社会科学上の不満

政治・経済上の不満のハケ口(左翼出入り禁止)
外交と防衛、歴史と現状についての不満のハケ口。(観念論の方は出入り禁止)

宗教的儀礼

2011-01-07 02:20:35 | 社会常識と教育

 昨年のクリスマスの出来事である。良く行くトルコレストランのマスターに「トルコ人はクリスマスをどうするのか」聞いてみた。曰く「祝うよ、かきいれ時だしね。アラブ人ほど固執しない」と言う返事だった。私が「ムスリムだからと言う意味と、サンタクロースがトルコ人のセント・ニクラウスだからその整合性をどうするのか」と聞きなおした。「ビジネスが大事よ、アラブ人は違うけれどね」と言う返答だった。

 確かに、トルコ人はアラブ人とは異なる。昔バチカンについて調べたことがあった。そこで分かったことだが、バチカンは「キリストの誕生日は不明である」としている。これが公式見解である。では「クリスマスは何のか」と言う疑問がわく。更に調べると、16~17世紀まで、日本でいえば戦国時代まで、バチカンは現在のクリスマスの日(12月24日~25日)の祝い事を数世紀にわたり禁止していた。違反者は異端審問で死刑だった。数百年間に多くの方が死刑になってきた。今では考えられないことである。

 では、なぜ多くの人が死刑を覚悟しても12月24日~25日を祝ったのだろうか。諸説あるが、多くの説が「冬至が過ぎ日の長さが長くなること」に関係しているようだ。一番この12月24日~25日を祝ったのは地中海沿岸の諸国であった。エジプトのイスシ神の復活とこの日が再び長くなることを掛け合わせて、祝っていたようだ。マルチン・ルターが聖書を印刷するまで、多くの言葉でしか「神」を説明されなかった。しかし日の長さが長くなると言う実体験は、多くの人々に「神」を身近に感じさせたことによるようだ。

 バチカンが数百年の粛清に根を上げた。「どうせ禁止できないなら利用しよう」として、今の12月25日がイエスの生まれた日とされ、キリスト教のイベントとなった。この説が現在の有力説である。

 なにも考えず、クリスマスを祝う日本人に多くの国の人が奇異に感じている、日本は多神教の国だから許されるのであろう。12~14年ほど昔、表参道のイルミネーションに右翼の街宣車がクレームをつけた。「表参道は明治神宮の参道である。なぜよその宗教を祝わねばならない」とけだし名言と思った。逆の立場ならサンピエトロ寺院で仏教や神道の行事を行うことは可能だろうか。いや一神教の聖地で他の宗教のイベント事は「宣戦布告」に等しい。

 このような事を考えたこともない日本人だからこそ、トルコで裸になり逮捕されたお笑い芸人などの非常識人を生む。日本国内でそれも飲み屋の中と言う小さな空間でしか許されない行為である。日本において、クリスマスは商業的に洗練されその意味を失った。せめてミサに言った後祝うぐらいの配慮を行ってはいかがだろうか。

コメント
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