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小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 御書編

2020年08月19日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 御書編  2020年8月19日

  •  
  • 連載〈世界広布の大道〉
絵・間瀬健治
 
絵・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第22巻の「御書編」。小説で引用された御書、コラム「ここにフォーカス」と併せて、識者の声を紹介する。挿絵は内田健一郎。
  

 

 
広布のだいせいがん
【御文】

 

 日蓮とどうならばさつたらんか(御書1360ページ、しょほうじっそうしょう

【通解】

 

 日蓮と同意であるならば、さつであることはちがいないであろう。

【小説の場面から】
【小説の場面から】

 <人材育成グループ「五年会」の第3回総会で、山本伸一は、師弟について語る>
  
 「日蓮大聖人と『同意』であることが、信心の根本です。その大聖人の御心のままに、広宣流布の大誓願に生き抜いたのが、牧口先生、戸田先生に始まる創価の師弟です。
  
 ゆえに、創価の師弟の道を貫くなかに、大聖人と『同意』の実践があります。具体的な生き方でいえば、自分の心の中心に、常に厳として師匠がいるかどうかです」(中略)
  
 初代会長の牧口常三郎も、第二代会長の戸田城聖も、国家神道を精神の支柱にして戦争を遂行しようとする、軍部政府の弾圧によって投獄された。(中略)戸田は、日蓮大聖人の御金言通りに、広宣流布のために戦う牧口に、勇んで随順したのだ。そこに、「日蓮と同意」という御聖訓に則った、現代における実践がある。(中略)
  
 戸田は、牧口という師と同じ心、同じ決意に立つことによって、地涌の菩薩としての使命を自覚することができたのだ。伸一は、この牧口と戸田の師弟の絆について触れ、若い魂に呼びかけた。
  
 「私は、その戸田先生に仕え、お守りし、共に広宣流布に戦うなかで、自分の地涌の菩薩の使命を知りました。創価学会を貫く信仰の生命線は、この師弟にあります。
  
 どうか諸君も、生涯、師弟の道を貫き、この世に生まれた自身の崇高な使命を知り、堂々たる師子の人生を歩み抜いていただきたいのであります」
(「波濤」の章、202~204ページ)
  
  

 
創価学会は個人の中に
【御文】

 

 ひゃくそうりていちがんない百丸となせり一丸も百丸もともやまいすることこれをなじ(御書1121ページ、じょうきん殿どのへん

【通解】

 

 百のやくそうをすっていちがんあるいは百丸のくすりとする。一丸も百丸もともやまいなおすことは同じである。

 
【小説の場面から】

 <1975年(昭和50年)11月9日、山本伸一は、広島で開催された第38回本部総会で講演。広布の使命と自覚について語る>
  
 「皆さん方、一人ひとりが、創価学会そのものです。それ以外には、創価学会の実体はありえないと確信していただきたい。
  
 また、一人ひとりに、それだけの、尊い使命と資格があると説いているのが、日蓮大聖人の仏法であります」
  
 自分自身が創価学会なのだ。そして、自分の周りの同志との絆が、自分のブロックが、創価学会なのだ。ゆえに、自身が成長し、友のため、社会のために尽くし、貢献した分だけが、広宣流布の前進となるのである。
  
 自分が立ち上がり、勝っていく以外に、学会の勝利はない。
  
 社会の組織は、集団のなかに埋没するようにして個人がいる。しかし、学会は、それぞれの個性の開花をめざす、異体同心という人間主義の組織である。
  
 その組織の目的は、広宣流布の推進にある。それは、生命の哲理を人びとの胸中に打ち立て、人間の尊厳を守り、輝かせていく聖業なのだ。
  
 私たちは、組織のなかの個人というだけでなく、自身の規範、誇り、勇気の源泉として、それぞれの心の中に、創価学会をもっている。
  
 つまり、個人のなかに創価学会があり、その自覚が、各人の心中深く根を張っていることに、学会の強さがあるのだ。
(「命宝」の章、362~363ページ)
  
  

 <1975年(昭和50年)11月9日、山本伸一は、広島でかいさいされた第38回本部総会で講演。広布の使命と自覚について語る>
  
 「みなさんがた、一人ひとりが、創価学会そのものです。それ以外には、創価学会の実体はありえないと確信していただきたい。
  
 また、一人ひとりに、それだけの、とうとい使命と資格があるといているのが、日蓮大聖人の仏法であります」
  
 自分自身が創価学会なのだ。そして、自分のまわりの同志とのきずなが、自分のブロックが、創価学会なのだ。ゆえに、自身が成長し、友のため、社会のためにくし、こうけんしたぶんだけが、広宣流布の前進となるのである。
  
 自分が立ち上がり、勝っていく以外に、学会の勝利はない。
  
 社会の組織は、集団のなかにまいぼつするようにして個人がいる。しかし、学会は、それぞれの個性の開花をめざす、たいどうしんという人間主義の組織である。
  
 その組織の目的は、広宣流布のすいしんにある。それは、生命のてつを人びとのきょうちゅうに打ち立て、人間のそんげんを守り、かがやかせていくせいぎょうなのだ。
  
 私たちは、組織のなかの個人というだけでなく、自身のはんほこり、勇気のげんせんとして、それぞれの心の中に、創価学会をもっている。
  
 つまり、個人のなかに創価学会があり、その自覚が、各人の心中深く根をっていることに、学会の強さがあるのだ。
(「みょうほう」の章、362~363ページ)
  
  

ここにフォーカス 「いよいよ」の心意気
ここにフォーカス 「いよいよ」の心意気

 20世紀を代表する歴史学者トインビー博士は、1967年(昭和42年)11月、実業家の松下幸之助氏と対談した折、「これからの日本にとって一番大切な人は誰か」と尋ねます。この問いに、松下氏は池田先生の名を挙げました。
  
 氏が先生と初めて会ったのは、その1カ月前の67年10月に行われた東京文化祭。役員の対応、一糸乱れぬ演技とともに、氏の胸を打ったのは、先生の心遣いでした。
  
 多くの来賓の対応で多忙な中、先生は担当者を氏のもとに向かわせ、「なにか不都合はありませんか」等と伺います。この対応に、氏は「なんでもないことのようだが、(中略)そこまで心をくばっておられることに私は驚いた」と振り返っています。
  
 「新世紀」の章に、「人との出会いは『一期一会』」「渉外は、誠実をもってする真剣勝負」とあります。この伸一の信念が、氏の心に感動を呼び起こしたのです。
  
 88年(同63年)1月、還暦(60歳)を迎えた伸一に、氏は「本日を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ『創価学会』をお作りになられる位の心意気で」と祝詞を贈りました。
  
 今年の10月2日は、池田先生の海外初訪問から60周年の佳節。私たちも「いよいよ」との決意で世界平和を誓い、祈り、わが地域から新たな歴史の一歩を刻みましょう。

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 共戦の「札幌・夏の陣」

2020年08月19日 | 妙法

〈第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶〉第13回 共戦の「札幌・夏の陣」 2020年8月18日

 
 
「札幌・夏の陣」の“本陣”となった旅館での一こま。池田先生と心を合わせた「団結」と「勢い」が歴史的な拡大の原動力となった(1955年8月)

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 65年前の夏、北の大地に偉大な民衆勝利の一歩が刻まれた。
 1955年(昭和30年)8月、広布拡大の布石を打つべく全国45カ所に派遣隊が赴き、「夏季地方指導」が実施された。
 北海道・札幌への派遣隊の中心者は、27歳の池田先生だった。
 一行の札幌入りは、8月16日のこと。先生は出迎えた同志に語った。「戦いは勝ったよ!」
 力強い宣言には確かな根拠があった。わずか10日間の短期決戦。先生は入念な準備を重ねていた。
 派遣の1カ月以上前から、札幌のリーダーに重ねて手紙を送付。手紙は回覧され、同志は勝利のためのきめ細かな布石を打ち続けた。最前線の友を徹底して激励。皆が勇気を振り絞り、下種を大きく広げた。“本陣”となる旅館に先生が着いた時には、札幌を五つの区域に分けて成果を書き込むグラフがすでに用意されていた。
 戦いは、毎朝の勤行と御書講義から始まった。先生は「生死一大事血脈抄」などを拝して、地涌の使命の大きさを力説。誰もが広布開拓の喜びをかみ締め、仏法対話へと飛び出していったのである。
 先生は同志の運転するスクーターの後部座席に乗り、座談会場を何カ所も回った。未舗装の道が多く、揺れる座席で“札幌の同志に勝利を”と祈り、小声で題目を唱え続けたという。
 同志の心が一つになった戦いの結果は如実に現れた。初日、50人が入会を希望。友の前進は加速する。20日には早くも目標の300世帯を達成。24日には、戸田先生を迎えて大会を開催。札幌が「班」から「地区」に発展することが発表され、歓喜に沸いた。
 そして札幌の折伏成果は388世帯に。派遣隊が訪れた全45地域中、堂々の日本一に輝いた。約500世帯の札幌の会員数は、一気に倍増に迫る勢いだった。
 その栄光の歴史は「札幌・夏の陣」の名で語り継がれる。
 戦いは勝つべくして勝つ!――師弟の広布史に刻まれた“夏の陣”の闘魂は今、三代城・北海道の同志の生命に流れ通っている。

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小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 名場面編 2020年8月12日

2020年08月12日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 名場面編 2020年8月12日

 

  • 連載〈世界広布の大道〉
絵・間瀬健治
 
絵・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第22巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎。
 

 
師へのちかいが会館建設のいしずえ

 〈1975年(昭和50年)ごろから、学会は会館の整備にも力を注いだ。会館というと、山本伸一には、戸田城聖の事業が窮地に陥った時の、忘れられない思い出があった〉

 ある日、戸田と伸一は日比谷方面に出かけた。どしゃ降りの雨になった。傘もなく、タクシーもつかまらなかった。全身、ずぶ濡れになった戸田を見て、伸一は胸が痛んだ。弟子としていたたまれぬ思いがした。
 目の前に、GHQ(連合国軍総司令部)の高いビルがそびえ立っていた。そのビルを見上げて、伸一は戸田に言った。
 「先生、申し訳ございません。必ず、将来、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための立派なビルも建てます。どうか、ご安心ください」
 弟子の真剣な決意を生命で感じ取った戸田は、嬉しそうにニッコリと頷いた。(中略)
 戸田は、会員のために、一刻も早く、広い立派な建物をつくりたいと念願していた。皆に申し訳ない気持ちさえ、いだいていた。
 しかし、そんな戸田の心も知らず、「学会も早く本部をつくらなければ、何をやるにも不便で仕方ありませんな。そろそろ、世間があっと驚くような、建物の一つももちたいものですね」などと言う幹部もいた。
 すると、戸田は強い口調で語った。
 「まだよい。かたちばかりに目を奪われるな。私のいるところが本部だ! それで十分じゃないか。今は建物のことより、組織を盤石にすることを考えなさい」
 山本伸一は、そんな戸田の言葉を聞くたびに、心に誓っていた。
 “先生、私が頑張ります。一日も早く、気兼ねなく皆が集える、独立した本部をもてるようにいたします”
 一九五三年(昭和二十八年)十一月、新宿区信濃町に学会本部が誕生した時、戸田はまるで、子どものような喜びようであった。(中略)
 戸田は伸一に言った。
 「将来は、日本中に、こんな会館が建つようにしたいな」
 伸一は、その言葉を生命に刻んだ。
 そして今、かつての学会本部をはるかにしのぐ、幾つもの大会館を、各県区に、つくれるようになったのである。
 (「新世紀」の章、11~15ページ)
 

 

真心の手紙は友のたましいしょくはつ

 〈7月、ハワイで行われたパレードに、支部結成間もない、ニカラグアのメンバーが参加し、喝采を浴びた。支部婦人部長の山西清子は、帰国後、山本伸一に感謝の手紙を送る〉

 すると、多忙を極める伸一に代わって、峯子から長文の返事が届いた。
 「お便り嬉しく拝見いたしました。ハワイでお元気な姿に接し、また、五人もの同志が参加なさいましたことは、条件の違いを考えますと、日本ならば五百人にも相当するものであったと思います。ニカラグアの初のパレードに対し、私どもも目頭を熱くしながら、拍手を送らせていただきました」
 山西の手紙に対して、伸一は峯子に、自分の真情を語り、返書を認めるように頼んだのである。峯子からの手紙は、伸一の心でもあった。彼らは常に、こうした二人三脚ともいうべき呼吸で、広宣流布の仕事を成し遂げてきた。(中略)
 山西への手紙に、峯子は記した。
 「ニカラグアは、今、最も重要な、そして、大変な、土台づくりの時を迎えていると思います。どうか、焦らず、着実に、堅固な土台をつくっていってください。(中略)メンバーの要となり、懸命に奔走される姿に、本当によくなさっていると、敬服しております」(中略)
 さらに、手紙には、伸一の激闘の模様をはじめ、日本の同志が、どういう思いで活動に取り組んでいるのかも、綴られていた。
 「世間では、不況がますます深刻になりつつあります。学会員の皆さんは『こういう時こそ、信心している人は違うという事実が、はっきりする時だ!』と、一段と元気に、仏法対話に励んでおります」
 そして、「末筆ながら、ご主人様に、よろしくお伝えくださいませ。また、皆様にも、よろしくお伝えくださいませ。御一家の御健康、御繁栄を心よりお祈りいたします。会長から、くれぐれも皆様によろしくとのことでございました」と結ばれていた。
 山西は、この手紙を涙で読んだ。
 “先生と奥様は、私たちのことも、みんな知ってくださっている。日本から遠く離れたニカラグアも、先生のお心のなかにある。先生も、奥様も、いつも、見守ってくださっている。頑張ろう。頑張り抜こう”(中略)
 生命の言葉は、人の魂を触発する。
 (「潮流」の章、186~188ページ)
 

 

しんらいきずなでつくる人間組織

 〈9月、女子部の人材育成グループ「青春会」の結成式が行われた。山本伸一は、参加者の質問に答え、未来を託す思いで、渾身の力をふりしぼるように指導する〉

 質問は、さらに何問か続いた。いずれも、組織をどう発展させるかなど、広宣流布への一途な思いを感じさせる質問であった。
 伸一は、未来への希望と力を感じた。
 彼は、皆の質問に答えて、組織としての運動の進め方などについて述べたあと、最後に、魂を打ち込むように訴えた。
 「組織といっても、人間関係です。あなたたちが、自分の組織で、一人ひとりと、つながっていくんです。単に組織のリーダーと部員というだけの関係では弱い。周りの人たちが、姉のように慕ってくるようになってこそ、本当の人間組織です。
 組織を強くするということは、一人ひとりとの、信頼の絆をつくっていく戦いです。あなたたちが皆から、“あの人に励まされ、私は困難を克服した”“あの人に勇気をもらった”と言われる存在になることです。
 私も、そうしてきました。全学会員とつながるために、常に必死に努力しています。
 なんらかのかたちで、激励する同志は、毎日、何百人、何千人です。この絆があるから、学会は強いんです。
 その人間と人間の結合がなくなれば、烏合の衆になる。学会は、滅びていきます。この点だけは、絶対に忘れないでほしい」
 皆、真剣な顔で、瞳を輝かせていた。
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「では、みんなで写真を撮ろう。これは、大事な、誓いの証明写真だ」
 伸一は、メンバーを前に並ばせ、自分は、後列に立った。フラッシュが光り、シャッター音が響いた。
 写真撮影が終わると、彼は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「もし、ほかの人が誰もいなくなっても、このメンバーが残ればいいよ。私がまた、一千万にするから。一緒にやろう。みんな、何があっても、退転だけはしてはいけないよ」
 (「波濤」の章、299~300ページ)
 

 

はげまし」は創価の生命線

 〈11月、山本伸一は広島を訪問。当初予定のなかった呉を訪れ、勤行会を行う。広島市への帰途も、車中から激励が続く〉

 途中、生花店の前に、十人ほどの人たちが、人待ち顔で道路の方を見て立っていた。婦人や壮年に交じって、女子中学生や女子高校生もいた。
 伸一は、運転手に言った。
 「“うちの人”たちだよ。ちょっと、車を止めてくれないか」
 呉会館の勤行会に、間に合わなかったために、「せめて、ここで、山本会長をお見送りしよう」と、待っていた人たちであった。そこに黒塗りの乗用車が止まった。窓が開き、伸一の笑顔がのぞいた。歓声があがった。
 女子中学生の一人が、抱えていたユリやバラなどの花束を差し出した。伸一に渡そうと、用意していたのだ。
 「ありがとう! 皆さんの真心は忘れません。また、お会いしましょう」
 伸一は、こう言って、花束を受け取った。
 ――それから間もなく、そこにいた人たちに、伸一から菓子が届いた。
 また、しばらく行くと、バスの停留所に、何人かの婦人たちがいた。はた目には、ただ、バスを待っている人にしか見えなかった。
 「今、バス停に、“うちの人”が五人いたね。念珠と袱紗を贈ってあげて」
 伸一の指示を無線で聞いた後続車両の同行幹部が、念珠などを持って停留所に駆けつけると、確かに五人の婦人たちは、皆、学会員であった。同行幹部の驚きは大きかった。
 学会員は、皆が尊き仏子である。皆が地涌の菩薩である。その人を、讃え、守り、励ますなかに、広宣流布の聖業の成就がある。
 ゆえに、伸一は、大切な会員を一人として見過ごすことなく、「励まし」の光を注ごうと、全生命を燃やし尽くした。だから、彼には、瞬時に、学会員がわかったのである。
 「励まし」は、創価の生命線である。
 彼は、その会員厳護の精神を、断じて全幹部に伝え抜こうと、決意していたのである。(「命宝」の章、401~402ページ)

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小説「新・人間革命」学習のために 第16巻  

2020年08月07日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第16巻  2020年8月7日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第16巻を掲載する。次回の第17巻は21日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

 
さつ”の使命忘るな

 <1972年(昭和47年)1月、山本伸一は、第1回全国大学会総会の会場近くで参加者を激励。大学卒業後、2年間信心から離れていた青年であった>

 「すべてのものには使命がある。花は咲くことを使命とし、太陽は輝き、暖かな光を送ることを使命としている。水は流れ、清め、潤すことが、使命といってよい。

 君も、私も、広宣流布という本然の使命をもって、この世に出現した地涌の菩薩なんだ。その自己の使命を果たさないということは、開花せぬ花であり、輝かぬ太陽のようなものだ。それでは、真の充実や歓喜などあるはずがない。

 仕事に力を注ぎ、職場の第一人者になることは大切です。しかし、なんのための人生かを忘れてはならない。それは、人びとと社会に貢献するためです。この世から不幸を追放し、万人に幸福と平和をもたらす、広宣流布をなしゆくために、私たちの人生はある。

 この広宣流布という根本目的を忘れずに、職場の勝利者となり、立派な家庭を築き、信頼と幸福の実証を示していくことが大事なんです。それが、仏法の力の証明になるからです」

 山口は、盛んに瞬きをし、相槌を打ちながら伸一の話を聞いていた。素直だが、気の弱そうな感じの青年であった。

 「信心を離れて、本当の生命の充実も、歓喜もありません。どんなにお金を稼ごうが、社会的に偉くなろうが、それだけでは、最後に残るのは空しさであり、老いや死に対する不安と恐怖です。生老病死という人間の根本的な苦悩を解決できるのは、仏法しかありません」

 伸一は、なんのための信心かを、山口にわかってほしかったのである。

 (「入魂」の章、15~16ページ)

 
いっさいをプラスに転ずるてつがく

 <1月、東京・新宿区の記念撮影会で伸一は、婦人たちに語る>

 「皆さんは、“今日は大事な記念撮影会なのに雨になってしまった。残念だ”と思われていることでしょう」(中略)

 「いっさいをよい方向に考え、さらに前へ、前へと、進んでいくことが大事です。
 時には、祈っても、思い通りにならない場合もあるかもしれない。でも、それは、必ず何か意味があるんです。最終的には、それでよかったのだと、心の底から、納得できるものなんです」

 仏法は、価値創造の源泉である。それは、直面するすべての事柄を、喜びに、希望に、感謝に、勝利にと転じていく智慧から始まるといえる。(中略)

 「たとえば、仮に雪が降ったとします。“寒いし、滑りやすいので、いやだな”と思ってしまえば、すべてが苦痛になってしまう。しかし、“めったに見られない雪景色を見ることができる。子どもたちに雪ダルマをつくってやることができる。楽しい思い出になる”ととらえれば、その瞬間から喜びに変わります。

 要は、どんなことがあっても、そこに、何か意味を、喜びを、見いだして、勇んで挑戦していくことが、価値の創造につながるんです。それには、人生の哲学と智慧、そして、生命力が必要になる。実は、そのための信心なんです」

 物事をどうとらえるかが、「哲学」である。一つ一つの事柄を悲観的にみるか、楽観的にみるか。否定的にみるか、肯定的にみるか――で、人の生き方は全く異なってくる。

 仏法で説く、「変毒為薬」「煩悩即菩提」「生死即涅槃」等の原理は、マイナスをプラスに転ずる哲学であり、そこに立脚する限り、行き詰まりはない。

 (「入魂」の章、38~39ページ)

 
「さあ、仕事を続けよう!」

 <5月、伸一は、イギリスの歴史学者トインビー博士の要請を受け、博士の自宅で対談を開始。伸一は博士の座右の銘を尋ねる>

 博士は即座に答えた。

 「ラテン語で『ラボレムス』。“さあ、仕事を続けよう”という意味の言葉です」

 博士は、この言葉の背景も語ってくれた。

 ――それは、二世紀末から三世紀初頭のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに由来する箴言である。彼は、遠征先のブリタニア(イギリス南部)で病に倒れた。重病である。皇帝は死期の近いことを悟った。皇帝は、毎日、彼の率いる軍隊に、モットーを与えることを常としていた。そして、まさに死なんとする日も、自らの任務を遂行した。その時、彼が全軍に与えたモットーが「ラボレムス!」(さあ、仕事を続けよう)であった。

 伸一は感嘆した。

 「すばらしいモットーです。短い言葉のなかに責任感や持続の精神が凝結しています。博士の生き方そのもののように思えます」

 彼には、最後の最後まで「ラボレムス!」と叫んだ皇帝の姿と、八十三歳にして、今なお、人類の未来のために働き続けようとする博士の生き方が、完全に重なり合っているように思えた。

 弛まざる前進のなかにこそ、人間性の勝利がある。戦い続けることこそが生の証なのだ。

 伸一は重ねて尋ねた。

 「今、最もなさりたいことは何でしょうか」

 博士は力強く答えた。

 「私とあなたが、今、この部屋でしていることです。この対話が意味するものは、人類全体を一つの家族として結束させる努力です。人類が生存を続けるためには、全人類が単一の大家族になっていかねばならないと、私は信じるからです」

広布の苦労はすべて福運に

 <7月、山形の友との記念撮影会に臨んだ伸一は、青年時代に勤務していた大東商工近くの市谷食堂で働いていた婦人と再会。入会し、学会のリーダーとして奔走する彼女を励ます>

 「中心者というのは、日々、みんなのため、広布のために、個人指導に、折伏にと、走り回らなければならない。身も心も、休まる暇なんかないでしょう。しかし、皆を幸福にする使命と責任があるだけに、どんなに大変であっても、投げ出すわけにはいかない。でも、あえて、そこに挑んでおられるから、尊く、偉大なんです。そのなかにこそ、真実の菩薩の、また、仏の生命の輝きがあるんです。(中略)

 同じ学会活動をしていても、自由な立場で、気ままに動いている人もいるでしょう。そうした人を見て“いいな”と思うこともあるかもしれないが、苦労した分だけ、すべて自らの功徳、福運になる。それが、仏法の因果の理法であり、そのことを確信できるかどうかです」

 仏法は、生命の因果の法則を説き明かし、幸福への智慧と力が、すべて自分自身の生命にあることを教えている。(中略)

 ゆえに、学会員は(中略)皆が「冥の照覧」を、そして「陰徳あれば陽報あり」(御書1178ページ)の御文を確信し、わが信念としてきたのだ。

 だから、世間的な利害や損得をかなぐり捨て、広宣流布のため、仏法のために、勇んで苦労を買って出た。信心のことで、楽をしようとか、よい思いをしようなどとは、決して考えなかった。

 皆が、財もいらない、地位もいらない、名誉もいらないとの思いで、ただ、ただ、広宣流布のために走り抜いてきたのである。

 そこにこそ、創価学会の強さがあり、清らかさがあり、正義がある。

 (「羽ばたき」の章、243~245ページ)

 

変毒為薬の仏法
 
「昭和47年7月豪雨」で被害のあった秋田の友を励ます池田先生(1972年7月、秋田市) 
「昭和47年7月豪雨」で被害のあった秋田の友を励ます池田先生(1972年7月、秋田市) 
 

 <1972年(昭和47年)の7月は大雨が続き、「昭和47年7月豪雨」と呼ばれ、全国各地で大きな被害が出た。「羽ばたき」の章には、秋田を訪れた山本伸一が、救援対策の手を打ちながら、同志を励ます場面が描かれている>
     
 「今回、水害に遭われた方は、本当にお気の毒です。心から、お見舞い申し上げます。

 大事なことは、ここから、どうしていくかです。落胆して、自暴自棄になったり、諦めてしまうのか。それとも、“負けるものか”“今こそ信心の力を証明するのだ”と、敢然と立ち上がるのかです。その一念で幸・不幸は大きく分かれます。

 長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、病気、事故、愛する人の死など、さまざまな窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであるといっても、決して過言ではない。

 では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の真の勝利を飾れるのか。

 仏法には『変毒為薬』つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです。信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これを大確信することです。

 この原理は、見方を変えれば、成仏、幸福という『薬』を得るには、苦悩という『毒』を克服しなければならないことを示しています。いわば、苦悩は、幸福の花を咲かせゆく種子なんです。だから、苦難を恐れてはなりません。敢然と立ち向かっていくことです。

 私たちは、仏の生命を具え、末法の衆生を救済するために出現した、地涌の菩薩です。

 その私たちが、行き詰まるわけがないではありませんか。人は、窮地に陥ったから不幸なのではない。絶望し、悲観することによって不幸になるんです」(中略)

 「もう一つ大事なことは、自分が今、窮地に陥り、苦悩しているのはなんのためかという、深い意味を知ることです。もし、災害に遭った同志の皆さんが、堂々と再起していくことができれば、変毒為薬の原理を明らかにし、仏法の偉大さを社会に示すことができる。実は、そのための苦難なんです。

 どうか被災した方々にこうお伝えください。

 『断じて苦難に負けないでください。必ず乗り越え、勝ち越えてください。私は真剣に題目を送り続けております』と」

 伸一は必死であった。

 (251~252ページ)

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 聖教電子版の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」第16巻「解説編」の池田博正主任副会長の紙上講座と動画を閲覧できます。

 第16巻「解説編」はこちら。

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小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 基礎資料編  

2020年08月05日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第22巻 基礎資料編  2020年8月5日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第22巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎。
  

【物語の時期】1975年(昭和50年)5月30日~12月29日
 
「新世紀」の章

 1975年(昭和50年)6月、山本伸一は「新世紀」への飛翔のために、東京各区をはじめ、各地の首脳幹部との協議会に力を注ぐ。新会館の建設や記念行事の開催の決定など、新しい前進の目標が打ち出される。
 7月3日、戸田第2代会長の出獄30周年記念集会で伸一は、恩師が提唱した「地球民族主義」の大構想を実現するため、命の限り走り抜くとあいさつする。
 青年部は、7月に男子部、女子部の結成記念日を迎えることから、「聖教新聞」で、座談会「青年が語る戸田城聖観」を連載開始。師と共に新しい時代を開く青年の熱意があふれる紙面となった。
 また、伸一と文学界の巨匠・井上靖との手紙による語らいが、「四季の雁書」として月刊誌「潮」7月号から連載を開始。生死の問題をはじめ、幅広い対談は12回にわたり、77年(同52年)に単行本として結実する。
 さらに、伸一は、“経営の神様”といわれる松下幸之助とも、出会いを重ね、書面を通しての語らいを進めてきた。人間の生き方から、日本、世界の進路など、テーマは多岐にわたり、75年の10月、往復書簡集『人生問答』が発刊に至る。
  

 
ちょうりゅう」の章

 7月22日、山本伸一は、第12回全米総会を中心とした「ブルー・ハワイ・コンベンション(大会)」に出席するため、ホノルルへ。この大会は、アメリカ建国200年の前年祭記念行事として開催されることになり、大統領からもメッセージが寄せられていた。
 23日、伸一は、大会のコントロールセンターの開所式に臨み、スタッフを激励。その夜には、アルゼンチン、広島などの交流団の代表を、24日にはブラジル、ペルーの代表を宿舎に招いて懇談する。
 26日の全米総会には州知事も出席。伸一は、異民族同士の共存を可能にしてきたハワイの「アロハの精神」こそ、仏法で説く「慈悲」「寛容」に通じると述べる。その夜の記念パレードには、伸一との約束を果たし、5人が参加したニカラグアのメンバーの姿も。大会の最終日には、アメリカの建国の精神と歴史をうたい上げたミュージカルが披露された。
 伸一は、行事の合間も来賓との会見を重ね、29日には、大会を陰で支えたメンバーの労をねぎらう。
 15年前に、世界広布の第一歩をしるしたハワイから、再び平和の新しい「潮流」が起ころうとしていた。
  

 
とう」の章

 山本伸一は、ハワイから帰国すると、創価大学での夏季講習会で陣頭指揮を執る。8月3日の「五年会」の総会、4日の高等部総会での渾身の指導をはじめ、5日には総会に集った中等部員を、6日には少年・少女部員を見送るなど、激励を続ける。
 東京男子部の講習会では、外国航路で働く船員の集いである「波濤会」のメンバーと記念撮影。「波濤会」は、1971年(昭和46年)に結成された。大しけで遭難した貨物船の乗組員全員を救助し、総理大臣表彰を受けた「だんぴあ丸」の船長など、多くの人材が育つ。また、不況にあえぐ海運業界を勇気づけようと企画した「波濤会」の写真展は海外でも開催され、共感の波を広げる。
 9月9日、女子部学生局の幹部会に出席した伸一は、夜の会合の終了時間を午後8時30分とする「8・30運動」を提案。28日には、女子部の人材育成グループ「青春会」結成式へ。新時代の女性リーダーを育成するこの会は、その後、各方面でも結成される。伸一は21世紀を託す思いで魂を打ち込む。やがて広布の枢要な立場で活躍するメンバーや社会で重責を担う人材が育っていく。
  

 
みょうほう」の章

 この世で最も尊厳な宝は、生命である。山本伸一は、9月15日、ドクター部の総会に初めて出席。この日は、「ドクター部の日」となる。
 11月7日夕刻、広島入りした伸一は、落成間もない広島文化会館を視察。夜には開館式に出席する。8日には、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し、祈りを捧げる。
 9日、被爆30年を迎えた広島で本部総会を開催。伸一は、この地上から一切の核兵器が絶滅する日まで、最大の努力を傾けることを宣言し、広島での国際平和会議の開催など、具体的な取り組みを提案する。さらに、創価学会の社会的役割などに言及し、講演は1時間20分にも及んだ。終了後、来賓のレセプションを終えた伸一は、広島未来会第2期の結成式へ。少年少女合唱団も招き、交流のひとときをもつ。
 10日には、海外メンバーの歓迎フェスティバル、原爆犠牲者の追善勤行会などが続くなか、広島会館へ。会館前の民家の主人とも対話を交わす。11日、予定を変更し、呉会館を初訪問。駆け付けたメンバーと勤行する。また、広島文化会館に戻る途次にも、学会員を見つけては、励ましを送る。

 

 

【山本伸一の平和旅】1975年7月 アメリカ・ハワイ
 
浮島の舞台が設置された第12回全米総会(1975年7月、ハワイで)
浮島の舞台が設置された第12回全米総会(1975年7月、ハワイで)
 
ホノルル市内の会館で各種行事を支えたメンバーと勤行した後、ガーデンパーティーで激励する(1975年7月、ハワイで)
ホノルル市内の会館で各種行事を支えたメンバーと勤行した後、ガーデンパーティーで激励する(1975年7月、ハワイで)
 
【山本伸一の激励行】
 
とう
海外航路に従事する船員のグループ「波濤会」のメンバーと、記念撮影に臨む(1975年8月、創価大学で)
海外航路に従事する船員のグループ「波濤会」のメンバーと、記念撮影に臨む(1975年8月、創価大学で)
 
女子学生部
女子部学生局(当時)の幹部会に出席(1975年9月9日、東京の旧・創価文化会館で)。この日が後に「女子学生部の日」に制定される
女子部学生局(当時)の幹部会に出席(1975年9月9日、東京の旧・創価文化会館で)。この日が後に「女子学生部の日」に制定される
 
ドクター部
東京・信濃町の学会本部で開催された第3回ドクター部総会(1975年9月15日)。これが「ドクター部の日」の淵源となった
東京・信濃町の学会本部で開催された第3回ドクター部総会(1975年9月15日)。これが「ドクター部の日」の淵源となった
 
広島
激務の合間を縫って、広島・呉会館を訪れる池田先生。来訪を心待ちにしていた同志を激励(1975年11月)
激務の合間を縫って、広島・呉会館を訪れる池田先生。来訪を心待ちにしていた同志を激励(1975年11月)
 
【識者との語らい】
文豪・井上靖氏㊧と池田先生が語り合う(1975年3月、旧・聖教新聞本社で)。両者は、月刊誌「潮」で往復書簡を連載。後に『四季の雁書』として発刊された
文豪・井上靖氏㊧と池田先生が語り合う(1975年3月、旧・聖教新聞本社で)。両者は、月刊誌「潮」で往復書簡を連載。後に『四季の雁書』として発刊された
 
芳名録に記帳するパナソニック創業者の松下幸之助氏㊧(1980年12月、東京・創価国際友好会館<当時>で)。池田先生と松下氏は67年に初めて出会って以降、親交を深める。両者の往復書簡は『人生問答』として出版された
芳名録に記帳するパナソニック創業者の松下幸之助氏㊧(1980年12月、東京・創価国際友好会館<当時>で)。池田先生と松下氏は67年に初めて出会って以降、親交を深める。両者の往復書簡は『人生問答』として出版された
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