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Narashino gender 37 日本女性史koki版㉙ 近世Ⅸ 奇妙な女大学の世界

2024-01-18 15:04:37 | ジェンダー

奇妙な女大学の世界

  • 女大学

幕藩体制が確定していくにつれ、学問では、朱子学を中心とする儒学がさかんとなる。日本の儒学は朝廷と幕府が王者として併存している時点でニセモノなのだが、外来思想を換骨奪胎するのが大得意のニッポン、徳川家を忠を尽くす対象にし、反逆するものは悪としたため、儒教は武家社会の主従関係維持には有効であった。

さらに、武家社会以外でも、師弟、親子、男女、長幼…などにおいて、後者は前者に絶対服従という儒教の規範はわかりやすく、政治支配の道具とするのに最適で、石田梅岩、大原幽学、二宮尊徳らによってやさしく説かれ、庶民層に道徳規範として広く受け入れられた。

  • 石田梅岩(1685~1744)思想家。石門心学の祖。道徳と経済の両立を説いた。

  • 大原幽学(1797~1858)教育者。性学を説き、農民、医師、商家の経営を実践指導した。

千葉県旭市「農村を救った知の侍 大原幽学」

  • 二宮尊徳(1787~1856)思想家。薪を背負って本を読んでる銅像で有名。今なら歩きスマホだね。

女性のバイブルは「女大学」

女訓書というカテゴリーがある。女性として身に付けておくべき教養、処世術、身体の養生などの注意術などが書かれており、中世に成立していたと考えられる。近世になり1658年の「女訓抄(じょくんしょう)」(1658作者不詳。京都の本屋の婦屋仁兵衛が刊行。五障三従や七去の仏教思想を中心)を嚆矢(こうし)として、近世の女訓書がちょっとしたブームとなる。幕府の女性政策とは関係ないが、女性はどのように教育させられようとしていたか?とか、当時の女性観や地位がわかる。

女訓書によれば、家を治め子を育てるのもみんな女のすることで、外出しても早く家に帰り、内をととのえるべき。男というものは外を努めて内のことを知らず、女は外を知らずして内を大事にするべきと、「女は内治」の役割を強調する。

が、男は一般社会で働くというのはわかるが、「内治」の仕事については説明がない。大事とされている「化粧をし身だしなみを整える」「内の者が嬉しがり忝(かたじけ)ながるように情けを肝要に」。要するに気遣い?「内」といっても「機織りしろ」とかでなく、要するに上流階級向け?

  • 貝原益軒(1630~1714)

そのようななかで、儒教サイドから中国の膨大な女訓書の要件だけを盛り込み、日常生活のノウハウを加えた和製の女訓書がやはり本屋から編み出された。江戸幕府は女性には「学問」は不必要としていたが、女子教育用の最初の本、「女大学宝箱」がでたのは1716年。これは1710年の貝原益軒の「和俗童子訓」のなかの「女子を教ゆる法」を益軒の妻の東軒が執筆したとされるが、根拠はない。

  • 貝原益軒夫妻の墓所 貝原益軒の銅像の左手奥の2本の木の間が夫妻の墓。左が東軒、右が益軒。左のサイズが少し小さめ。

 

益軒にあった敬天思想が女大学では平等観が捨象され、封建的隷従道徳が強調されている。女子教育用教科書として用いられ、少女が読めば自然に、女性の服従は当然という男尊女卑観念が身に付き、女として夫と家を支え、慎みを忘れずに女の道を究めようと夢と抱負を抱くようにつくられている。

守るべき生活規範(ほぼ禁止事項)や家事が多岐にわたり書かれているのは、庶民にも「家」が確立し、女性にその内政の運営を任せるということであろう。儒教の「陰陽説(男は太陽(陽)、女は月(陰))や、「七去三従」なども女大学でテキスト化した。

  • 七去三従

内容をみてみよう。

  • 女大学宝箱の「見た目より心」のページ

現代語訳。

「女は容(かたち)よりも、心の勝れるをよしとすべし。心映えない女は心騒がしく、眼が恐ろしく見出して、人を怒り、言葉荒らかに物を言いて、意地悪く口を利いて、人に先立ち、人を恨み、妬み,我身を誇り、人を謗り、笑い、人に勝り顔になる。それらはみな女の道にたがえる。女はただ、和らぎ順って、静かなのを淑(よ)とする」。

ミソジニー(女性嫌悪)だね。渋谷あたりにいる女の子にみせると笑っちゃうだろう。ジェンダーに苦労している現代の女性が読むとカチンとくるだろう。何ページか読むと、だれでも気持ち悪くなる?

往来物、寺子屋の教科書

「往来物(おうらいもの)」という江戸時代の学習書スタイル。ページの下3分の2が本文で、大書きされ、読み書きの手本とされた。上部は基礎的な知識や生活のノウハウという生活の知恵が習得されるようになっている。武家や裕福な町人層の結婚時には嫁入り道具の一つだったから、よく売れた。(偏見に満ちた)実用書かハウツー本みたいな内容だ。

往来物 - Wikipedia

往来物は、平安時代後期から明治時代初頭にかけて、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書の総称である。

女大学宝箱のコンテンツは、[概論・列女伝・近江八景と和歌・手習い・洗濯・お稽古・裁縫・髪化粧・子育て・身分格差・音楽活動・結納・結婚式・安産・マタニティケア・親の教え・親の心得・見た目より心]。

たとえば、何を着ようかと迷ったら、「女大学」第14条。「身の荘(かざり)も、衣装の染いろ・模様なども、目にたゝぬやうにすべし。身と衣服との穢ずして潔(きよげ)なるはよし。勝(すぐれ)て清(きよら)を尽し、人の目に立ほどなるは悪し。只、わか見(わが身)に応じたるを用ゆべし。」

日本女性の保守的なファッションコーデは「女大学」と制服のせい?

現在の保守的な日本女性のファッションコーデのコンセプトは「女大学」だったかと思わせる。私は、日本の女性が「何を着ていいのか?」と迷うのは、多感なティーンの時期に学生の制服とかリクルートスーツを強制されていることの影響が大きいと思う。ファッションコーデは自己表現。外国の青春ものTVドラマを観ると、この年代にファッションコーデのトレーニングをしてるんだろなと思う。先生も含め、大人は口をださないで、ファッションを含めてTeensたちを個人として認めて見守っている。

  • ミュージカルTVドラマ「Gree/グリー」(2009~2015) アメリカオハイオの高校が舞台。ディズニー+で配信中。DVDセットもある。

「女大学」の男文字

私が気になるのは、「女大学」の筆文字だ。近世の女性の筆文字は仮名づかいの散らし書き。評価の高い小野通(つう)の「四季女文章」(上)と「女大学」(下)を比較してほしい。

  • 「四季女文章」と「女大学」

女大学は100%男手で漢字の使用が多い。女子に漢字教育を図っていく明確な意図が感じられる。「女大学」が説く、女は愚かで育児さえも任せられない、夫に隷従していればいいという女性規範からすれば、男文字を手本にして漢字教育をし、共通基盤となる知識を植え付けようとするねらいは何なのか? だれの仕掛けか?陰謀か?

江戸時代は幕末でも女子の就学率は10%。武士層、豪商、農村の上層部というごく一部に限られ、それも一定期間だけ。武家でも女子は仮名が読めれば充分だと考えられており、寺子屋(塾)では女大学を読み書き写すだけで、内容を理解する教育はされなかった。教育は家で母親が行うことが多く、「女大学」で字を習い、家では母親に裁縫を習うという女子教育が一般的。江戸時代には女性に儒教の考えが浸透し、それによって女性が抑圧されていたというのは全くありえないね。「女大学」は明治以降は活字化し、女子向けの修身本として第二次大戦終了時まで使用された。

只野真葛(ただのまくず)

女性からの儒教批判

「女大学」の時代にあって、社会に目をむける女性も、稀有であるが存在する。長くなるが2名ほど紹介したい。仙台藩医の娘、只野真葛(ただのまくず・1763~1825)は、祖父の代から仙台藩医で、江戸の築地で生まれた。本名工藤綾子。7人兄弟の長女。300石の裕福な家で、数多くの大名、学者(国学、蘭学、儒学)、文学者、歌舞伎役者、芸者など、ありとあらゆる人が患者として出入りし、文化サロン的な家庭環境で育つ。父は私塾も開き、母も仙台藩医の娘で教養深い女性。真葛は、55歳の時に幕藩制社会批判の書である「独考(ひとりかんがえ)」を著わすが、それまでの略歴は以下のとおり。

9歳で世の中の「女の本」(女性の手本)になろうということを決心し、10歳で明和の大火を体験し、「をさなかりしより、人の益とならばや」と「経世済民」を志す。16歳で父の勧めの社会体験で仙台藩上屋敷で奥女中奉公した後、20歳で藩主の娘の嫁ぎ先の彦根藩井伊家の上屋敷に移る。

23歳で仙台藩は天明の大飢饉で財政難。父の後継者の弟が病死。家が消失。工藤一家は浜町の幕府医宅に一家で居候。25歳で奥女中奉公をやめて工藤一家と同居しその後日本橋数寄屋町に転居。27歳で家のために酒井家家臣の老人と結婚。父の「相手は老人だが、そのほうもトシ」という言葉に傷つき、「私が好きで年を取ったわけでない」と泣いた。数寄屋町の実家に戻り、病いがちの母に代わり弟妹の立身のために尽力し、30歳で母死亡。35歳で父の願いで仙台藩の上級家臣、只野行義(つらよし)と再婚。仙台の只野家は先妻の子や舅や妾腹の子などがいた。夫は職務で江戸と仙台の往復。仙台の女性たちを教育することを考えたが、地方の女性たちの学びの姿勢の弱さに諦め、夫の勧めもあって自分の学びを深めることにする。37歳で長患いの父が死去。借金が残ったが、親戚同様の杉田玄白の弟子が肩代わりする。49歳で夫の只野行義急死。著作活動に没頭する。

真葛の再婚相手は1200石で、真葛は外出するときには、5~7人も付き従うようなブルジョワマダムで、夫は留守が多いが、真葛の文才を認め、ものを書くことをすすめ、真葛は日記、伝説物語、随筆など多くの作品を書いた。最初は王朝時代の擬古文だったが、口語文や写実的な文体を自身で作り出した。永井路子は真葛のことを「江戸時代の清少納言」と譬えている。滝沢馬琴を驚かせた。

  • 滝沢馬琴(曲亭馬琴)(1767~1848)日本で最初の原稿料のみで生計を営むことのできた著述家。

  • 永井路子「葛の葉抄」 文春文庫。真葛の半生を描いた長編小説。

真葛の生きた時代は、儒教の女性観が支配した時代であった。真葛の人生も儒教の求める「聖なる道」、親に従い、夫に従い…を守ったが、それが自分のために生きたものではなかったことを真葛自身が知っていた。15年もの奥女中奉公、2回もの父の決めた結婚、弟妹への犠牲的な行為。10歳で経世済民を志し、他人のために生きると決心したが、政治や社会活動をやることを許されぬ女の身。親兄弟とは仲が悪いわけではないが、「兄弟なん(難)にあわぬはなき」と自身の兄弟関係を総括している。また、夫の理解は自己形成した女性にとって本質的には関わりがない。儒教にそった生き方をしたのに、なぜにそれが報われなかったのかを、徹底的に思索するブルジョワマダムの晩年は孤独な日々だったのだと思う。思索を尽くした果ての儒教論理への怒りは、独自の女性思想を生み出し、幕藩制社会を批判する。

「孔子聖(ひじり)の女子小人は、我不知(しらず)とのたまへいしとかや、われも女子なり、いざその聖の知らせ給はぬほどを、さてまうさめ」→孔子(儒教)は女子供は扱い難いというが、自らの教化不足を棚にあげてウケだけ狙うなよ(koki現代語訳)。

つまり、儒教が何か、ちゃんと説明しないで、女大学みたいなけったいなもんだけ押し付けるなよということ。女大学は封建道徳。それを読んで理解できる女ならカチンとくる代物。その気持ち、よくわかるわぁ。

真葛はついに、日本最初の女の闘争宣言をする。これは、簡単にkoki訳だけで。

「無学無法の女から、儒教にいくさをするぞ。リア充の愚人らは大昔の聖人(儒教)のことは難しいと敬遠してるくせに、儒教の味方している。そんな男どもは、いけ好かぬと若い女どもは嫌ってやろう。女に好かれなくても儒教は正しいといる奴らも同じ穴のムジナ。どちらに優劣をつけるかは人々の好き好き。儒教に女が勝つことはないだろうけど、聖はおおかた力弱いもので、下愚の女たちはなべて力強い。一勝負してみたいものだね」。

真葛は勝負、世の中を動かすものの基本は、天地の拍子を上手くつかむことにあるという。儒教を体現していた「正しきと見ゆる」工藤家の跡取りで真葛の弟は天地の拍子をはずして若死にしてしまった。一方、金銀を争い、人を蹴落として自分が富もうとする町人がこの世で一番の力をもとうとしている。

真葛は、子ども時代は父から儒教に触れることを禁じられていたが、工藤家に出入りした学者たちより、国学や蘭学は学んだ。当時、国学では日本古典研究から「情」の世界を重視し、儒教(とくに朱子学)の規範主義を批判した。賀茂真淵(かものまぶち)は、儒教の家父長制家族のあり方を批判し、女性の従属性を否定した。

  • 賀茂真淵(1697~1769)

蘭学者から得たとされるロシアの結婚に関する記述が「独考」にある。ロシアでは教会が男女に結婚の意志をたずねた上で夫婦とすること、多くの人々と交際したあとに心のあった人と結婚する自由があること…などを知って、真葛の人生体験と合わせて、儒教批判と闘争宣言になったと思われる。

真葛が家や夫のことから自由になった晩年時代に、1200万石の後家でなければ、幼年時代のような交友関係があれば、社会をもっと客観的にみることができたのではないかと、私は思う。江戸の身分制社会はもう先が見えてた時代状況。女性たちも「家」を存在の基本とするのには?がつく自意識をもっていた。儒教なんか相手にしている場合じゃないと、真葛は時代認識にからめとられたまま、62歳で亡くなった。惜しいなぁ…と思う。

  • 只野真葛の墓(中央)

 

原采蘋(はらさいひん)

男装、帯刀の女性漢詩人

  • 原采蘋像

漢詩は、武士階級の男性の教養とされていたが、19世紀になると、日常を平易な字句(漢文)で詠うことが、町人の上層にも広まった。藩校が増えて、儒教を教える儒官が世襲ではなく、個人の能力によって地位を得ることができ、儒官の身内の女性が漢詩に親しみ、漢詩を詠むことは自然の成り行きであった。女が家の道具ではなく、儒官が女弟子も受け入れるようになり、女性が漢詩人として漢詩で自己を表現することを師だけでなく、父や夫が好意的に支え、「才色兼備」の女性漢詩人が現れるようになる。その存在は才無き女を美徳とする当時の女性観を覆す。

儒学の教養による漢詩の世界で、漢詩で自己を表現する女性たちを輩出した時代背景には、そのような事情がある。

  • 小谷喜久江 「楊花飛ぶ」 タイトルは「跡は楊花の風に倚りて飛ぶに似たり」(私の足跡は柳の綿毛が風に乗って飛んでいくのに似ている)という漢詩からとっている。

原采蘋は、1798年、筑前の秋月藩の儒学者の娘として生まれ、兄と弟が病弱だったため、父から漢文、詩、書道の手ほどきを受け、20歳で父の代講を務めた。25歳で江戸に行き、頼山陽などと交流した。父の病気や死で一時帰郷したが、30歳で再び江戸に行き、20年ほど滞在する。その後、母の病気のために一時帰郷の後、1859年萩で61歳で客死するまで遊歴を続けた。男装、帯刀の女流詩人として知られる。

専門詩人として名をあげることを志し、結婚は「婦賢ならずして則ち以て夫に仕うる無し。豈(あに)不才にして四徳(仁義礼智)兼備の者有らん乎」。教養のない女性は真に夫を支えることができないという結婚観を持っていた。なのに、結婚を拒否し、一生独身だったのは専門詩人の志を貫くため。自分の生き方は父が専門詩人になることを願った遺志にそった「孝」のためで、結婚という幕藩体制の婦徳を受け入れると、専門詩人という新しい生き方を貫けない。それは「孝」にそむくことになると考えた。

父に激励されて、漢詩人になったが宮仕えをせず、各地を遍歴し、滞在先で授業や漢詩作成の指導をして生計をたてる遊歴詩人となった。化粧をせず、髪は後頭部で束ねて垂らしただけ。袴をはき、腰には太刀を差すという男装の麗人。ふだんは身だしなみに気を遣う女性で、得意な月琴(中国由来の楽器)を奏で、酒をよく飲み、豪飲し酒席で詩を詠んだ。性格は豪放磊落だと伝えられる。采蘋の詩の世界は広く、自由だ。詩人書家として経済的にも自立していた。旅先の出会いや恋愛も多数あり、一度、TVドラマのヒロインになってもいいね。

  • 原采蘋墓

幕藩体制の儒教支配のなかで、真葛は、儒教に喧嘩を仕掛け、采蘋は、儒教論理を信奉し幕藩制秩序を踏み越えた行動をする。対称的だが、「女大学」の病んだ世界を一掃するほどの爽快さをこの二人の女性に感じる。

 

次回は江戸の離婚事情。女性の立場の弱さを示すといわれた離縁状の「三下り半」。女性の避難場所の「駆け込み寺」。これらは、現代の女性にとってはむしろ、うらやましい離婚システムか? のぞいてみよう。(koki)

 

 

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