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共育のまなざし

2021年11月08日 | 妙法

〈Switch――共育のまなざし〉 池田先生の励ましの言葉から2021年11月8日

  • 「開かれた心」を育むために

 10月16日付の「Switch――共育のまなざし」では、生まれつき障がいのある女子部員と、彼女を支える家族、また共に励まし学び合う同志への取材を通して、共生社会の未来について考えました。今回は、かつて池田先生が創価の教育者や女性リーダーたちと「開かれた心」を巡って語り合った内容から、励ましの言葉を抜粋して紹介します。(編集・構成=大宮将之)

みんなが「違う」から、すばらしい!
多様性の国・シンガポールの創価幼稚園を訪問した創立者・池田先生が「皆さんとお会いできて、うれしい!」と園児たちに笑顔で。子どもたちの後ろには、多様性の象徴である七色の虹のアーチが(2000年11月)
多様性の国・シンガポールの創価幼稚園を訪問した創立者・池田先生が「皆さんとお会いできて、うれしい!」と園児たちに笑顔で。子どもたちの後ろには、多様性の象徴である七色の虹のアーチが(2000年11月)
幸福と共生の方向へ

 <科学技術の進歩による現代社会の変化のスピードは、すさまじいものがあります。一方で、豊かな自然との触れ合いや、生身の人間との関わりが希薄になってしまってはいないか。池田先生は訴えました>
  
 今は物を買うにしても、自動販売機や通信販売など、人を介さないで手に入れることができる。パソコンなどを利用した情報通信網の発達も日進月歩です。
  
 だからこそ、いのちの通い合う「ぬくもり」が、いっそう大切になってきます。いじめや暴力に歯止めがなくなっているのも、人間が“物”のようにしか見えていないからでしょう。生命の重さに対して、鈍感になってしまっています。
  
  
 <なぜ、いじめや差別が起きてしまうのか。ある小学校教員が、自分の経験を踏まえて述懐しました。髪の毛の色が違ったり、手足が不自由だったりしても、初めからそれを排除しようとする子はいない。子どもたちは幼ければ幼いほど、「髪の毛の色」や「手足の不自由」も、単に個性と受け止めているし、一緒に仲良く遊べる。ところがいつの間にか、そうした違いを差別しようとする多数の側に、正義があるように錯覚してしまう。大人社会の風潮に染まっていくからなのか、差異を差異として、ありのままに認めず、偏見をもって対処してしまう……。
 池田先生は語りました>
  
 大人は、すぐに人を上下で見る。平等に見られない。それが、子どもにも、投影されている。弱い者に対しては、優越感をもとうと、おごり高ぶる。強い者に対してはへつらう。まさに修羅界の生命、畜生界の生命そのものです。
  
  
 <牧口先生は大著『人生地理学』の中で、日本の「閉ざされた島国根性」を厳しく批判しました。度量が狭く、排他的で、ぬきん出た人を妬み、足を引っ張る。外には尊大で、内心は臆病である――と>
  
 子どもが、そのようになったら大変です。弱者に対する思いやりを育むことが、教育の最大の目的の一つです。それと、国際化の進む現在だけに、島国根性は、乗り越えないといけない。そのためにも、異質なものを認める寛容の心を育みたいものです。
  
 ◆◇◆ 
  
 学校にもいろいろな友だちがいる。社会には、もっとさまざまな人がいます。仏法では「衆生世間」と説くけれど、「世間」とはそもそも差別・違いという意味で、「多様性」のことを示しています。その「多様性」を調和させながら、みんなを「幸福」の方向へ、「共生」の方向へと向けていくのが、人間教育ともいえる。
  

鏡に礼拝する姿

 <みんな、顔・形も性格や得意なことも違う。それが、むしろ自然です。一人として同じ人はいない。みんな違います>
  
 その違いを、「排除しようとする方向」ではなく、「認め合う方向」へと「心のベクトル(方向性)」を変えていくことが大切だね。「みんな『違う』って、すばらしい!」ということを教えていかねばならない。多様性があってこそ、社会は、さまざまに力を発揮するのです。
  
 この春(1996年3月)、お会いした、現代中国語文学の最高峰である文豪の金庸氏は、次のように語っていました。「真の『21世紀人』になるには、まず胸襟を大きく開き、自分と違ったところのある人に、差別や偏見の心を持たないことだと思います」と。
  
  
 <アメリカでは、「個性」とは「人と違う」ということ、人とは違うからこそ「自分はすばらしい」ということを、幼児の頃から徹底して教えられるそうです。そこから「他者もすばらしい」と尊重する姿勢も芽生えてくる。本来、異質なのに同質であろうとするからこそ、ひずみが生じてしまうのかもしれません>
  
 仏典には、「鏡に向かって礼拝すれば、映る姿もまた、私自身を礼拝するのである」という詩的な譬えがあります(御書769ページ、通解)。他者の生命への尊敬が、そのまま鏡に映るように、自身の生命を荘厳していく。この法理は、お互いの違うところを尊重し合いながら、自らの「個性」が磨かれていくことを教えているね。人を尊敬できる人は、人からも尊敬されます。
  

相手を尊重すれば自分の個性が磨かれる
人を尊敬できる人が人からも尊敬される
高度の「感音難聴」の女子部員(中央)が、地元の東京・新宿区の同志と朗らかに
高度の「感音難聴」の女子部員(中央)が、地元の東京・新宿区の同志と朗らかに
伸びやかな環境こそ

 <かつて池田先生が語った「だれびとにも尊い一個の人格がある。その『自尊心』を絶対に傷つけてはならない」との言葉を、ある創価の教育者は胸に刻んでいるそうです>
  
 日本では、「個人」を確立するような教育は目指されていません。むしろ、平等という名のもとに、「みんなが同じ」であることが要求されます。「個性」を尊重していくことよりも、「集団の中での振る舞い方」のほうが優先されています。牧口先生は、教育の画一化を厳しく指摘された。軍国主義教育の結果が、あの戦争でした。
  
  
 <小学校教員を務める友が、教育現場における実感を語りました。「とにかく子どもたちは一日中、走り回ってはエネルギーを発散しています(笑い)。座りなさいと言っても座らないのが子どもたちです。静かにしなさいと言っても静かにしないのが子どもたちです(笑い)。それを、一つの枠にはめようとしているのですから、どだい無理です。同質化の元凶です(笑い)」と>
  
 子どもたちへの過剰な管理は、考えものです。本来、子どもは、伸びやかな環境の中でこそ、すこやかに育つのです。
 学校で管理され、塾で管理され、習いごとで抑圧され……。子どもたちを取り巻く環境からストレスが生まれ、いじめにつながっているとしたら、まさに大人の側の責任です。
  

関西創価学園の「平和教育原点の碑」。創立者・池田先生の言葉が刻まれている
関西創価学園の「平和教育原点の碑」。創立者・池田先生の言葉が刻まれている
真の「やさしさ」とは

 <関西創価学園の指針には「他人の不幸の上に、自分の幸福を築くことはしない」とあります。今ほどこの指針が大切になっている時は、ないでしょう>
  
 「自分がしてほしくないことを、他人にしてはいけない」という心が育てば、それを糸口に、友だちを思いやる心も大きく培われていくでしょうね。
  
 現代っ子は、概して「やさしい」と言われます。しかし、仲がよい間柄でも、相手が困った時に、相談相手になったり、積極的にかかわろうとしない傾向が見受けられる。子どもだけじゃなく大人も、かかわりを恐れる、勇気のない社会になっているね。それを放っておくと、深刻ないじめになる可能性もあります。
  
 牧口先生が指摘された「島国根性」も、「島国」が自然に「島国根性」をつくった面もあろうが、「島国根性」がさらに「閉鎖的な島国」をつくった。つまり、海を“壁”と見るか、それとも“わが庭”と見るか。「心」のあり方で、180度、変わるのです。牧口先生が一貫して育まれようとしたのも、「開かれた心」でした。未来を潤す「開かれた心」。それを育てる“母なる海”こそ「教育」だね。
  
 ◆◇◆ 
  
 教育は「心」で決まります。教育者は「時代の毒」と戦わねばなりません。いじめの問題も、結局は「心」です。「心」を育て、鍛えるには、「心」しかありません。「心」が通えば、「力」に変わる。「力」を出せば、必ず「道」は開けてきます。
  
 ◆◇◆ 
  
 教育とは、学校で教わったことをすべて忘れた後に、なお残るものだ――と言った科学者がいますが、深くかみしめたいものです。

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