今日ある人と話をしていたら、他の先生からデフォルメして描くように言われたと言っていました。
私はそれを聞いて、そんな指導があるのかな?と意外に思いました。
というより、とんでもない指導だなと思いました。
かなり描ける人に言う場合なら、それもありかなとは思いますが、まだしっかり描ける力を付けていない人に対して、
デフォルメして描けとはどういう神経でしょうか?
描けない人にとっては、デフォルメではなく、デタラメです。
当たり前に描いていると、写真みたいでつまらないと考える人はいます。
それは、あり得る危険性です。そこは、認めてもいいのですが、では、絵とは何かという問題になったときに、
初めて出て来るのがデフォルメでしょう。
ただ、デフォルメとは、わざと違う形を描くことではありません。
私は、本当に見える通りに描くより、その方が良いと判断して敢えて違えて描くのなら良いと思うし、
そうせざるを得ないようなことならと思います。
また、絵とは何かという問題と向き合って、自分の絵画観の中で生み出された物なら良いと思います。
例えば、私の場合なら、具象と抽象を合せた絵画、平面と奥行きを合せた絵画を描きましたが、そのような場合には、
デフォルメどころか、何でもありの絵画になります。
セザンヌのチョッキを着た少年の絵がありますが、あれは腕が長いです。耳が大きいです。
肘がおかしいです。
あれは、セザンヌが自分の絵画観の中で、展開していることです。
私は素人には、まずしっかりしたデッサン力をつけることから教えます。それをやりながら絵とは何かを考え、自分なりの絵画観を持って、初めて見える通りでない絵画に入っていくことをお勧めします。
絵がわからないまま描いている人に、デフォルメしろとは、デタラメを描けと言っているに近いことです。
自分の絵画観を持つとは、描きながら考えることです。
絵とは何かです。それには、美術史を学ぶことです。なぜ、ある画家はこんな絵を描いたのか?
ピカソはなぜ?ダリはなぜ?
もっと昔なら、レオナルドがやったことも大変な革命だったのです。
印象派の描き方だって、自分たちの絵画観からでたことです。
それらは、頭で考えるだけでなく、描きながら考えると良いと思います。
いま、自分が絵を描いているつもりでいても、絵を描くという事を誰かに教えられて、何の疑いも持たずに絵を描いている気になっているけれど、果たしてそれが絵を描くということだろうかと疑問を持つと、分からなくなりますよ。
写真とどこが違うの?写真に近づけているだけ?
じゃあ、写真の方がいいじゃないか?絵を描く意味は?
という自問自答から始まります。
しかし、描いていると、写真とは違う魅力に気づきます。
そこから、絵のあり方がいくらでもあることに気づきます。
写真は不自由ですが、絵は自由です。言ってみれば、何でもありです。
それが分かってから、変化をしていくと良いでしょう。
しかし、人間の造形感覚とは、見ることから養われると思います。
そして、絵画とはその見ることと同時に描くことという体験で成立するのです。
描くこととは、選び出すことです。見えるものを全て描いている訳ではありません。
分かりやすい例で言えば、草原を描く場合、草の数を数えて描きません。一本も見逃さずに、全てを描ける人はいません。
それに近い絵を描く人はいますが、それでも全てを描けません。
ということは、絵画は写真とは違うのです。能力的な不可能という意味より、能力があっても不可能なのです。
なぜなら、絵画は一瞬で描けません。
時間がかかるということは、相手がどんどん変わってしまうという事です。
見える通りに描くと言っても、どの瞬間を見える通りに描くの?となります。
その瞬間を捕まえて描くとしたら、後は思い出して記憶で描くのでしょうか?
印象派のモネは、そのために30分毎にキャンバスを取り替えました。
いろいろな問題が含まれているのです。だから、美術史を学ぶ意味があります。
我々が考えそうなことは、過去の画家たち嫌というほど体験していますから、過去の先輩のやったことから学べることがたくさんあります。
結論は、もう先に述べましたが、描きながら考え、美術史も学ぶことです。
そして、自分なりの絵画観をもって、それに基づいて絵を描くことです。
それが、スーパーリアリズムになるのか、キュービズムになるのか、シュールになるか、抽象になるかは、その人の絵画観によります。
私はそれを聞いて、そんな指導があるのかな?と意外に思いました。
というより、とんでもない指導だなと思いました。
かなり描ける人に言う場合なら、それもありかなとは思いますが、まだしっかり描ける力を付けていない人に対して、
デフォルメして描けとはどういう神経でしょうか?
描けない人にとっては、デフォルメではなく、デタラメです。
当たり前に描いていると、写真みたいでつまらないと考える人はいます。
それは、あり得る危険性です。そこは、認めてもいいのですが、では、絵とは何かという問題になったときに、
初めて出て来るのがデフォルメでしょう。
ただ、デフォルメとは、わざと違う形を描くことではありません。
私は、本当に見える通りに描くより、その方が良いと判断して敢えて違えて描くのなら良いと思うし、
そうせざるを得ないようなことならと思います。
また、絵とは何かという問題と向き合って、自分の絵画観の中で生み出された物なら良いと思います。
例えば、私の場合なら、具象と抽象を合せた絵画、平面と奥行きを合せた絵画を描きましたが、そのような場合には、
デフォルメどころか、何でもありの絵画になります。
セザンヌのチョッキを着た少年の絵がありますが、あれは腕が長いです。耳が大きいです。
肘がおかしいです。
あれは、セザンヌが自分の絵画観の中で、展開していることです。
私は素人には、まずしっかりしたデッサン力をつけることから教えます。それをやりながら絵とは何かを考え、自分なりの絵画観を持って、初めて見える通りでない絵画に入っていくことをお勧めします。
絵がわからないまま描いている人に、デフォルメしろとは、デタラメを描けと言っているに近いことです。
自分の絵画観を持つとは、描きながら考えることです。
絵とは何かです。それには、美術史を学ぶことです。なぜ、ある画家はこんな絵を描いたのか?
ピカソはなぜ?ダリはなぜ?
もっと昔なら、レオナルドがやったことも大変な革命だったのです。
印象派の描き方だって、自分たちの絵画観からでたことです。
それらは、頭で考えるだけでなく、描きながら考えると良いと思います。
いま、自分が絵を描いているつもりでいても、絵を描くという事を誰かに教えられて、何の疑いも持たずに絵を描いている気になっているけれど、果たしてそれが絵を描くということだろうかと疑問を持つと、分からなくなりますよ。
写真とどこが違うの?写真に近づけているだけ?
じゃあ、写真の方がいいじゃないか?絵を描く意味は?
という自問自答から始まります。
しかし、描いていると、写真とは違う魅力に気づきます。
そこから、絵のあり方がいくらでもあることに気づきます。
写真は不自由ですが、絵は自由です。言ってみれば、何でもありです。
それが分かってから、変化をしていくと良いでしょう。
しかし、人間の造形感覚とは、見ることから養われると思います。
そして、絵画とはその見ることと同時に描くことという体験で成立するのです。
描くこととは、選び出すことです。見えるものを全て描いている訳ではありません。
分かりやすい例で言えば、草原を描く場合、草の数を数えて描きません。一本も見逃さずに、全てを描ける人はいません。
それに近い絵を描く人はいますが、それでも全てを描けません。
ということは、絵画は写真とは違うのです。能力的な不可能という意味より、能力があっても不可能なのです。
なぜなら、絵画は一瞬で描けません。
時間がかかるということは、相手がどんどん変わってしまうという事です。
見える通りに描くと言っても、どの瞬間を見える通りに描くの?となります。
その瞬間を捕まえて描くとしたら、後は思い出して記憶で描くのでしょうか?
印象派のモネは、そのために30分毎にキャンバスを取り替えました。
いろいろな問題が含まれているのです。だから、美術史を学ぶ意味があります。
我々が考えそうなことは、過去の画家たち嫌というほど体験していますから、過去の先輩のやったことから学べることがたくさんあります。
結論は、もう先に述べましたが、描きながら考え、美術史も学ぶことです。
そして、自分なりの絵画観をもって、それに基づいて絵を描くことです。
それが、スーパーリアリズムになるのか、キュービズムになるのか、シュールになるか、抽象になるかは、その人の絵画観によります。