湯斗のご主人がよくいうのだが、どんなに美味いものでも飽きる。
音楽も、同じように、どんなにいいと思っても何度も聴けば飽きる。
娘が目を丸くして聴いていた曲たちも最近以前ほど刺激的ではなくなってしまった。
まあ、こういう大きな時の流れから抹消されていく細かな事どもが、侘び寂びなんだろうけど、自分にとって好きな曲でもあっただけになんとも寂しい。
が、時はそうした感慨に耽る間を与えず、娘を更に喜ばす音楽を探すことを要求してくる。
といって、そう簡単にそんな音楽はみつかるはずもなく、少し路線を変えてみることにした。
インパクトのあるすぐにわかりやすい曲よりも、静かに心にしみていく音楽にしたのだ。
そこで選んだのが、Kieth Jarret が演奏する、My Irish Wild Rose。
一輪の花を持つときに必要な優しさをメロディにしたような可憐さが好きなのだが、今回その歌詞をみてみたら、なぜ戦争に行くのか、という男の詞だった。
男はなぜ戦争に行くのか。
以前ここの追伸で触れた元自衛隊員の国会議員が数ヶ月前に、国会で口にした、「なぜ自衛隊員が国外の危険な任務に行くとお思いか?」を思い出した。
問いを受けた麻生総理はじめそこにいた国会議員はそんな「現実的(?)」なこといわれてもと当惑しつつ答弁していたが、結論としてその元自衛隊員の国会議員は、国ために働いているという栄誉だと回答を与えて締めくくった。
が、それを聞いて僕は憮然とした。
僕だったら栄誉欲や名誉欲はあってもそのために命はかけない。
なんでこうなったのかわからないが、自分の家族がある国に属し、その国が他国ともう避けられない戦争状態にあり、当然負けた場合にはどんな窮境に直面するか分からない。
であればこそ戦争に行くはずではないのかと僕は思った。
栄誉のために戦争にいくなど僕には全く「非現実的」だった。
その点、My Irish Wild Rose は男が戦争に行く理由をよく表わしていた。
男は、「花一輪を持つときに必要とされる優しさ」を守る為に戦争に行き、そういうときこそ最も強くなる、と。
My Irish Wild Rose を気にもかけずに、積み木をつみあげる娘をみながら、いい曲だな、と思った。
音楽も、同じように、どんなにいいと思っても何度も聴けば飽きる。
娘が目を丸くして聴いていた曲たちも最近以前ほど刺激的ではなくなってしまった。
まあ、こういう大きな時の流れから抹消されていく細かな事どもが、侘び寂びなんだろうけど、自分にとって好きな曲でもあっただけになんとも寂しい。
が、時はそうした感慨に耽る間を与えず、娘を更に喜ばす音楽を探すことを要求してくる。
といって、そう簡単にそんな音楽はみつかるはずもなく、少し路線を変えてみることにした。
インパクトのあるすぐにわかりやすい曲よりも、静かに心にしみていく音楽にしたのだ。
そこで選んだのが、Kieth Jarret が演奏する、My Irish Wild Rose。
一輪の花を持つときに必要な優しさをメロディにしたような可憐さが好きなのだが、今回その歌詞をみてみたら、なぜ戦争に行くのか、という男の詞だった。
男はなぜ戦争に行くのか。
以前ここの追伸で触れた元自衛隊員の国会議員が数ヶ月前に、国会で口にした、「なぜ自衛隊員が国外の危険な任務に行くとお思いか?」を思い出した。
問いを受けた麻生総理はじめそこにいた国会議員はそんな「現実的(?)」なこといわれてもと当惑しつつ答弁していたが、結論としてその元自衛隊員の国会議員は、国ために働いているという栄誉だと回答を与えて締めくくった。
が、それを聞いて僕は憮然とした。
僕だったら栄誉欲や名誉欲はあってもそのために命はかけない。
なんでこうなったのかわからないが、自分の家族がある国に属し、その国が他国ともう避けられない戦争状態にあり、当然負けた場合にはどんな窮境に直面するか分からない。
であればこそ戦争に行くはずではないのかと僕は思った。
栄誉のために戦争にいくなど僕には全く「非現実的」だった。
その点、My Irish Wild Rose は男が戦争に行く理由をよく表わしていた。
男は、「花一輪を持つときに必要とされる優しさ」を守る為に戦争に行き、そういうときこそ最も強くなる、と。
My Irish Wild Rose を気にもかけずに、積み木をつみあげる娘をみながら、いい曲だな、と思った。