Aロッド「残念なニュース」も先発出場(日刊スポーツ) - goo ニュース
近頃はMLBどころではないので、A-Rodの話も別に関心はなかった。
生でみた彼の芸術的なホームランもあれは彼の力ではなかったのかと残念に思う気持ちさえなかった。。。
天才といわれていても所詮は人間だなぁくらいに思っていた。
しかしTVでA-Rodのコメントをみて、感情が動いた。
人間というよりはアメリカ人だなぁと思った。
自分が悪いことを全く認めない。
アメリカはどんな人間でも自己弁護が許される国だと言っていたらしい(字幕によると)。
もちろんアメリカ人がすべてこうだとは思っていない。
米大学院にいるとき友人の車で出かけ、友人がちょっと強引に割り込んだとき(そんなに大したことではなかった)、彼は、50メートルほどバックで突っ走ってもどって(こっちの方がはるかに危険だったが)、窓をあけて、「今のは俺が悪かった、本当にごめん!」と叫んでいた。そしてそんな彼が弁護士をやっているのだ。
じゃあなぜA-Rodを非難の的としてのアメリカ人の典型に感じたのか。
理由の一つには最近読んだあるイギリス人のアメリカ人評が念頭にあった。
彼が批判していたアメリカ人はまさにA-Rodのように自らを正当化することに躍起になるだけで、Fairかどうかは問題にしない。
しかも正当化といっても大した根拠があるわけではない。まさに pettifoggingなのだ。
論拠にならないことを論拠にして自己弁護。。。
ここで合点した。なぜ僕がこうしたA-Rodの振る舞いに感情が動いたのか。
そうだ、A-Rodのことなんかどうでもよかったし、他人がどうしようと関係ないが、僕はそういうのが嫌いなのだ。
しかもそうした話がたくさんある。
今日の話題でいけばまず広島の原爆だ。
広島市長だけでなく、なぜあんなにもあの事件を過去の被害者の目でしかみつめようとしないのだろう。
ネットでみた石碑には、「安らかに眠ってください、こういう間違いは私たちはしないから」(一字一句同じではありません)とあったが、たぶん同じことをするだろう。
なぜなら自分の目でじかにみていないからだ。
本当に回避したければ、少なくとも包括的に理解したと思えるよう努力しなければなるまい。
この問題は他人の目でみなければならないような遠い話ではない(今までに何度も書いたが)。
Whitman流にいえば私たちはいつまで過去の人間の目で歴史をとらえようとしている?
別に広島の扱いだけが問題なのではなくほかにもたくさんあるのだが、いかんせん時間がない。
そんな折NY Timesに面白いコメントがあった。
A-Rodのような天才までがあのような不正に手を染めた理由を以下のように「説明」していた。
My theory would be that self-preoccupied people have trouble seeing that their natural abilities come from outside themselves and can only be developed when directed toward something else outside themselves. Enclosed in self, they come to believe that their talents come from self, are the self. They have no outside criteria that tells them what their talents are for or when they are sufficient. Locked in a cycle of insecurity and attempted self-validation, their talents are never enough, and they end up devouring what they have been given.
僕の読みこそ「自分の結論に都合の良く解釈している」といわれるのを怖れずいえば、結局問題は立ち止まっているということだ。次のステージに行かなければ、今までに与えられたものを貪り食って終わりになってしまう。
もっといい例に「King Lear」がある(最近例を出せば出すほどわかりにくくなるともいわれるが)。
こいつは「愛」を言葉で表せとか、自分のルールから最後まで出られないために不幸に終わる。
a circle of insecurity and attempted self-validationのなかにいるのだ。
追伸1:アメリカはソチ五輪にボイコットすべきか?ロシアがアンチゲイの法律を持っているから。
近頃はMLBどころではないので、A-Rodの話も別に関心はなかった。
生でみた彼の芸術的なホームランもあれは彼の力ではなかったのかと残念に思う気持ちさえなかった。。。
天才といわれていても所詮は人間だなぁくらいに思っていた。
しかしTVでA-Rodのコメントをみて、感情が動いた。
人間というよりはアメリカ人だなぁと思った。
自分が悪いことを全く認めない。
アメリカはどんな人間でも自己弁護が許される国だと言っていたらしい(字幕によると)。
もちろんアメリカ人がすべてこうだとは思っていない。
米大学院にいるとき友人の車で出かけ、友人がちょっと強引に割り込んだとき(そんなに大したことではなかった)、彼は、50メートルほどバックで突っ走ってもどって(こっちの方がはるかに危険だったが)、窓をあけて、「今のは俺が悪かった、本当にごめん!」と叫んでいた。そしてそんな彼が弁護士をやっているのだ。
じゃあなぜA-Rodを非難の的としてのアメリカ人の典型に感じたのか。
理由の一つには最近読んだあるイギリス人のアメリカ人評が念頭にあった。
彼が批判していたアメリカ人はまさにA-Rodのように自らを正当化することに躍起になるだけで、Fairかどうかは問題にしない。
しかも正当化といっても大した根拠があるわけではない。まさに pettifoggingなのだ。
論拠にならないことを論拠にして自己弁護。。。
ここで合点した。なぜ僕がこうしたA-Rodの振る舞いに感情が動いたのか。
そうだ、A-Rodのことなんかどうでもよかったし、他人がどうしようと関係ないが、僕はそういうのが嫌いなのだ。
しかもそうした話がたくさんある。
今日の話題でいけばまず広島の原爆だ。
広島市長だけでなく、なぜあんなにもあの事件を過去の被害者の目でしかみつめようとしないのだろう。
ネットでみた石碑には、「安らかに眠ってください、こういう間違いは私たちはしないから」(一字一句同じではありません)とあったが、たぶん同じことをするだろう。
なぜなら自分の目でじかにみていないからだ。
本当に回避したければ、少なくとも包括的に理解したと思えるよう努力しなければなるまい。
この問題は他人の目でみなければならないような遠い話ではない(今までに何度も書いたが)。
Whitman流にいえば私たちはいつまで過去の人間の目で歴史をとらえようとしている?
別に広島の扱いだけが問題なのではなくほかにもたくさんあるのだが、いかんせん時間がない。
そんな折NY Timesに面白いコメントがあった。
A-Rodのような天才までがあのような不正に手を染めた理由を以下のように「説明」していた。
My theory would be that self-preoccupied people have trouble seeing that their natural abilities come from outside themselves and can only be developed when directed toward something else outside themselves. Enclosed in self, they come to believe that their talents come from self, are the self. They have no outside criteria that tells them what their talents are for or when they are sufficient. Locked in a cycle of insecurity and attempted self-validation, their talents are never enough, and they end up devouring what they have been given.
僕の読みこそ「自分の結論に都合の良く解釈している」といわれるのを怖れずいえば、結局問題は立ち止まっているということだ。次のステージに行かなければ、今までに与えられたものを貪り食って終わりになってしまう。
もっといい例に「King Lear」がある(最近例を出せば出すほどわかりにくくなるともいわれるが)。
こいつは「愛」を言葉で表せとか、自分のルールから最後まで出られないために不幸に終わる。
a circle of insecurity and attempted self-validationのなかにいるのだ。
追伸1:アメリカはソチ五輪にボイコットすべきか?ロシアがアンチゲイの法律を持っているから。