儒教思想とジェンダー
●小学館 ドラえもん「はじめての論語」オールカラー・マンガ 道徳の教科書よりいい。
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町人はどうしたの?
江戸時代の女性は、身分により、生活、家族のかたち、働き方など全く違うので、同じテーマでも分けて書くしかない。武士と農民はこれまで書いてきましたが、「町人」についてはほったらかしなのが気になっています。町人は都市に住んでいるのは共通しているが、雇用労働で多様なので、「都市とジェンダー」、「都市と大衆文化」というカテゴリーをつくり、町人の女性はそこで書くことにしました。時代劇とか古典芸能などでおなじみの世界?乞うご期待!
儒教が男尊女卑にした?
2023年年末から24年年始にかけて、私の中で以下のような江戸時代の女性像がモヤモヤしている。
女性が自分が劣った性として、男性に服従しているのは、女性の従属性や母性本能を信じ、服従を女性の宿命と思い込んでいた。納得できないことがあっても、それでも家父長制社会での最良の選択だと与えられた職分に精を出し、それなりにエンジョイしていたのではないか? 保守的な男たちの「(女が服従するのは)好きでやってることさ」という性差別に与していたのだ。現在と構造は同じ。「女性本人が良ければいいんじゃないの?」と見逃すことはできない。女たちは疎外され深く傷ついている。それを自分で内面化してしまっているために、客体化を装い自ら服従しているのだ。
しかし、「生まれつき男社会に服従する女はいない。」(マノン・ガルシア)。
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その時代時代において、なにか女性を縛る構造的要因があったはずだ。私が女性史を始めたのは、それが動機だった。
私は、江戸時代の男尊女卑について、どうして女たちがこんな体制に従ったのだろうと考えた。西洋では、宗教(キリスト教の神)、契約、法が、異なった肉体をもつだけの男女の関係を不平等なものにし、男性による支配と女性差別を作りだした。日本では、宗教は一神教ではなく、仏教、神道の思想が人々の考えを縛ってきたということは実態としてない。だから宗教に基づき家庭や社会のあり方を説明する「契約(社会契約)」という概念もない。それでは西洋の「法」に相当するものは何か? 最初に考えたのが「家制度」である。しかし、江戸時代の「家制度」が思ったほど家父長制的ではなく、夫婦がそれぞれ独立的にその職分における役割を果たし、その関係は支配―被支配関係ではないとわかった。じゃあ何なの? 江戸時代の男尊女卑。
そこで、女性たちが服従したのは、徳川政権が儒教による政治を行ったためではないかと考えた。儒教の女性をおとしめる教えがイデオロギーとして、徐々に女性差別や抑圧につながっていったのではないか?
「男尊女卑」という言葉は、「列氏」からくる
「男尊女卑」という言葉は、諸子百家の一人、列氏の本「列子」の中に出てくる「男女之別、男尊女卑」からくる。
この本の中では、孔子が「天生万物,唯人为贵,吾得为人矣,是一乐也。男女之别,男尊女卑,故以男为贵,吾既得为男矣,是二乐也。(天は万物を産んだが、人間だけを貴いものとした。私は人間として生まれることができた。これが楽しみの一つである。男女の別は、男は尊く女は卑しい。このため男が貴いものとされている。私は男として生まれることができた。これが楽しみの二つ目である。」と言った、とされている。
「男尊女卑」と「疑心暗鬼」の出典は『列子』?
日本では、江戸時代に被支配層まで定着した「男尊女卑」
日本では中国から律令制を採用して内在していた「男尊女卑」がだんだん被支配層まで浸透し、江戸時代で定着した。孔子オリジナルではない。
儒教というのは男女差別が激しく、女性は王にも官僚にもなれない。中国で王になったのは則天武后だけ。しかし、彼女はおんなのくせに皇帝になってけしからんということで、中国史上最悪の悪女とされた。
儒教とは何か?
●孔子(BC552~479)国立故宮博物院(台湾)
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儒教の開祖(儒教が宗教か学問であるかは分かれるところだが)は孔子である。
孔子や高弟の名言を弟子たちが編集した「子(し)曰く」(孔子先生はこうおっしゃいました)で始まる書き出しで有名な「論語」は、儒教入門書。男尊女卑は孔子のオリジナルではないから、論語のどこを読んでも男尊女卑の思想はでてこない。
「男女七歳にし、席を同じゅうせず」は、「7歳になれば性の意識が芽生えてくるので同じ席(むしろ)ではプライベートが保てないから分けるべきだ。」という意味。
「女子と小人(使用人のこと)は養い難し」というのについては、「貴族は多妻制で多数の妾と使用人が同居していて、取り扱いがむずかしい」。
論語読みの渋沢栄一は
「(論語は)男尊女卑を原則とする、女子に教育機会を与えない時代の見方を反映している」
「孔子は歴史を勉強することによって現代に対する洞察を深める(温故知新)と述べているように、意欲的に新しいものを取り入れる考えかただった」
「だから孔子が今の時代に生きていたら、絶対にこのような言葉は残さなかっただろう」と、孔子の男尊女卑については否定している。
論語は四字熟語などで誤解が多いが、日本語として血肉化しているので訂正がきかない。「子曰く、賢を賢(たっと)ぶこと、色(おんな)の易(ごと)くせよ」については、女と賢人を同列に扱っていると、朱子は反発したが、当時、賢人に女性を近づけるような時代ではなかった。
孔子がもっとも大切にしたのは「仁」という人を愛する心で、キリストの「愛」と類似する。人類の本質だね。儒教を忠君愛国や男尊女卑の教えにしたのは時の権力者だよ。きっと。
●孔門十哲(孔子の弟子で最も優れた10人の弟子。女性はいないね)
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孔子は古代中国の魯で生まれ、3歳で武将の父、17歳で巫女の母親が他界し、天涯孤独の身ながら勉学に励み、役人として順調に出世するが、44歳で役人を辞め、学問に取り組み、多くの弟子の育成に努める。50歳で魯の官僚として復職、政治改革に尽力したが、うまくいかず辞職し、魯を離れ、諸国漫遊する。69歳で魯に戻り、弟子の育成に専念する。74歳で老衰で生涯を終えるまで、弟子(自称か?)は3千人を越えると言われている。
●儒教の五常の教え
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儒教は、個人が身を修め(修身)、その家庭を整え(斉家)、家庭の集合体である国が治まり(治国)、天下泰平になる(平天下)という発想で「仁義礼智信」の五常の教えを説く。いちばん大事なのは、王者が徳を修めること。中国の理想の王は徳の高い人(有徳者王)で、「三国志」には、名前(通称)に「徳」がつく人が多い。劉備玄徳、張飛益徳、曹操孟徳。
しかし、皇帝は権力闘争で勝ち抜いただけで、必ずしも徳のある人物とは限らない。そこで、隋から清までは、受験資格を問わない「科挙」という官僚登用試験で、皇帝を支える役人を決め、中華王朝は「官本位」という権力構造をとった。その科挙で儒学・儒教はすべての受験科目の基盤となるというより、試験科目は儒教だけみたいなもの。合格すれば儒教の権化。清廉潔白の代名詞みたいなもの。こんな制度、下剋上の日本では採用できないよね。
儒教では、徳が欠けた王は、「放伐(討伐)」、革命は許される。中国の王朝が変わるときは、すべて前の王は放逐(追放)するか討伐(討ち取って殺す)して、「前の王が徳を失っていた」と政権奪取の言いわけとする。
一方、日本は、江戸時代まで連綿として続いている天皇家がある。途切れていないということは天皇には徳があり、真の王者だということ。儒教を国家理念とするなら、天皇は滅ぼさなきゃならない。どうする家康?
●徳川美術館 徳川家康三方ヶ原戦役画像
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家康の儒教採用
徳川家康は、学問好きで儒教を好んだが、儒教を政治に採用したのはご都合主義。中国をなめるなよ!
家康は自分の系図をいじって、源氏の末裔にし、系図の中に「得川」という人がいたので、「得」を「徳」に変えて「徳川」として、その「得川さん」を先祖にした。
信長のように「天下を取る者が正しい」というなら、系図などをいじらない。豊臣恩顧を忘れ、本来忠義を尽くさねばならない朝廷を蔑(ないがし)ろにして取った天下。戦のない世を武力の力だけで治めることの困難さも戦国時代を生き抜いた家康はよくわかっていたし、武断政治以後の徳川の長久を願う気持ちも強い。どうにか子孫が「家康は正しい人間だ」と胸を張って人生送れるようにしたい。天下を取ったから「(家康には)徳があったのだ」ということにするまでは死ぬに死ねない。儒教の「有徳者王」というのはいいな、徳は無形だから、「君主」の客観的な判断基準にならないけど、それは権力の力でどうにでもなる。よっしゃ!儒教採用!
大河ドラマ、ここまでつっこんでほしかったな。天下を取った時点で家康がもっと若かったら、儒教採用についてもっと熟慮したと思うけど。
徳川家が採用したのは儒教のうち、君臣、父子の別を中心として上下の秩序を重んじる朱子学だった。朱子学は「忠義」に最も価値を置く。大名の力を弱めるために、武家諸法度などの法律、参勤交代、公共工事の押し付け(お手伝い)などの統治システムだけでは不十分で、「忠義」という道徳を人々の心の中に植え付けるためには朱子学が有効だと考えたのだ。アドバイザーとして採用したのが儒家の林羅山で、羅山の子孫は「林家(りんけ)」として江戸時代の学問と教育を担った。
●林羅山(1583~1657)
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儒教は孔子自身が「自分は始祖ではなく、自分以前の中国の道徳をまとめたに過ぎない」と言っているが、孔子のあとに孟子、荀子などが出て、儒教の教えは整合性のあるものではなかった。12世紀に朱熹(朱子)が登場し、哲学的学問体系として教えを整理した。
●朱熹(1130~1200)
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朱熹は宋が漢民族でない周辺の「野蛮人国家(金や元)」に侵略される時代(宋から分裂した南宋に生まれた)にあって、野蛮人に屈服されたと認めたくないあまりに、中国が世界の中心であるという「中華思想」をこれ以上ないほど肥大させてしまった。ヒステリー状態の「朱子学」は、日本では御三家のひとつである水戸藩の徳川(水戸)光圀が「水戸学」として創り出す。水戸学は絶対の忠誠の対象を天皇とした。
●徳川光圀(1628~1701)TVでおなじみの別名の「黄門」は朝廷から任命された「中納言」という官職の唐名。
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光圀は「将軍家は親戚頭に過ぎぬ。われわれの主君は天皇家である」といい、天皇の外孫を正室に迎える(本来なら武家諸法度違反、お家御取りつぶしだが、そうならなかったのは将軍綱吉と光圀との力関係)。光圀は日本の国史「大日本史」を編纂し、編集したのは滅亡した明から亡命してきた朱舜水だった。朱舜水は、外国の手を借りてもモンゴル系の「野蛮国家」から明を取り戻すという野望を持ち、幕府に軍事援助を要請したが、幕府は中国の政治に介入する意志はない。
●朱舜水(1600~1682)
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舜水は光圀と組んで、朱子学的価値判断にもとづく新しい日本史を作り出すために、猛勉強により、これまで日本の歴史に埋もれていた後醍醐天皇、楠木正成、伊賀光季(承久の乱のときの京都守護職。鎌倉幕府に味方し、上皇軍と戦い壮烈な死をとげる)などが忠臣の権化としてクローズアップ。これらの人物は江戸から第二次大戦までプロパガンダとして利用される。
「有徳者王」なら、儒教的には明が滅びた時点で聖人の国である中国はなくなったはず、朱子学もまた存在しないはずが、日本にきて将軍の分家で水戸学となり、将軍に反旗を翻しても天皇に対して忠義をつくせば、人間の鑑という。これは幕末の「勤皇の志士」の根拠となった。家康が幕府を安泰にするために普及させた思想が、変節に変節を重ねて、倒幕の原理となる皮肉。
●大日本史 全百冊 初代神武天皇から100代後小松天皇までの歴史を対象。1657年から1906年まで編纂作業
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江戸幕府は武力によって成立した政権がDNA。代々の将軍は剣の道は重んじても、儒教を学んで立派な統治者になろうとはしなかった。将軍の剣術指南役の柳生家は、奈良の大名家だが、林家は江戸幕府に出仕する大学頭(だいがくのかみ)の役職で、せいぜい私塾(湯島聖堂)を公認してもらうくらいの力しかなく、儒教の思想で政治が行われたことはなかった。1790年の寛政改革で、松平定信が朱子学以外の学問を教えることを禁止し、朱子学の試験で人材登用を図ろうとした(科挙のマネか?)ので、藩でも学問所が作られて、武士の子どもたち(男子)が朱子学を学んだ。しかし、儒教は体制教学とはならず、中国で生まれた儒教の思想は日本でコペルニクス的転回をとげ、政治の道具で弄ばれたあげく、宗教としても定着しなかった。
次回は「女大学」について。女子大のことじゃないよ。「大学」は教育機関ではなく、儒教の基本的な書物である四書五経のひとつ。「女大学」は、江戸中期以降広くした女子のための啓蒙書(女子教訓書)。無理ゲーなことばかり書いてあるんだけど、独特の気持ち悪さ。
江戸の女性たちに、ほんとに説得力があったのだろうか?(koki)
●女大学 当時の古本が古書店やメルカリでも買える
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