能登地震、余震が続く中で「原発事故が心配」という懸念が広がっています。そんな中、住民の反対運動で建設計画が白紙になった珠洲原発。「もし建設されていたら、今度の地震で北陸は福島以上の放射能汚染に苦しんだかも知れない」と、改めて反対運動が見直されています。
珠洲原発反対運動の歴史
珠洲原発反対運動の歴史(簡略版)
本ページは『石川県教組珠洲支部50年誌 いばらの歩み』(発行:珠洲支部)より引用してあります元の文章も「珠洲たの」管理人が作成したので、著作権は大丈夫です(^^;) 珠洲...
珠洲たのしい授業の会
珠洲原発反対連絡協議会の発足
1978年3月25日,珠洲原発に反対する3者(地区労,日本社会党珠洲総支部,新しい珠洲を考える会)が連携して原発反対運動を強力に推進するために,「珠洲原発反対連絡協議会(通称:反連協)」を発足する設立総会を開催した。そして,講演会のチラシ配布や,立て看板の設置,立地地区住民や漁民との対話,関係機関に対する要望・申し入れなどの事業方針を決定した。
反連協の役員は,発足当初は11名であり,珠洲支部からも1名加わっている。役員は徐々にふえていき,1997年度は27名で,そのうち珠洲支部の組合員が7人,教組OBが2人入り,反連協の運動を担っている。
原発静観・石炭火力推進
1979年3月28日,アメリカのスリーマイル島原発の大事故が発生。原発が思うように進まないと見た黒瀬市長は,1979年12月,突如,火力発電所の誘致を提起した。原発推進の“つなぎ”に打ち出したものだが,黒瀬市長は,個人的負債が政治問題化して辞職し,市長選挙となった。
1981年4月,敦賀原発の放射能漏れ事故による反原発意識の高まる中で,市長選挙が行われた。反連協は,珠洲原発・石炭火電による珠洲エネルギー基地化に反対し,会長の河岸二三氏を珠洲地区労・社会党の推薦で擁立してたたかい,5246票を得る善戦をした。当選した谷又三郎氏は,原発反対票が多いことから,就任後「原発静観,石炭火電推進」を表明した。
1982年6月から1年間,北電と電源開発公社の共同で,石炭火電の立地可能性調査が行われた。しかし,1983年6月9日,建設コストが高くつき,困難だとする調査報告書が出され,珠洲市は石炭火電を断念せざるを得なくなった。
再び原発推進
1983年12月16日,市議会で,谷市長は「市民の理解と認識が深まった。原発を積極的に推進する」と表明した。その結果,1984年3月5日,電力3社は,珠洲原発の立地調査の現地入りを申し入れ,4月1日,北陸電力珠洲営業所内に「珠洲電源開発協議会」の事務所を開設した。
反連協は,珠洲原発が再び動き出したことに対し,市長や珠洲電源開発協議会に抗議の申し入れをし,街頭ビラを配り,愚安亭遊佐ひとり芝居,映画『海盗り』上映,議会傍聴などを行った。
この間,珠洲支部は,青年部を中心に原発の学習会やビラ配りなどをしながら,反原発の意志固めをしていった。1984年度の青年部定期大会議案書には,そのときの模様が次のように書かれている。
1 1月24日(土),肌寒い中,常任委員が寺家方面と高屋方面の二手に分かれて,反原発のビラを一戸一戸配って歩いた。原発建設候補地であり,賛成派が多いという情勢の中で,全員緊張した表情で配って回った。
林市長の登場とチェルノブイリ原発事故
1986年4月の市長選挙に向け,候補者擁立を模索していた社会党・地区労は,残念ながら擁立を見送った。
4月14日の市長選挙で無投票当選した林幹人氏は,「過疎脱却を目指して電源立地を真剣にとりくむ」と明言し,就任早々,高屋・寺家へ話し合いに入った。また,1986年3月議会 では,1986年度の電源立地推進予算として,3841万1000円という,前年度よりも大幅増の予算を計上した。
1986年4月26日,ソ連のチェルノブイリ原発で,史上最悪の大事故が起こった。反連協は,6月10日,市長・電源開発協議会に,「原発の安全神話は崩れた。原発は即時中止せよ」と申し入れた。
しかし,市当局は,チェルノブイリ原発事故の被害の甚大さを掌握しようともせず,申し入れの4日後の6月14日,市議会で原発誘致決議をするという暴挙に出た。チェルノブイリ原発事故のあと,世界中が脱原発・反原発に向かって動き出したのに,珠洲市は原発推進を止めず,世界の潮流に反する決議を行ったのである。
「珠洲文化会議」結成と国定正重市議の誕生
市議選を控えた,1987年4月4日,珠洲文化会議主催の文化講演会『原子力の未来』(講師:高木仁三郎氏)が開催された。珠洲支部青年部は事前のチケット販売や会場準備など,協力を惜しまなかった。
4年前の市議選に地区労が推薦した反原発候補がわずか4票の差で落選して以来4年間,すべて自民党市議だったが,1987年4月26日の市議選に,地区労推薦で,元珠洲支部委員長の国定正重氏が立候補し,上位当選を果たした。県教組も国定氏を推薦し,珠洲支部とともに,この市議選に全力でとりくんだ。
珠洲市長選と事前調査阻止
1988年12月14日,関西電力は,石川県知事と珠洲市長に,高屋町の原発立地について「まちづくり構想と共存共栄できる発電所構想の可能性を調査するため」の事前調査を申し入れた。
この電力の動きに危機感を抱いた市民たちは,3月,「珠洲文化会議」を主体として反原発団体「止めよう原発!珠洲市民の会」を結成。1989年4月の珠洲市長選で,同会メンバーの北野進氏を市長候補として擁立し,現職の林氏に挑んだ。
結果は,北野・米村候補の反原発票8461票が,当選した林候補の8021票を上回る過半数(有効投票の51.3%)を占めた。推進派が,とても勝ったとは言えない状況だったにもかかわらず,市・電力は,5月12日,高屋で事前調査を強行した。
5月12日から,関西電力が高屋で事前調査を強行するや,反原発市民が連日阻止行動を開始した。珠洲支部は,関西電力が6月16日に調査の一時見合わせを発表するまでの35日間,組合員に動員をかけ,市民とともに事前調査を阻止した。
また,5月22日,反原発市民が市長との対話を求めて市役所に行き,途中で退場した市長の帰りを待って,40日間も市役所会議室で座り込みを続けた。
さらに,珠洲支部は,6月市議会に「珠洲原発計画の白紙撤回」の請願書を出した。また,反原発の署名やカンパなど,市民グループと連帯してとりくんだ。
この署名活動を通して,各地に原発反対の住民組織が次々に誕生したのは,画期的な出来事だった。これらの組織が大同団結し,6月17日「珠洲原発反対ネットワーク」が誕生したのである。
不正・違法の珠洲市長選挙
反原発を掲げてたたかう1993年4月の市長選は,1981年,1989年に続いて3回目だった。2月1日に立候補表明した樫田凖一郎氏は,元県教組珠洲支部書記長・委員長を歴任した人であった。
開票の結果は,樫田凖一郎氏が8241票,林幹人氏が9199票だった。しかし,開票後,投票総数が投票者数より16票多いことが判明し,不正・違法選挙であったことが明らかになった。林陣営は,市選管と一体になり,林票への大量増票操作を行い,帳尻合わせに失敗した,というのが大方の見方だった。
不正な開票作業を目の当たりにした多くの組合員が,大いに怒り,<平和や人権を尊重し,真実を貫く民主教育の確立>が急務であることを痛感した。
1993年7月30日,能登(志賀)原発が営業運転を強行した。
1994年2月16日から第1回公判が始まり,9月5日,6日には全投票用紙の検証も行った。12月11日の第14回公判で,「選挙無効」という歴史的な勝利判決が下った。
県選管は,1995年12月21日,最高裁に上告した。
しかし,1996年5月31日,最高裁は「選挙の手続き全般に わたって厳正かつ公正 に行われたかどうかに ついて疑いを抱かざる を得ない」と述べ,「珠洲市長選挙を無効」とした名古屋高裁金沢支部判決を支持し,県選管の上告を棄却した。高裁に次ぐ最高裁の勝訴で,樫田氏を支持した反原発派の市民は,歓喜した。
これにより,選挙の無効が確定し,同時に林幹人「市長」の当選が無効となり,林氏は失職した。
珠洲原発事実上の「白紙撤回」
その後,曲折を経て,2003年(平成15年)12月5日,関西・中部・北陸電力の3社長が珠洲市役所を訪れ,「珠洲原発の凍結」を申し入れました。ここに,28年間に及んだ珠洲原発計画は,調査も出来ないまま撤退したのです。
(東京新聞の記事)
「珠洲原発があったら…もっと悲惨だった」 能登半島地震で孤立した集落、原発反対を訴えた僧侶の実感:東京新聞 TOKYO Web
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