロギーを破壊することはできません。
政治的、イデオロギー的な組織であるハマス、そして多くのパレスチナ人が支持しているハマスを打ち負かすには、人々によりよい選択肢を提示するしかありません。
よりよい選択肢とは?
ハマスと戦う唯一の方法は、2つの国家という政治的地平をパレスチナ人に提示することだと思います。
国際決議に従って、イスラエルの隣に国家を持ち、2つの民族のための2つの国家を実現するのです。
1990年代、パレスチナ人の80%がオスロ合意を受け入れていました。
それは「シオニズム運動に賛同した」ということではなく、パレスチナ人はパレスチナ人の国家を望んでいた、占領が終わる日を待ち望んでいたということなのです。
私たちは今こそ、イスラエルとパレスチナという、2国家共存を実現させなければならないのです。
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